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映画人として、語ることがある――大林宣彦監督に聞いた長岡花火、そして戦争のこと

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アート長岡長岡花火
アート長岡長岡花火
2017年 8月 29日 | な!ナガオカ スタッフ

いまや日本有数の花火大会として全国から約100万人が集まる、新潟県長岡市の「長岡花火」を題材に、2012年に公開された映画「この空の花―長岡花火物語」。この作品を監督したのは、「時をかける少女」「青春デンデケデケデケ」など数々のヒット作を世に送り出してきた巨匠・大林宣彦さんです。

2009年に長岡花火を初めて観覧し、そこに秘められた歴史や市民の思いに対する深い共感からこの映画を製作した大林監督。公開から5年が経ってもほぼ毎年長岡を訪れては夜空を見上げ続ける大林監督の、長岡花火への思い、映画人としての矜持、そして平和への願いとは——。

「まだ、戦争には間に合いますか」。映画に繰り返し登場するこの言葉を反芻しつつ、8月4日の暑い朝、蓬平温泉の定宿に監督を訪ねました。

 

長岡花火は「イベント花火」ではない

――昨夜の長岡花火観覧、お疲れさまでした。監督は映画「この空の花~」完成以降、ほぼ毎年、花火を見に長岡にいらっしゃっていますね。

去年は最新映画「花筐/HANAGATAMI」のロケで、残念ながらお休みしたんですけどね。それ以外は、映画づくりの発端となった2009年の初訪問以来、長岡花火に会いに必ず来ています。

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映画のシナリオもここで執筆したという蓬平温泉「和泉屋」にて。

――もう何度も聞かれているであろう質問で恐縮ですが、改めて、長岡花火のどのようなところに惹かれたのかお聞かせ願えますか?

何よりも、これが「商業イベントの花火ではない」ということですね。

僕は花火そのものは大好きで、映画にもずいぶん出しているんですが、「花火大会」というのは好きじゃないんです。花火に限らず、各地の祭事というものは本来は古くからの生活や文化に根ざした由来があって、それをやるべき日付がきちんと決まっているものですが、今では多くのお祭りが観光客集めのための“イベント”になってしまい、本来の由来を曲げて無理やり土日に開催されるようなものに成り果ててしまっている。

ですが、最初に長岡の知人から花火に呼ばれた時、日付を聞くと平日だという。「おや、土日じゃないのね」と聞くと「ええ、長岡花火は日付が決まっているんです」と言われたので、これは今時珍しいと思って、半信半疑でやって来たんです(笑)。

――実際にご覧になって、いかがでしたか。

あれは2009年の8月2日だったかな。まだ黄昏どきの空に、白い花火が一発だけふわっと咲いてしんなりと開き、静かに消えていく。消えたあとには、群青の空が残ってね。「ああ、日本には群青なんて色があった。忘れていたな」と思っているうちに、もう一発真っ白な花火が上がり、また咲いて消えたあとには、今度は漆黒の闇が残っている。花火大会というと、普通は闇を塗りつぶすように立て続けに花火を打ち上げ続けるものですが、長岡の花火は、消えたあとの暗闇がとても愛おしくなる。素晴らしい花火でした。

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長岡花火の真髄とも言える「白菊」。© 長岡花火財団

そうしたところ、隣にいた妻の恭子(大林作品のプロデューサー・大林恭子氏)が「まるで映画みたいな花火ね」と言うので、ああ、と思いました。映画というものも闇の中に一瞬だけの光を当てるものですが、僕は、それが消えたあとの闇の中にこそ、映画があると思っているんです。俳優さんも、衣装も、場面も、全ての情報が消えてしまったあとの闇の中に、決して映らないはずの心が見える。確かにそうだと思って、隣にいらっしゃった森民夫市長(当時)に、半ば冗談めかして「長岡花火には心がありますね」と言ったところ、市長は極めて真面目な顔で「監督、長岡花火の心を見ていただけましたか」とおっしゃった。そこで初めて、この花火のアイデンティティを聞くことになったんです。

 

