戦争と震災を知らない子供たちへ――平和学習が伝える感謝とあきらめない気持ち

2019/9/6

新潟県長岡市には、忘れてはいけない2つの悲しい歴史があります。1945年8月1日の「長岡空襲」では焼夷弾が投下されて焼け野原となり、無差別に多くの命が奪われました。そして2004年10月には最大震度7を記録した「中越大震災」で建物や道路が崩壊し、犠牲者も出ました。

しかし、自分のまちで起こった悲惨なできごとであっても、実際に経験していない人にとっては、どこか遠くの世界で起こったかのように感じてしまいがちです。そんな状態を危惧し、市内の小中学校の子供たちへ平和を伝える活動をしているのが、一般社団法人 長岡青年会議所(以下、長岡青年会議所)「未来へ語り継ぐ委員会」。「平和学習~みんなが生まれる前に長岡で空襲と地震があったがぁて」(以下、平和学習)と題した出張授業を行い、史実はもちろん人生で大切なことについて伝えています。いったいどんな内容なのか、取材してきました。

7月某日。訪れたのは、長岡市内にある下川西小学校。この日は、今年度ラストの平和学習が行われました。

講師の高野さん。普段は保険会社で働いている

平和学習を行うのは青年会議所のメンバーからなる「未来を語り継ぐ委員会」というグループ。その名には、悲惨な歴史や亡くなった方々への慰霊、先人達の努力などを語り継ぎ、子供たちがより良い未来を築けるようにとの願いを込めています。この日講師を務めるのは、青年会議所メンバーの高野祐維(ゆい)さん。仕事の合間をぬって長岡青年会議所の活動をしています。

総合学習の一環として授業を受けるのは、6年生8名。始業のチャイムが鳴る前から席に着き、背筋を伸ばし静かに授業の開始を待っています。さあ、いよいよ平和学習のスタートです。

 

まちを焼け野原にし、
無差別に命を奪った「長岡空襲」

「皆さん、こんにちは!長岡青年会議所の高野です。まず、みんなに質問です。長岡空襲について聞いたことがある人はいますか?」

ほとんど迷いなく8名全員の手が上がりました。しかし、長岡空襲があったことは知っていても、その詳細はあまりよく分かっていないようです。

「これは1931年に撮影された長岡駅周辺の写真です。市役所や警察署の他に映画館もあって、近代的でおしゃれな街でした。ところが1945年8月1日、まちは一変します。長岡の市街地が空襲の標的になってしまったのです」

22時26分に空襲警報が鳴ったわずか4分後、逃げる間もなく爆弾が次々と落とされていきました。

「これは焼夷弾の模型です。38本がまとまって、1つの爆弾として投下されました」

飛来した爆撃機は125機、投下された焼夷弾は約16万3,500本。約2万戸の建物が燃え、分かっているだけでも1,488人が亡くなりました。当時はほとんどが木造の建物だったため、まちは一夜にして焼け野原となってしまいました。

(資料提供:長岡戦災資料館)

この凄惨な一夜を、12歳の男の子が描いた絵が残されています。B29爆撃機が大量の爆弾を落とし、人々は必死で逃げています。下側に描かれた、足から血を流す男の子は作者の友人で、「頑張れ!」と励ます以外何もできなかったそうです。

平和学習を受けている6年生と同い年の子供が描いた絵は、この世の現実とは思えない戦争の残酷さを物語っています。川に架かっているのは、長岡市民にはおなじみの長生橋。数十年前に起こった悲惨なできごとに思いを巡らせ、子供たちは言葉を失っていました。

 

大勢が力を合わせて成し遂げた
復興までの道のり

そして1945年8月15日終戦。大変な状況の中でしたが、復興に向けて少しずつ歩み出します。長岡は空襲を受けたものの、警察署と長岡駅が燃えずに残ったのが不幸中の幸いでした。

