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終戦から71年。長岡空襲の史跡をたどって

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学ぶ長岡
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2016年 8月 15日 | な!ナガオカ スタッフ

8月15日は終戦記念日であるとともに、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」です。長岡市は1945年7月20日に模擬原子爆弾パンプキンの投下と、8月1日の長岡空襲により、1480余名の犠牲者を出しました。この歴史を忘れないために、長岡市にある6つの空襲の史跡をたどってみました。

 

新潟市への原爆投下訓練だった
「模擬原子爆弾投下地点の碑」

フェニックス大橋と長生橋の間、左近町の永代橋近く(→Map)に設置されているのが「模擬原子爆弾投下地点の碑」です。1945(昭和20)年7月20日午前8時13分。ここ左近の畑に「パンプキン」と呼ばれる1発の「模擬原子爆弾」が投下され、4人の人々が亡くなり、5人の重軽傷者を出しました。

模擬原子爆弾「パンプキン」は長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」とほぼ同じ形、重量の爆弾で、原爆投下にむけた乗員の訓練と、弾道特性などのデータを採取することを目的に、7月20日から8月14日にかけ、米軍機により全国で49発投下されたことがわかっています。投下目標とされたのは原爆の投下候補地の周辺エリアにある軍需・民間工場など。長岡が選ばれたのは、投下候補地だった新潟市の周辺エリアであったからです。また、模擬原子爆弾の投下は爆撃手の目視で行われることになっており、雲が多く目視ができない場合は、目標地点と違う場所に落とされることもままありました。左近に落とされたのも、本来は北部工業地帯の津上製作所が目標とされていましたが、当日の天候で目視が効かず、長生橋を蔵王橋と誤って、この地点に落としたとも言われます。

今も畑が広がり、空が広々と開けた地点で、誤って落とされた爆弾により、命を失った人々がいる理不尽さを思わずにいられません。

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「模擬原子爆弾の図」が刻まれた碑。

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このあたりは、三尺玉の絶景ポイントとしても知られる場所。もし当日がこの日のように晴れた空なら歴史はどう変わっていたのでしょうか。

 

あまりにも多くの犠牲者を悼む
「柿川戦災殉難地の碑」

左近の模擬原爆投下から12日後の8月1日22時30分、長岡の市街地を目標としてB29による焼夷弾爆撃が始まりました。1時間40分におよぶ無差別爆撃で、市街地の8割が焦土と化し、1480余名の尊い命が失われました。

炎に追われ、多くの人が逃げ込んだのが柿川や神社に作られた防空壕でした。

長岡空襲の有様について、当時の長岡警察署の警部の『戦災メモ』には、次のように記されています。
「2日の朝早々に市内をひとめぐりして平潟神社の境内に足をとめた。言いようのない臭気が鼻をつく。屍々累々とはこのことだろうと思った。死体は衣服が焼け、半裸か一糸纏わないものが多かった。母親が子どもの顔を抱きしめているもの、母子がお互いに離れまいとして、手と手を握り締めているものなどで、婦女子なだけにひとしお哀れであった。思わず合掌せずにはいられなかった。亡くなられた方が一番多かったのは、平潟神社と柳原の神明さまの境内、そこに掘られた防空壕。それに、その近くを流れる柿川の中であった。……」
総務省「長岡市における戦災の状況(新潟県)」

被害が大きかった柿川を起点に、8月1日の空襲史跡をたどってみましょう。

柿川と柳原町の神明神社に隣接した柳原公園(→Map)にあるのが「柿川戦災受難地の碑」です。空襲当時、神明神社の境内内で153人もの人々が亡くなりました。碑には「清き柿川の辺り柳原町神明社境内で、1945(昭和20)年8月1日夜、太平洋戦争において此の地に空爆死された犠牲者の冥福を祈り、命日五十回忌を期に哀悼の意を捧げる。」と刻まれ、境内内で亡くなった方々の地名と人数が記されています。

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「神明様」と親しまれる神明神社。

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「柿川戦災受難地の碑」の裏手、丹波橋から見た柿川。戦火に追われ、この川に多くの一般市民が逃げ込み、命を落とした。