そこにいなくても「ともに生きる」こと

――この花火が、戦没者の追悼のためのものであるということですね。

毎年8月1日、長岡空襲の日の夜10時30分——爆撃のあった同じ時間に、3発の白い花火(注:1日の22時30分、そして2日と3日の始まりに打ち上げられる「白菊」)を、必ず上げる。戦争体験者たちの中には、空襲の夜に自分の背中で死んでいった子や隣で溺れていった人のことを思い出すから、あの日を思い出させるような光と音を放つ花火を見ることはできず、打ち上げが始まったら家に閉じこもって耳をふさぎ、目を閉じる人もいます。けれど、その恐ろしさを後世に伝えないと、またいずれ、戦争を知らない世代に同じことが起こるかもしれない。だからこそ、この花火を上げるのだ——その理念を聞いて、とても感動したんです。

そこから連想して思い出したのが、やはりこの長岡花火を素晴らしい貼り絵として残した山下清さんの言葉でした。「世界中の爆弾が花火に変わったら、きっとこの世から戦争はなくなるのになあ」という、彼らしい、とても純粋な言葉。

僕の映画づくりも、まず伝えたい言葉との出会いから始まります。「こんな映像を撮りたい」とか「これが儲かるから」というのではなく、ある哲学や理念に出会った時に、それをより易しく、わかりやすく楽しい「映画」というエンタテインメントとして伝え、人々の心に残していきたいと思って、いつも映画を作ってきた。だから、今度はこの言葉を映画にして伝えることが、僕の映画人としての責務だと思ったんです。

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映画「この空の花―長岡花火物語」メインビジュアル。監督が感銘を受けた「白菊」が印象的にあしらわれる。©2011「長岡映画」製作委員会 PSC

――そこから、監督は長岡の戦災史を調べ始められたわけですね。

調査を始めると、例えば新潟市が原子爆弾投下の第一候補地であったことや、その“予行演習”として全国に49もの「模擬原爆」が落とされ、それが長岡市にも落ちていたことなど、全く知らなかったことが次々に出てくる。模擬原爆のこと自体僕は知りませんでしたし、新潟県内にお住まいの方でも、自分の街に原爆が落ちていたかもしれないことをご存知の方はそう多くないと聞き、いかに戦争の記憶が、何もかも忘れ去られてしまっているかということを痛感しました。

映画にも描きましたが、今はヤーコン畑になっているその落下現場を案内いただいていると、向こうの方から2トントラックがやってきて、運転している人が「出てきた、出てきた」と言う。同行してくれていた「アミーゴ君」という長岡の方が「何が?」と聞くと、「焼夷弾!」と言って、畑に埋まっていた焼夷弾を見せてくれたりもした。すべてがまだ地続きなのだということを改めて感じた、暑い、暑い夏でしたね。

――そして2011年、製作委員会による資金調達がなされ、撮影を始めようという矢先に3.11の東日本大震災が起きます。「この空の花~」の冒頭には、はっきり「A MOVIE essay 2011年3.11〜12.8」と示されていますが、その時はどのような思いだったのでしょう

震災が起きたときはたまたま大分県に滞在していたんですが、映画を作る者として「すぐに飛んでいかなければならないんじゃないか」という思いがまず浮かびました。けれど、当時の被災地はまだまだ大変な状況です。トイレもままらないからと報道陣がスーツの下にオムツを履いて、状況を全国に伝えようと頑張っているような現場に、劇映画の映像を撮りに行くなんてことは許されることじゃない。「今はよそう」と控えたんです。

その代わり、僕は劇映画を作る者として「実際の情報を撮らなくても、想像力で見る者と被災地を近づけることはできる。自分の想像力の全てを働かせて、被災地とともに生きていこう」と思った。そこで向かったのが、長岡でした。

長岡も2004年の中越地震で大きな被害を受け、また、その際に全国から様々な支援を受けたことをちゃんと覚えていて、「その恩返しをしたい」と東日本大震災では逆に福島からの避難者をいち早く受け入れ、手厚くお世話をしていた。「この空の花~」は、そんな長岡の皆さんの意志と一緒に、震災と対峙するための映画でもあったんです。

「負けた者の歴史」が繋がっていった

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柔らかく、穏やかに言葉を紡ぐ大林監督。しかし話が映画への思いに及ぶと、その口調は熱を帯びる。