「警察では正しい情報を伝える他、『長岡魂で頑張ろう!』と市民に声かけをしました。これはどんな困難にもくじけないで頑張ろう、助け合って乗り切ろうという強い気持ちの表れです」

空襲後の市街地。人々の必死の消火活動が功を奏し、長岡駅は焼け残った(写真提供:長岡戦災資料館)

食糧配給は、食べ物に困る多くの人たちの支えとなった

長岡駅は空襲の被害にあったものの、多くの人の消火活動のおかげで焼けずに残りました。そして、なんと空襲の翌日には汽車が走り、市民の避難や救援物資運搬のため大活躍したそうです。これには子供たちからも「えーーっ!」と驚きの声が上がりました。特に、栃尾町(現在は長岡市)からは多くの支援をいち早く受け、空襲にあった約6時間後には2,000人分の食糧を長岡まで届けてもらったそうです。
「戦時中で食べ物が少ない最中、困っている人を助ける優しさと行動力は素晴らしいですよね。みんなも栃尾の人のような、助け合える人になってほしいなと思います」

こうして、長岡は全国でもトップレベルの早さで復興を遂げました。そして8月1日という日を忘れず、戦争で亡くなった人を偲び、長岡市が再び発展することを願って翌年から「長岡復興祭」が始まり、後に「長岡まつり」となりました。

「長岡まつり」では毎年、8月2日と3日の大花火大会(いわゆる長岡花火)に多くの観光客が集まりますが、その前日である8月1日こそが、市民のための夜。長岡空襲が始まった時刻の22時30分には、慰霊と平和への祈りを込めて「白菊」とも呼ばれる白一色3発の花火が打ち上げられるのです。

 

建物崩壊、道路寸断、土砂崩れ……
大規模被害を被った「中越大震災」

(写真提供:公益社団法人中越防災安全推進機構)

また、長岡にはもう一つの悲しい歴史があります。2004年10月に起こった中越大震災です。マグニチュード6.8の直下型地震で、死者は68人。住むところがなくなり避難した人は10万人を超え、水道や電気などのライフラインも遮断されました。

震災の記憶は、大人にとってはまだ記憶に新しいですが、子供たちにとっては、これも生まれる前のできごと。建物が崩壊し、道路が寸断されている様子の資料を見て、「信じられない」という表情を浮かべていました。

道路が寸断され、逃げるのも助けに行くのも困難な状況だった(写真提供:公益社団法人中越防災安全推進機構)

崩壊した家屋。約12万戸が被害を受けた(写真提供:公益社団法人中越防災安全推進機構)

 

復興と感謝のシンボル
フェニックス花火の打ち上げ

震災で多くの人が甚大なる被害を受け、避難生活が続きました。しかし、困難な状況の中、日本全国から食糧や生活に必要な物資が入ったダンボールが山のように届きました。多くの支援があったおかげで、人々は何とか立ち直ることができたのです。

「まちが破壊され、尊い命が奪われ、震災は多くの爪痕を残しました。でも、下を向いてばかりはいられませんよね。地震から立ち直って頑張る姿、そして助けていただいた感謝の気持ちを全国の人に届けたい――そんな想いを込めて、当時の長岡青年会議所を中心としたメンバーは『復興祈願花火 フェニックス』の打ち上げを決めました」

復興祈願花火フェニックス(Copyright © 長岡花火財団)

不死鳥の形が夜空を彩るフェニックス花火は、平原綾香さんのヒット曲「Jupiter」にのせて打ち上げられます。大パノラマの光の競演は幻想的で美しく、復興までの道のりを思い涙する人も……。これは“復興するために頑張ったみんな”で打ち上げる花火なのです。

「どんなに辛いことがあってもあきらめない気持ち、そして支えてくれる人への感謝を大切にしてほしいです」高野さんはくり返し、こう伝えます。

そもそも「平和」とは一体なんでしょうか?この問いに子供たちからは、「争いがないこと」「みんなが笑顔でいること」「毎日を楽しく過ごせること」という意見が出ました。家族と一緒に過ごしたり、友達と一緒に勉強したり、そんな毎日が当たり前ではないことに気付いたようでした。

