「錦鯉」で世界とつながる! 若きブリーダー3兄弟が描く、地域復興の未来図

2017.12.13

錦鯉(ニシキゴイ)と聞いて思い浮かべるのは、日本庭園の広大な池で悠々と泳ぐ風雅な佇まいや、富裕層だけに許された贅沢なお道楽のイメージかもしれません。この11月に来日した大富豪の代名詞、トランプ大統領が見せた豪快なエサやりも話題になりましたね。

しかし実は近年、錦鯉は主にアジアや欧米など海外で人気沸騰中。庶民にも気軽に飼える鑑賞魚として人気なのです。発祥の地である新潟県長岡市の山古志地域には、鯉に魅せられた世界各国のディーラーが聖地巡礼のごとく引きも切らず訪れ、鯉を飼育・販売する養鯉場(ようりじょう)では英語を駆使して対応に追われています。

そんな養鯉場のひとつ、田中家が切り盛りする「丸重(まるじゅう)養鯉場」を訪ねました。英語表記は「Marujyu Koi Farm」。「コイ」はもはや世界の言葉なのだと驚きながら到着したそこには、朝からたくさんの外国人顧客を迎え、いきいきと働く家族の姿がありました。

 

アジアと欧米で異なる楽しみ方

秋も深まる11月半ばの朝。丸重養鯉場の仕事は8:00から始まります。秋は鯉ハント(買い付け)のハイシーズンということで、ちょうどオランダ人ディーラーが滞在しているタイミングでしたが、そのほかに飛び込みで訪れる顧客のアテンドもあり、田中家の長男、重嘉さんはてんてこ舞いです。

「シンガポールから急に来るっていう連絡があったんで、息子が長岡駅まで迎えに行くことになって。いまは長男が外国のお客さんの対応をしてるけど、高校のときは英語で赤点取ってたんだよ」と笑う、丸重養鯉場代表の田中重雄さん。田中家のお父さんです。

「よく売れるのは1年ものや2年もの、これくらいの大きさかな」と代表の田中重雄さん。

ほどなく、シンガポールのお客さんが到着。さらにもうひと組、香港のお客さんもやってきました。養鯉場には、中国語、英語、日本語が飛び交います。

「前もって連絡をくれる人もいれば、飛び込みの人もいる。秋は品評会もあるし、買い付けも多いから、この時期は無休だね。子供が小さい頃は学校の休みに合わせて夏休みを取ったりしたけど、土曜も日曜もお客さんが来ればなかなか休みにはできないよ。家でやってる仕事だからさ」(重雄さん)

日本では豪奢なイメージがつきまとう錦鯉ですが、海外ではどうなのでしょう。

「日本や中国、東南アジアでも、錦鯉はやっぱりお金に余裕がある人の趣味が基本なんだけど、ヨーロッパでは、家族みんなで、子供も奥さんも一緒に楽しんでいるんだよね。今年生まれて来年の春くらいに出荷する鯉は、こっちで1000円くらいから。運賃や税金とかを入れて、ヨーロッパでは5000円くらいの小さい鯉もよく売れているんだよ」(重雄さん)

暖かな日差しが降り注ぐ晩秋の丸重養鯉場。まもなく辺り一面が春まですっぽりと雪に包まれる。

父である先代の後を継ぎ、2代目として仕事をしてきた重雄さん。幼いころから錦鯉に触れていたため、家業を継ぐことになんの疑問もなかったと言います。

「親父から言われたことなんてないけど、長男だったから自然と自分も鯉屋(養鯉業)をやるもんだなと思ってた。子供のときから自分の鯉を育てて、それを親父が売るわけよね。スキーが欲しけりゃ、自分の鯉を売った金で買う。そのころは錦鯉ブームで絶好調だったからさ。みんなが持ってないようないいスキーが買えて、子供心にこれはいいなと思った(笑)」(重雄さん)

丸重が手がけた鯉は国内外で開催される錦鯉の品評会で高く評価され、数々の賞を受賞しています。

「賞を獲ると『丸重の鯉が獲ったよ!』って、お客さんが写真を送ってくれるんだ。品評会の頂点が『全日本総合錦鯉品評会』。そこでチャンピオンになれば日本一、つまり世界一だね。柄の美しさもあるけど、色が鮮明かどうかも大事。赤と黒、赤と白とか、色の境目がスッキリしていること。