――物語には、福島の南相馬市から避難してきたという少年が出てきますね。

あれは、何かで報道されていた実際のエピソードが元になっているんです。南相馬のある高校生の「これまで自分は“頑張る”とか“一所懸命”なんて、ダサくて言葉にしたことはなかった。けれど、大人たちがこの廃墟になった故郷を復興させるんだという希望を持って頑張っているのを見て、自分も一所懸命頑張って、この故郷を復興させようと思った」という言葉があったんですが、それを見て、すぐに僕はこの少年を映画に登場させました。

福島から長岡に避難してきた少年が、長岡の高校生と出会って、同じ時間を過ごす。実はその高校生とは——1945年8月1日の夜10時30分に、長岡の空襲で死んだ子供たちが蘇ってこの世に現れたものなわけです。その子供たちが、福島の少年と出会って、過去から現在、そして未来に繋がる物語を作り上げていく。この物語は、単に「震災からの復興」というものを超えて、現代の日本人が、人としての美しい生き方を取り戻していくよすがになるのではないか。そういう映画にしようと考えたんです。

そう思って調べていくと、さらに、この長岡が、幕末の戊辰戦争で敗れて焦土と化し、それゆえに多くのことを学んだ郷(さと)であるということもわかった。これは、もう一つの大きな気づきでした。

――長岡人の精神としてよく語られる「米百俵」の由来ですね。

戦争で敗れ、窮乏のどん底だった長岡藩に他藩から届けられた百俵の米を、多くの藩士が腹を空かせる中で、小林虎三郎という人が「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と言って国漢学校という学校を作り、しかも、士族だけでなく庶民の入学も許可しました。大切な決断をした大人たちの背を見て賢い子供たちが育ち、やがて国を正しく栄させることこそが真の復興である——という、「負けたからこその学び」が、この長岡には息づいている。

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小林虎三郎が創設した国漢学校の絵図。『懐旧雑誌』(小川當知、1879)より。

長岡の戦災資料館には、もちろん長岡空襲の資料もありますが、同時に、同郷の山本五十六が指揮をとり、太平洋戦争開戦のきっかけとなった真珠湾攻撃の資料、つまりは日本側の“加害”を検証した資料も展示してある。僕のふるさと広島も、長崎も、資料館にあるのは戦争の“被害”だけですが、この郷の資料館は、「戦争が恐ろしいのは、被害者になるだけでなく、加害者にもなるからである」ということを訴えています。

聞けば長岡は真珠湾のあるホノルルと姉妹都市として平和交流事業を行なっているというし、森民夫市長(当時)も、「僕はね、監督。この長岡花火を、いつか平和の象徴としてパールハーバーで打ち上げたいんです」とおっしゃっていた。こうしたことは、まさに米百俵の精神によって多くのことを学んできた長岡ならではの賢明さです。そんなふうに戊辰戦争から繋がってきたこの郷の精神を、映画で花火と絡めて描くことができたのは大きかった。

 

「大林の映画はこういうものだったのか」

――「この空の花~」は、花火に関わるトピックを追いながらも、日本の近現代史を大きく俯瞰するような作品になっていました。

僕はね、日本の近代の戦争の歴史は、戊辰戦争から始めなければならないと思っているんです。戊辰戦争、明治維新というものは「勝った者」の歴史なんですよね。そこで勝った者が政府の要職を占め、世界に向かって国を開き、そのまま日清・日露・第一次世界大戦・日中戦争と、勝ったまま世界に進出していった。その後、太平洋戦争で負けるまでは。

山本五十六は、最後まで太平洋戦争の開戦には反対していたと言います。しかし、それを顧みず、日本は無謀な戦争に突入し、敗れた。勝った郷の人たちが始め、そして敗れた戦争、さらにそこからの復興の中で必要だったのは「負けた郷の者の賢さ」だったのではないか。しかし、実際はどうか——この映画はそんな風に、日本の近現代史や戦後復興のあり方すら問い直す映画になった。そのことが、この映画が3.11以降の日本社会において、戦争を知らない若い人たちに共感を呼んだ理由なのではないかと思っています。

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©2011「長岡映画」製作委員会 PSC

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©2011「長岡映画」製作委員会 PSC

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©2011「長岡映画」製作委員会 PSC

――デジタル技術を駆使されたのは、「この空の花~」が初めてですね。あえてリアリティの枠から逸脱するような表現も用いたことで、監督の内なる炎のようなものがよりダイレクトに作品に反映した部分もあると思うのですが。

