2016/7/20
新潟の空にたくさんのバトンが
くるくると舞う日まで。
Y’sバトンスタジオ 代表 上杉栄美さん
眠らない体育館。
時計の針が、夜の9時を回るころ。アオーレ長岡の体育館にはこうこうと灯りがつき、リズミカルな音楽と、ひときわ明るい女性の声が響き渡っています。声の主は、Y’sバトンスタジオの代表を務める上杉栄美さん(42歳)。そして、音楽にあわせてバトンを自在に操るのは、Y’sバトンスタジオの生徒たちです。バトン(Baton)トワリング(Twirling)。直訳すると、「棒回し」。何も知らない人が見たら何の変哲もないただの「棒」が、バトントワラーの手にかかれば、たちまち華麗に宙を舞うバトンに早変わりします。「バトンにはダンスの要素もあれば、体操の要素もある。競技スポーツとしてだけでなく、パフォーマンスとしても、一つの芸術としても極められるんです。一本のバトンがここまで変化して、いろんな表情を見せてくれるんだということを、ぜひ多くの方に知って欲しいですね」そう話してくれた栄美さん自身もまた、バトンに魅せられた一人です。
小さなスクールの大きな挑戦。
栄美さんが、Y’sバトンスタジオを設立したのは2005年7月。
当時、長岡市内にバトンを練習できる教室はほとんどなく、新潟県全域でみてもバトン人口はほとんどいませんでした。今でこそ、日本代表選手を輩出するスクールにまで成長しましたが、設立当初はまったくの無名。まずはバトンに触れて、バトンの楽しさを知ってもらうため、ほんの数名の生徒を相手に、基礎から教えていきました。次第に競技バトンに関心を持つ熱心な生徒が増え、バレエや体操のレッスンを取り入れるなど、練習も本格化。「もっと上手くなりたい!と思う生徒さんを授かって、私も火がついたんです」選手育成の観点から、専門コースを設けました。「9時9時って言葉があったんですよ。朝の9時から夜の9時まで、週末はみっちり練習するという意味で。平日も学校が終わる夕方5時から夜の9時まで練習。ランドセルをしょってスクールに来て、宿題を体育館の床でやっていた子もいたくらいです」バトンにのめり込む生徒の姿に、栄美さんは過去の自分を重ね合わせていました。
2歳から始まったバトン人生。
「初めてバトンに触ったのは、2歳8ヶ月の時なんです」バトンの指導者だった母親の影響で、幼い頃からレッスンを受けていた栄美さん。ジュニア時代は、個人部門で常に上位に入賞している選手でした。初めて壁にぶつかったのは、中学生の時。「それまで当たり前のように表彰台にあがっていたのに、どんどん周りに抜かされて入賞すらできなくなったんです」悔しい思いをバネに、一念発起。バトンに打ち込むために親元を離れてPL学園へ。毎日朝から晩まで練習に明け暮れました。「今となったら笑い話ですが、当時は寮生活があまりにも辛くて、入学して1週間後には泣きながら親に電話をかけていたほど」年末年始の3日間しか休みがないほど過酷な日々を乗り越え、PL学園時代は、全国大会で二連覇。海外の大会でも、個人種目で1位になるなど華々しい成績をおさめました。「もうこれでバトンはおしまい。十分やりきった。そう思っていたんですけどね」。
長岡のために、できること。
今のご主人と出会って長岡に嫁ぎ、主婦業に専念していた2004年、新潟県中越地震が起こりました。「自宅は一部破損でしたが、なんとか住める状態。でも、周りには自宅を失ってしまった方もいる。何か自分にできることはないかと、必死の思いで避難所に行ったんです」そこで目にしたのは、不慣れな環境で不安な日々を過ごすお年寄りや、体を動かせずにストレスを抱える子どもたち。場所を取らずにできる体操の時間があれば、体を動かすきっかけになるし、気分転換にもなるかもしれない。長年バトンを続けてきた経験を活かし、避難所で簡単な体操を教えたことがきっかけで、カルチャースクールから声がかかりました。「長岡の子どもたちに、バトンを教えてみませんか?」震災以来、習い事をやめてしまった子どもも多くいました。バトンが習い事の選択肢の一つになることで、少しでも励みになれたら。「新潟の空に沢山のバトンがくるくると舞う日を夢見て、私はこのスタジオを始めます」設立当初の思いは、Y’sバトンスタジオのホームページにも記されています。