うちは白地に頭だけ紅い『丹頂』が得意。鯉屋ごとに得意なものがあるから、鯉屋は商売敵が少ないんだ。誰よりもいい鯉つくりたいっていう、ライバルはいっぱいいるけど。うちに来たお客さんが『こんなの欲しい』って言って、もしうちになければ『じゃあ、あそこに行きな』って電話してあげる。世界を相手に、お互いに紹介し合ってるから仲がいい。新潟で品評会やるとき、みんなで設営するんだけど、仲いいから仕事が早いよ」(重雄さん)

 

「みんなでここを復活させる!」
地震後に加わった息子たち

順調だった養鯉場ですが、大きな試練にも見舞われました。2004年10月23日に発生したM6.8の新潟県中越地震により山古志全域が大きな被害を受け、全村避難となったのです。

「施設も鯉もみんなダメになった。3年くらいで8割がた直ったけど、ぜんぶ直るのに5年だね。我々のところは傾斜地だから。道路が直らなければ、池も直らんわね。道路から順番順番にやってったわけだから。震災の後、この虫亀(地区)の3分の1の住民はここに戻らなかった。戻ったのは鯉屋と、子供のいるうち。子供たちはみんな山古志に戻りたいと言ったみたいだね」(重雄さん)

丸重養鯉場の背後に広がる風景。13年前の新潟県中越地震で地滑りが発生し、鯉の養殖に使っている棚池や美しい棚田が崩れ、山古志全域が甚大な被害を受けた。

「地震のときは長男が25歳、次男が23歳、三男が高校2年生。長男は鯉屋になる気なんてなかったらしい。専門学校を卒業した後、うちと取引があるイギリスの鯉屋さんへ英語習いに行ってこいって言ったら『うん、行く行く』って行ったんだ。そのうちに、この仕事がおもしろいと思ったみたいで、地震のときは帰国してうちを手伝い始めたばかりだった。次男は別の仕事をしていたんだけど、地震の後のどん底のときに『兄弟3人で鯉屋やりたい。みんなでここを復活させる』って言ってくれたんだ」(重雄さん)

絶え間なく訪れる外国人顧客への対応で、養鯉場は朝から大忙し。

三男の三嗣(みつぐ)さんだけは、高校生のときから「鯉屋をやりたい」と言っていたのだとか。地震以前は両親ともに「長男がもうやってくれているし、三男もやりたいならやるなとは言わないけど」という程度で、まさか3人全員が家業に入るとは想像していなかったそうです。

「だけど、親鯉が残っただけで、地震で8割がたの鯉が死んじゃった。『やるったってお前ら、給料出せねえぞ』って言ったんだ。売り上げがねえんだもの。3年間無収入だったよ。ぜんぶ復旧するのに5年、大きい鯉もそろって、なんとか回るようになるには10年かかった。ある程度思うような形になってから、まだ2、3年ってところだよ」(重雄さん)

いただいたコーヒーのカップにも! 錦鯉への愛情を感じます。

「山古志で専業の鯉屋は20軒くらいかな。昔はもっと多かったし、地震がきっかけで廃業した人もいる。復興復旧に金がかかるから、年取った人たちはもういいかって辞めた人が多かったね。だけど、辞めた人の池を借りて使ってるから、軒数は減ったけど養殖面積は増えてる。一軒一軒の規模が大きくなってるんだな。

田んぼやめる人も多いから、棚田は棚池になって、養殖する池がけっこう増えてる。鯉がなかったら山古志はどんどん田んぼをやめて草ぼうぼうになって、また水害が起きる。水を蓄えて管理して、ちゃんと決まったところに流しているから、それがなくなるとダメだよね」(重雄さん)

若い3兄弟が加わった丸重養鯉場。3人の活躍ぶりを語るお父さんは、うれしそうに目を細めます。

「子供たちが3人全員やってる養鯉場は、うちのほかに小千谷に2軒。3人とも、それぞれの仕事があるんだけど、手が足りなくてお客さんを案内できないってことはないね。急な飛び込みがあっても、なんとか対応できてる。融通が利くから、お客さんの幅も広がっていくしね」(重雄さん)

左から長男・重嘉さん、次男・泰幸さん、三男・三嗣さん。これは強そう!