僕も長年映画を作ってきましたが、大林映画の“青春時代”とでもいうべきものが終わって時が流れ、かつての私のファンたちも私の作品からは離れていたと思います。しかし、この映画をきっかけに「大林がようやく“正体”を見せ始めたのではないか」「大林の映画はこういうことでできていたのか」という声が上がり始め、「HOUSE」など、僕の初期からの作品の見直しにつながった。また、茂木健一郎さんや椹木野衣さんといったオピニオンリーダーや美術関係、メディア関係の方々も、この映画を一つのジャーナリズムとして評価してくださいましたね。

――大林監督の作品にはごく初期作から、「時をかける少女」や「22才の別れ」といった代表作に至るまで、全てにおいて「肉体は滅びても想いは残り、やがて時間や距離を超えて伝わる」というテーマが通底しているように思います。それは「この空の花~」にも、明確に表れていましたね。

先ほど言った僕の“正体”の部分——その種明かしをしておきましょう。

僕は戦争中、他の子供たちと同じような軍国少年だった。開戦のニュースに興奮し、僕が零戦で真珠湾に乗り込んで、当時のアメリカ大統領であるルーズヴェルトやイギリス首相のチャーチルが「キャー!お助けー」と逃げ惑うような絵を描いていました(笑)。

当然、日本は戦争に勝って終わると思っていたところ、だんだん敗色が濃くなってくるわけです。「負ければ国はなくなる。日本人はみんな殺されるか自決するかしかない」と信じ、敗戦のあかつきには母親が短刀で僕を殺して自決すると覚悟した夜もあった記憶が、鮮明にあります。しかし、その次に起こったことは、もう「チューインガムにチョコレート、明るく楽しいアメリカ映画」なんです。あれだけ「一億総玉砕」と言っていた大人たちも、誰も死にはせず、闇市で闇米を買って、「平和だ」「平和だ」と笑って浮かれている。純粋な軍国少年だっただけに、「なんだ、これは」と思いました。これじゃ今の大人を誰一人信用できないじゃないかというところから、僕自身が大人になる道筋が始まったんです。

――軍国主義の是非ということより、自分が信じていたはずのものをコロッと捨ててしまう姿勢に疑問を抱いたということですね。

日本の大人たちは“平和難民”になってしまった。僕たちも“平和孤児”になった。敗戦から何も学ばず、お隣の国で朝鮮戦争が始まっても、GHQに「これなら日本人に見せてもいい」と許可されたアメリカ映画を見て、特需に沸いていた。ようやく1951年に独立を果たしたと思ったら、新藤兼人先輩が日本映画として初めて原爆を真正面から取り上げた映画「原爆の子」(1952年、近代映画協会製作)をカンヌ映画祭に出品しようとしたところ外務省から「アメリカを刺激するから」と圧力がかかるような、自分たちに起きたことについて自ら沈黙するような国になってしまいました。

そうこうしているうちに、世界中で戦争を知らない世代の人がリーダーになっていく。戦争で「何が起こるのか」を知ってはいてもそれをリアルに感じられないまま、経済を育てることだけを優先し、そのための重要な要素として軍需産業を発展させていった結果、そこにも、今ここにも、世界中でいつ次の戦争が起きてもおかしくない時代になっている。若い人たちと話していると、彼らが皮膚感覚でそれを察知し、僕たち敗戦後世代の話を一所懸命に聞こうとしてくださっているのを感じます。

 

想像力が未来をつくってゆく

――特に東日本大震災以降、生き方や働き方、都市と地方の関係など、これまで自明と思われていたものを問い直すような動きが出てきていますが、その中心になりつつあるのが、まさにそうした世代ですね。

彼らは、すでに「戦前世代」なんです。それまでのことを「なかったこと」にして突き進んできた社会がきしみ始め、戦後と戦前が再び接続しようとしている時代の青年たちです。そうした時代意識が、例えばお若い塚本晋也くんに「野火」(2015年、自主製作)のような映画を作らせたりする。

そんな時だからこそ、僕たちがこの長岡に代々伝えられて来た米百俵の精神に代表される「負けた者の知恵」に学ぶところは大きいはずです。勝った者たち、ナンバーワンになった者たちの作った「平和」の歴史の中で、負けた者——ナンバーワンになれなかった者をも包括した「平和」とは一体何か、考えて、考えること。あるいは、志の違う者同士が出会い、語り合い、理解をし合うこと。