授業の最後は質問タイム!様々な質問が出た中で、最も盛り上がったのが「フェニックス花火を上げるための募金活動で、いくら集まるのですか?」という質問。街頭募金活動期間は1カ月間とのことで「1万円!」「3万円くらいかな」と興味津々。「正解は500万円です」との発表に、クラス中が「えーーーっ!」と驚いていました。大勢の人たちが慰霊の花火に賛同し、被災した方々を悼む気持ちを知ることができたようです。

後日、子供達から授業の感想が届きました。「助け合いとあきらめない気持ちをもって生きていきたい」「協力することで平和が生まれることが分かった」など、多くの学びがあったようでした。

 

「平和学習」に想いを込める
委員長へインタビュー

授業を終えた後、長岡青年会議所のみなさんにインタビューを行いました。お話をしてくれたのは、この日授業のサポートをした未来へ語り継ぐ委員会・委員長の佐藤洸太さんです。

「平和学習は今年で7年目を迎えます。はじめのうちは、私達から小中学校にお願いして授業をしていましたが、最近では学校側からの依頼が相次ぎ、今年は20校で授業を行いました。

長岡青年会議所では、長岡まつり初日に行われる『平和祭』に、空襲で亡くなった方を悼む『柿川灯籠流し』も行っています。まずは戦争を知らない子供たちに知ってもらいたいですね」

➢参考記事 今こそ平和の尊さを感じよう!長岡まつり前夜祭に行う「灯籠流し」とは?

また、平和学習の授業では、毎回「平和」について意見を出し合う場も設けているそうです。抽象的なこの言葉の意味を、自身と照らし合わせて考えてもらう狙いはどこにあるのでしょうか?

「正直なところ、小中学生が『平和』を理解するのは難しいかもしれません。ですが、私たち大人が考えを押しつけるのではなく、一人一人に考えてもらうことこそが重要だと考えています。それぞれ違う意見があっても良いんです。
戦争や震災の歴史を知れば、負けずに頑張る気持ちと、支えてくれる人へ感謝する大切さが分かるはず。子供たちには平和を学ぶことで、未来に活かしてほしいと願っています」

 

悲惨な史実を風化させない
語り継ぐことの大切さ

長岡空襲や中越大震災の史実だけでなく、この体験から学んでほしいことまで分かりやすくまとめた平和学習。今回講師を務めた高野さんは、どのように感じているのでしょうか?

「実を言うと、私は平和学習の講師をする前は、長岡まつりの慰霊の歴史について深くは知りませんでした。考えてみれば、私たち親世代も、戦争を知らない世代ですものね。平和学習の授業は子供たちだけでなく、ぜひ親世代にも聞いてもらいたい内容です」

また、今回は下川西小学校出身の長岡青年会議所メンバー・久保和喜さんも同席しました。

「小学6年生が戦争や震災について学ぶとき、どんな反応をするかなと思っていましたが、しっかりと話を聞いていましたね。おそらくピンと来てない部分もあるでしょうが、とりあえずは、長岡まつりや花火の慰霊の意味について知ってもらえれば十分かと。
戦争も震災も、想いをもって伝える人がいなければ風化してしまいます。だからこそ私たち30~40代の親世代は、子供達に語り継ぐ責任があると思います」

平和学習の授業を受けた子供たちは、きっと長岡まつりや長岡花火の見方が変わったでしょう。負けずに立ち上がる強さ、感謝する気持ちという人生における大切な学びは、自身が生きていく中で役立つはず。長岡青年会議所の「史実を風化させたくない、後世に伝えていきたい」という想いが届いているならば、もしかすると数十年後には、平和学習を受けた子供たち自身が、語り継ぐ側になっているかもしれません。

 

Text and Photos: 渡辺まりこ

 

 

●Information
一般社団法人 長岡青年会議所
[HP]http://nagaoka-jc.or.jp/hp/

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