総勢500人!郷土の偉人に扮した市民が街を練り歩く「米百俵まつり」とは?

2016.11.13

新潟県長岡市では、毎年10月に「米百俵まつり」という祭りが開催される。戊辰戦争によって荒廃した長岡のまちが復興するきっかけとなり、長岡の教育の原点ともなった「米百俵の精神」を、次代を担う子どもたちに受け継いでいくことを目的に開始されたイベントだ。

長岡という地がどのような歴史を経て今に至っているのかを、さまざまな催しによって体感できる歴史イベントでもある。

長岡のアイデンティティの象徴ともいえる米百俵まつり。その様子を今年の写真とともに振り返りながら、まつりの名前にもなっている「米百俵の精神」について紹介しよう。

 

歴史上の人物に扮するのは、長岡市民やゲストの皆さん

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祭りの中で最も注目を集めるメインイベントが「越後長岡時代行列」だ。この行列のために、戊辰戦争長岡城奪還時の長岡藩の編成を再現した服装に身を包んだ市民ら約500人が、市内各地から集結。メインストリートである大手通りを練り歩き、長岡藩と西軍の合戦シーンの再現など、迫力のパフォーマンスを行う。

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福島県会津若松市から参加の「会津藩奴隊」の皆さん。

時代行列の開始前には、福島県会津若松市から参加した「会津藩奴隊(やっこたい)」が演舞を披露。奴隊とは、参覲交代の長い道のりの中、大名や民衆を楽しませる役割を持っていた隊列のこと。赤く塗った顔と独特の衣装で観客を魅了する。

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「山伏・先触侍」隊を演じる長岡市議会の皆さん。

奴隊の後はいよいよ時代行列の隊列が入場。先頭を歩くのは「山伏・先触侍」隊(担当は長岡市議会)だ。山伏が法螺貝の音色で高らかに時代行列の開始を告げ、通りの空気が一変!

時代行列では、長岡藩にまつわる人物だけでなく、長尾景虎(上杉謙信)、直江兼続といった長岡ゆかりの戦国武将も参列する。さらに、登場人物のうち直江兼続などの主要人物は毎年、オーディションにより決定される。

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「愛」の前立てで知られる直江兼続。

2016年に直江兼続の役を射止めたのは、長岡市在住の熊谷慎人さんだ。県外の出身だが、転勤がきっかけで長岡に住むことになったという。

「長岡に来てから毎年気になっていたイベント。一緒に暮らす家族に『長岡で暮らした証を残したい』という思いから応募しました」とオーディションの場で熱く話し、役を射止めた。

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メインステージ前に差し掛かり、大きな鬨(とき)の声をあげる熊谷さん。

ちなみに、熊谷さんの出身地は愛知県豊橋市。長岡藩の藩主を代々つとめた牧野家のルーツは、三河(愛知県)なので、オーディションの際、熊谷さんが出身地を告げると「おおー!」という声が審査員たちから上がっていた。

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「堀直竒隊」を演じるドイツ・トリアー市の皆さん。

行列には、長岡城の築城に大きく関わり、長岡のまちが築かれるきっかけを作った戦国武将・堀直竒(ほりなおより)率いる「堀直竒隊」の姿も見られた。この隊を担当したのは、2016年で姉妹都市締結10周年を迎えるドイツ・トリアー市の皆さんだ。

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牧野忠訓(まきのただくに)公を演じる牧野忠慈さん。

長岡の偉人の子孫が参加するというのも時代行列の特筆すべき点のひとつ。長岡藩第12代藩主「牧野忠訓公」を、第17代当主、牧野忠昌さんのご子息、牧野忠慈さんが演じており、紹介アナウンスが流れると、沿道からは大きな歓声が上がっていた。

 

ここがクライマックス!「米百俵の儀」

その後、大手通りに設置されたメインステージでは、時代行列で入場してきた人物たちが、戊辰戦争にいたるまでの流れを劇で披露。

新政府軍と長岡藩の交渉が決裂し、戦端が開かれるきっかけになった「小千谷談判」にはじまり、長岡藩と新政府軍の戦いの様子を殺陣で繰り広げる。

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激突する長岡藩と新政府軍。

今からおよそ150年前に勃発した戊辰戦争において、奥羽越列藩同盟に参加した長岡藩は、新政府軍と戦うことになり、河井継之助率いる長岡藩は徹底して抗戦。各地で激闘を繰り広げた。その様子を再現した殺陣だ。

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「戊辰戦争と長岡」殺陣での迫力の砲撃シーン。

長岡藩の軍事総督・河井継之助は、ガトリング砲や新式銃など、先進的な軍備を導入し、優れた指揮で西軍を苦しめたとされる。その戦いぶりもイベントの中で再現されていた。

藩政の中心地・長岡城を奪われ、奪い返すという長岡藩と新政府軍の戦いは、凄惨な市街戦へと発展し、長い年月をかけて築かれた長岡の町並みは焼け野原となってしまった。

「米百俵の精神」が生まれたきっかけは、この戊辰戦争からの復興が大きく関わってくる。つづく「米百俵の儀」では、その成立の過程が具体的に描かれる。

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「米百俵の儀」。

焦土となった長岡を復興するにあたって大きな役割を果たしたのは、長岡藩大参事・小林虎三郎だった。江戸に遊学をし、佐久間象山の門下生でもあった虎三郎は、教育の重要性を感じ、国漢学校を開設。復興を担う人材を育てはじめていた。

そんな中、長岡藩の窮状をみかねた支藩の三根山藩から「復興に役立ててほしい」として長岡藩に米百俵が送られる。小林はこの米百俵を売却し、国漢学校の新校舎開校や諸外国について学ぶ洋学局(のちの長岡高等学校)、医学局(のちの長岡赤十字病院)を開設するなど、徹底して人材の教育に投資した。

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昨年の「米百俵まつり」より。

敗戦の傷跡が深く残る長岡藩。その日食べるものにも事欠く状況の中で、日々の糧となる米を売り払い、教育に投資を行うことは、当然、藩内から多くの反対意見が出た。それを「食えぬからこそ教育するのだ」と制する。

「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……」(山本有三の戯曲「米百俵」。長岡市HPより引用)

劇で演じられる「米百俵の儀」の元になっているのが、「米百俵の精神」を広く世に知らしめたきっかけのひとつである山本有三の戯曲「米百俵」。そのクライマックスシーンが、迫真の演技で上演される。

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米百俵の精神が生んだ長岡の先人の紹介。

小林の想いは実を結ぶ。生徒一人ひとりの才能を伸ばす教育によって、長岡のみならず、のちの日本を背負って活躍する人材が各分野で育っていく。解剖学医学博士の小金井良精、哲学者の井上円了、フランス文学者の堀口大學、海軍大将の山本五十六といった人材が世に送り出された。

市民が扮した米百俵の精神が生んだ先人たち21人は、時代行列に先立って大手通りのメインステージに勢ぞろいし、一人ひとりその偉業を紹介されていく。

長岡というまちを愛する市民によって演じられ、誇りを持って受け継がれていく「米百俵まつり」。来年の開催の際にはぜひその場へ赴き、長岡市民のDNAに刻まれる「米百俵の精神」を体感してみてほしい。

 

Text and Photos: Junpei Takeya

掲載写真の一部は実行委員会よりお借りしたものです。

 

米百俵まつり2016
[開催日]2016年10月8日(終了)
[会場]大手通り、すずらん通り、セントラル通り
[主催]米百俵まつり実行委員会

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