今こそ平和の尊さを感じよう!長岡まつり前夜祭に行う「灯籠流し」とは?

2016/7/25

第二次世界大戦中、昭和20年8月1日の空襲で、長岡の市街地は焼け野原となり、1486名の方が亡くなりました。戦災者の慰霊と「二度とこのような悲惨な歴史を繰り返してはならない」という平和への願いから、灯籠流しは行われます。今を生きる私たちの使命は、この願いを絶やさずに次の世代へ繋いでいくこと……。主催する長岡青年会議所「まち灯り委員会」髙見礼央さんにお話しを聞きました。

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静けさの中で伝えていきたい平和への願い

--いよいよ長岡まつりも近くなり、「灯籠流し」のご準備に奔走されていらっしゃることと思いますが、あらためて8月1日に行われる「灯籠流し」の歴史について教えて下さい。

髙見「長岡まつりの前夜祭で街中が活気づき、神輿や民踊流しで賑わう中、柿川では静かに『灯籠流し』が行われます。長岡市は、第二次世界大戦が終わる直前の昭和20年8月1日に空襲にあいました。午後10時30分より約1時間40分、アメリカのB29爆撃機は長岡市上空から大量の焼夷弾を投下し、市街地の約80%が消失、現在わかっているだけで1,486名の尊い命が失われました。

長岡まつりは、昭和21年に長岡空襲の戦災殉難者の慰霊と復興祈願から始まり、『灯籠流し』は昭和25年から、戦災殉難者の慰霊のために行われるようになりました。」

--戦後、間もない長岡で行われた「灯籠流し」は、どのような様子だったのでしょうか?

髙見「昭和25年から信濃川で、空襲によって亡くなった方の霊を慰めるために『灯籠流し』が行われていました。長岡だけでなく全国の戦災都市からも灯籠が送られて、今のような小さな灯籠ではなく大型の灯籠を流していたそうです。大型の灯籠を回収することが困難だったことや、昭和40年代になり、日本は高度経済成長期を迎えて、お祭りも賑やかに、より盛大にするのがよいという風潮から、灯籠流しは行わなくなりました。」

--途絶えてしまった「灯籠流し」を復活させたのは、長岡青年会議所の方々だったそうですね。

髙見「そうなのです。13年の時を経て、灯籠流しが中止になった事実を憂慮した長岡青年会議所は、当時の理事長である樋熊隆治さんが中心となって、1984年に『灯籠流し』を復活させました。

悲惨な史実を風化させたくないという思いと、町が焼かれ、尊い命が失われるような戦争を2度と繰り返してはならないという強い意志で復活させたと聞いています。

場所も信濃川ではなく、市民が参加しやすいように町中を流れる柿川で行うように変更しました。柿川とその周辺整備も、同じ頃に行われたと聞いております。それ以来、長岡青年会議所では先輩方の意志を引き継ぎ、粛々と回を重ねて、今年は33回目の『灯籠流し』を行う運びとなりました。

過去の先輩方の思いをひしひしと感じながら、『まち灯り委員会』の委員長を務めさせていただいています。」

0801柿川灯籠流し6-長岡青年会議所-支給

--「灯籠流し」は誰でも参加できるのですか?

髙見「はい。申し込みも必要ありませんので、当日に来ていただければ『灯籠流し』に参加できます。ご遺族の方は高齢になられ、階段を下りるのも難しいような状態でも『灯籠流し』をして下さいます。ぜひ、空襲で亡くなられた方のご遺族と一緒に灯籠を流していただきたいです。長岡市民が参加することに意義があると思います。」

0801柿川灯籠流し3-長岡青年会議所-支給

自分たちが暮らす長岡の街で起きた、過去の悲惨な出来事を知り、今を生きる私たちが未来に向かって「恒久平和」のメッセージを発信。

--灯籠も髙見さんたちがご準備をするのですね。

髙見「灯籠は空襲で亡くなられた方と同じ数を準備します。空襲では市街地のほとんどが焼け野原になり、市役所も消失して戸籍の台帳も失われました。空襲で亡くなった方の正確な数字は、未だに分かっていません。個人から寄せられる情報などを手がかりに、長岡市の戦災殉難者の数は戦後70年を過ぎても毎年、更新され続けています。」

--過去の史実を明らかにするという長岡市と市民の協働作業ですね。
ところで、参加する時には灯籠は購入するのですか?

髙見「はい。灯籠は1つ500円ですので、ご購入後にメッセージを書いて流していただきたいです。19時から灯籠を準備し、19時半からセレモニーが始まります。市長やご遺族の方のあいさつがあり、シンボル灯籠を流して、その後から一般の方の灯籠を流します。灯籠が流れていくのを見に来られる方も大勢いますので、参加は自由です。川をゆっくり小さな明かりが流れていく風景はとても美しいものです。」

 

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