長男の重嘉さんは営業担当。買い付けに来る顧客をアテンドし、販売と輸出を担います。次男の泰幸さんと三男の三嗣さんは生産の要、鯉を飼育して出荷する担当。お父さんは「俺もそっちの労働派」と笑います。

力を合わせ、網で鯉を集める「網引き」、鯉を池から上げる「池上げ」。養鯉業は力仕事でもあり、生き物を扱う繊細な仕事でもあります。鯉に魅了され、この秋2週間丸重養鯉場に滞在したタイ人写真家の作品をお借りしました。©Jane Maneerat 写真提供:丸重養鯉場

 

後継者不足とは無縁!
そのシンプルな理由とは

新潟県の主要な産業は農業ですが、農業に限らず多くの産業において、高齢化と少子化で後継者不足が深刻な問題となっている昨今。しかし、養鯉業では、しっかりと次世代が育っています。

「うちだけじゃなくて、看板掲げて鯉屋をやってるところはちゃんと後継者がいる。鯉屋ほど後継者に困ってない第一次産業はないって、よく言われるよ。自分でつくったものを世界の人が美しいと言って買ってくれる、そんな商売はなかなかない。文化も宗教も違うのに、世界中のみんなが『泳ぐ宝石』って認めてる。芸術家の世界だな。

鯉は値段があってないようなもの。卵から孵化させて育てたものを直接自分たちが海外に出向いてでも、来てもらってでも、商売できるってのは相当やりがいのある仕事。土建屋や百姓の仕事もしなければいけないし、なんでもやらなければ鯉なんてつくれないけど、それを嫌だと言わないでやるってのは魅力があるから。仕事に魅力がなければ後継者なんてつかないよ」(重雄さん)

山古志で生まれ育つ錦鯉の魅力、山古志で養鯉業に携わる魅力は、きっとこの土地の力によるものも大きいでしょう。山古志のロケーションと鯉屋の仕事ぶりを、ドローンの空撮映像で出来上がった丸重養鯉場のプロモーションビデオでご覧ください。

動画提供:丸重養鯉場 制作:MAD PRUDUCTION

おとぎ話の舞台のような、のどかで静かな山間の集落。なのに、あちこちから多言語が聴こえてくるという、養鯉場は長岡市の中でもトップレベルでグローバル、かつエキサイティングな場所です。

 

「錦鯉はみんなのもの」

鯉が泳ぐ生簀(いけす)でシンガポール人ディーラーの相手をする長男、重嘉さんの仕事ぶりを見せてもらいました。ベトナム人の顧客のリクエストで鯉を選びにやってきたそうです。

模様の種類、大きさ、雌雄などのオーダーを受け、重嘉さんがディーラーと相談しながら鯉を選び、網ですくってブルーのタライに入れます。

はい、タライに入りました。ディーラーが確認してOKとなったら、ディーラーか重嘉さんが鯉の写真や動画を撮影します。

撮影したデータをSNSやメールで海外にいる顧客に送り、先方に確認してもらいます。なんとスピーディーな! インターネットの普及で売買の交渉も簡便になりました。

長岡市のウェブサイトの情報によれば、錦鯉の生産額は年々増加傾向にあり、7〜8割が海外へ。主な輸出先は以下となっています。

中国、韓国、台湾、香港、ベトナム、マレーシア、シンガポール、インドネシア、タイ、フィリピン、ミャンマー、オーストラリア、ニュージーランド、ブルネイ、スリランカ、インド、アラブ首長国、サウディアラビア、イスラエル、トルコ、ポーランド、ギリシャ、イタリア、ベルギー、スペイン、オランダ、フランス、ルクセンブルグ、ドイツ、スイス、オーストリア、イギリス、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、アイルランド、マルタ、エジプト、ベナン、南アフリカ、ロシア、チェコ、カナダ、アメリカ、トリニダード・トバゴ、アルゼンチン、ブラジル、ペルー、ポリネシア、ミクロネシア、ウクライナ、エストニア、カタール、レコニオン、ナイジェリア、モーリシャス

参照:長岡市公式サイト 市の魚「錦鯉」

ちょうど山古志に滞在中だったオランダ人ディーラーのStefan Kosterさんにも、錦鯉と山古志について聞いてみました。ドイツやベルギーと並び、オランダは錦鯉の愛好家が多く、ヨーロッパの主要マーケットなのだそうです。

「大学で海洋生物学を学んでいて、まず真鯉を、そして錦鯉を知り、それ以来魅了されているよ。すべての鯉がユニークで同じ柄は2つとない。アートだよね。1匹1匹ぜんぶ違うから見ていて全然飽きないよ。20年くらい錦鯉の仕事をしていて、日本には18年くらい通ってる。山古志には1年に3、4回くらい来てるけど、ここは僕にとってとても重要な場所なんだ」(Stefan Kosterさん)

錦鯉に関わって20年のオランダ人ディーラー、Stefan Kosterさん。

「オランダでも錦鯉は大人気。クオリティや大きさによってターゲットは違うんだけど、それなりの品質のものなら一般の人たちも楽しめる。リッチな人たちだけのものではなく、錦鯉はみんなのものだよ、ヨーロッパでは。個人的には80匹飼ってて、僕の店には3000匹くらい。水もたくさん必要だよね(笑)。