政治や経済は、どうしてもナンバーワンを目指してしまうもので、そのためには自分以外のものをみんなやっつけてしまい、その役に立たないものは切り捨ててしまうのが手っ取り早いという発想になりがちです。そこから離れ、お互いの違いを理解し合う勇気を持つこと。それを可能にするのが、この映画の中でも繰り返し語られる「想像力」なのだと思います。

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時に茶目っ気たっぷりに、時に鋭い眼差しで、映画の力について語る。

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お互いの暮らす地域の文化の違いや考えの違いを理解し合い、認め合い、許し合い共存しようと、互いがオンリーワンであることに誇りを持ち合って共に生きることから愛が生まれ、世界平和が実現するのです。

――ここ数年、社会のあらゆる場面で想像力の必要性、あるいは欠如が語られることが多いように思います。その時代に、これからこの映画を、そして長岡の花火を見ていく人たちへのメッセージを。

僕は映画人ですから、想像力によって映画の中に奇跡のような世界を作り上げたいと、ずっと思ってきた。例えば、それをしてきたのが黒澤明さんや小津安二郎さん。または「勝った国」のジョン・フォードですら——太平洋戦争後の戦勝ムードに沸くアメリカで彼が最初に作った映画は「コレヒドール戦記」(1945年)という、フィリピンでアメリカが敗れた戦いを描いた、原題が「They Were Expendable」(すべての兵士は消耗品であった)という映画でした。映画が素晴らしいのは、勝った国や負けた国なんて問題じゃなく、誰ひとり“消耗品”などではないんだということや、誰もが自分の人生を自由に生きられる世界を実現するんだという夢を、その中に描くことができるものだからです。

負け戦から学び、私たちがいかに美しく生きるべきかという哲学を代々伝えてきた長岡の人たちがずっと継承してきた花火を、僕はそういう思いで映画にさせていただいた。「この世から戦争がなくなる」という夢のような奇跡が、いつか実現することを願って。災害や資金面など困難もたくさんありましたが、そのつど長岡市民の皆さんが「監督、花火だけじゃなく、映画も打ち上げましょう!」と協力してくださったおかげで立派に打ち上がったその映画が今、多くの人たちから評価され、長岡の志が世界を駆け巡っているんです。

2016.08.02この空の花(長岡市)

映画の誕生を記念して作られた長岡花火のプログラム「この空の花」。作品に込められた願いとともに、今年も夜空を彩った。

昨夜、僕は映画人としてそんな長岡と関わり合いになれたことを心から誇らしく思いながら、空を見上げさせていただきました。長岡の皆さんにも、この世界一の花火を生み育てた郷として、そして共に未来を生きる多くの人に伝えていく郷として、心から誇りに思っていただきたいと思います。

それが僕の、長岡へのラブレターです。

 

大林宣彦(映画作家)
OBAYASHI Nobuhiko (Filmmaker)
1938年広島県尾道市生まれ。3歳の時に自宅の納戸で出合った活動写真機で、個人映画の製作を始める。16㎜フィルムによる自主製作映画『ÉMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』が、画廊・ホール・大学を中心に上映され、高い評価を得る。『喰べた人』(63)はベルギー国際実験映画祭で審査員特別賞を受賞。
1977年『HOUSE/ハウス』で商業映画に進出。同年、ブルーリボン新人賞を受賞。故郷で撮影された『転校生』(82)『時をかける少女』(83)『さびしんぼう』(85)は“尾道三部作”と称され親しまれている。
『異人たちとの夏』(88)で毎日映画コンクール監督賞、『北京的西瓜』(89)で山路ふみ子監督賞、『青春デンデケデケデケ』(92)で平成4年度文化庁優秀映画作品賞、『SADA』でベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞、『理由』(04)で日本映画批評家大賞・監督賞、藤本賞奨励賞を受賞。『この空の花―長岡花火物語』(11)『野のなななのか』(14)は、TAMA映画祭にて最優秀作品賞等受賞。2004年春の紫綬褒章受章、2009年秋の旭日小綬章受章。
2017年12月16日から最新作『花筐/HANAGATAMI』公開が控えている。

 

Text : Takafumi Ando / Photos :Tetsuro Ikeda(People Island)

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