 

最も多くの人が亡くなった場所
「戦災受難者慰霊塔」

神明神社から徒歩数分。空襲で亡くなった人が最も多かった場所が表町の平潟神社です。市街地の中心にあるだけに、多くの市民が逃げ込みました。そのために被害はいっそう大きく、ここだけで、実に268人もの人命が失われたのです。1958年11月、一般からの寄付と市及び県の補助金によって、平潟神社の境内内に「戦災受難者慰霊塔」が建立されました。慰霊塔には「このような不幸を再び繰り返さないよう願いをこめて」と刻まれています。その後、1995年に修復され、現在は隣接する平潟公園(→Map)に移転しています。

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長岡のシンボルマーク的存在でもある平潟神社。市民から「智慶様(チケンサマ)」の名でも呼ばれている。

 

 

身元不明の遺骨が埋葬された
「戦災殉難者之墓」

平潟神社から少し離れ、殿町踏切を越えたところにある、四郎丸の昌福寺(→Map)。ここには、身寄りのわからない遺骨を埋葬した「戦災殉難者之墓」があります。当初遺骨の埋葬場所はなかなか見つかりませんでしたが、1945年9月、この昌福寺に遺骨はようやく埋葬され、1947年9月には、市民の寄付により、墓碑が建立されました。裏面に「昭和二十年八月一日当市戦災 殉難者市長ほか千百四十名 茲に有志相計り全市民の浄財を以って永く菩提を弔う」と刻まれています。

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曹洞宗の寺院、昌福寺。幕末の英才、鵜殿春風の墓もここにあります。

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門前には「長岡国漢学校」発祥の地の碑が建てられています。

 

子どもたちの慰霊のために
平和の森公園「平和像」

本町の平和の森公園(→Map)は、1996年に市民の平和の願いのシンボルとして新しく完成した公園。豊かな緑と柿川に流れ込む水のせせらぎ、水辺で遊ぶ子どもたちの声が響く、美しい場所です。ここに立つのが長岡空襲で亡くなった学童の霊を慰める「平和像」です。
1951(昭和26)年に県教職員組合が募った募金をもとに作られたこの像の中には、銅版に刻まれた「昭和二十年八月一日長岡市戦災学徒名簿」が納められています。当初は長岡駅前広場に設置されましたが、悠久山公園、明治公園と移転し、現在はここ平和の森公園に安住の地を得ました。

熱心に本を読む男児と、ボール遊びに興じる女児。それを見守るように手を広げる女神の像。戦争が、学び、遊び、夢を抱いていただろう280人あまりもの子どもたちの未来を一瞬にして消し去った、という事実に胸が痛みます。

園内には広島市から譲り受けた被爆アオギリ二世が植樹されており、長岡の平和のシンボルともいうべき公園です。

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平和への限りない願いを込めて名付けられた「平和像」。

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緑豊かな園内には広島市から譲りうけた「被爆アオギリ二世」が根付き、その枝葉を伸ばしています。

 

ここを狙って焼夷弾は投下された
「長岡空襲爆撃中心点の碑」

今年8月1日。坂之上町の互尊文庫に隣接する明治公園(→Map)に、新たな石碑が建立されました。それが「長岡空襲爆撃中心点の碑」です。米軍は、1945年6月に長岡地域を空撮し、「リト・モザイク」という精緻な航空写真を作製しました。そこに当時の市街地をほぼ覆う半径1.2kmの円を描いて長岡空襲の攻撃目標としたのです。その中心点が、ここ、明治公園にあたります。
石碑にはこの歴史の記述とともに、米軍の航空写真「リト・モザイク」が刻まれています。

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碑は「明治天皇行在所御遺蹟」の脇、駐車場付近に建てられている。

 

柿川丹波橋を起点に、神明神社、平潟神社は徒歩で回れる距離にあり、少し足を延ばせば昌福寺も立ち寄れます。また、平和の森公園と明治公園の二つも、近い距離にあります。空襲の史跡を訪ね歩き、平和の尊さについて考える機会としてはいかがでしょうか。

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