山古志のほかの鯉屋さんにも行くんだけど、『丹頂』『紅白』『昭和三色』をつくるのが得意なMARUJYUは、僕にとってメインのブリーダー。ここに初めて来てから15年くらいになるかな。最初はお父さんとビジネスをしてたけど、お父さんは英語が得意じゃないから僕が片言の日本語を話したりして(笑)。今回はもう6週間も滞在しているよ。すっかり第二の故郷みたいだね。すごく快適で、ここが大好きなんだ」(Stefan Kosterさん)

この生簀から、このタライから、錦鯉が世界に旅立っていきます。

 

新しい感性で新しい養鯉業を

忙しい重嘉さんにも、仕事の最中にいくつか質問をしてみました。

──最初は養鯉業に関わるつもりがなさそうだったと聞きましたが、気持ちにどんな変化があったのでしょう。

「子供のころの印象としては、鯉屋は休みもないし、遊びに連れてってもらったこともない。苦しそうな仕事だなと、そんなイメージしかなくて。高校卒業後はスポーツトレーナーになりたくて専門学校に通って、アメリカに行きたいと思ってたんです。でも、親父からイギリスのウェリン・ガーデン・シティという町に鯉の卸業者さんがいるから、そこに行ってこいと言われて。自分に鯉屋を継がせたかったみたい。英語は苦手だったし、ちょうど僕もトレーナーになるために英語が必要だと思って行くことにしました。

イギリスに行く前、春から秋まで半年くらい親父の手伝いをして。卵から稚魚を育てるという、それを初めて通しで見て『こんなおもしろいことやってたんか!』と。そして秋にイギリスに行ったら、日本から鯉がどんどん送られてくる。この近所の人たちの鯉がみんなイギリスにやってきて、これはあそこんちのかと触ってみたりして、鯉によって全然違うんだなとわかって。そこから急におもしろくなってきて、ほかの仕事のことは考えなくなりました。

悪いせがれですけど、継いでほしいと言われても嫌なもんは嫌だろうと。おもしろいと思わなければ、自分の性格では続かないだろうって思ってたんです。21歳になったころにイギリスに行って『こんなにおもしろい仕事だったんだ。この仕事はいいな!』って。その切り替えは思いっきり早かった。

やればやるほどわからないことや知りたいことが出てきて、鯉屋の仕事は奥が深い。どんどん深みにはまってる感じ。経験を積み重ねること以外にありません」(重嘉さん)

12月にインドネシアで開催された品評会で審査員を務めた田中重嘉さん。これまで中国、マレーシア、タイ、シンガポール、台湾、香港、ドイツ、オランダでも審査員経験あり! 写真提供:丸重養鯉場

──地震の後、兄弟でこの仕事をやろうと弟たちに声をかけたのは重嘉さんだったのでしょうか。

「3人でやることになったのは、やはり地震がきっかけ。だけど、いちばん下の弟は前から『鯉屋やろうぜ!』って言ってたし、すぐ下の弟もきっとやりたいんだろうなと思っていました。3人で話をして、真ん中の弟には『やりたいならやるべきだと思う』って言って。当時は難しいことは何にも考えず、『3人でやっちゃおうよ!』ってノリで。まぁ、そんなだったからできたんですよね。いまだったら気軽に言えませんね。よく親父がオッケーしてくれたと思う」(重嘉さん)

最初から鯉屋志望だった三男の田中三嗣さん。オランダの取引先で英語を学び、兄・重嘉さんの仕事を少しずつ手伝っています。

──重嘉さんが思い描く養鯉業の、また丸重養鯉場の未来とは、どんなものでしょうか。

「つくりたいように鯉をつくりたい。だけど、画家が好きなものだけ描いていたら食えないのと一緒で、すごく難しいことなんですよね。これもアートだから。通し切ったものがいちばん強いけど、そこに行き着くまではとても大変。僕らは親父やじいちゃんが作った養鯉場で仕事できてるけど、誰がとんでもない鯉をつくるかわかりません。その感性がある人が、もしかしたら全然関係ないところにいる可能性もある。なにもないところから自分の腕と感性だけですごいものをつくっちゃって、世界の人に認められたら。それをプロデュースするのもおもしろいでしょうね。

鯉をつくりたい若い人たちにもどんどん参入してほしい。設備のハードルがあってやれないとしたら、うちを活用してもらっていい。すでに出来上がっている海外への流通も活用する。設備を気にせず、とにかく鯉をつくれと。僕は僕で好きなものつくるけど、地域産業として盛り上がるためには新規参入があったほうがいい。うちの子供たちが加わってもいい。そんなシステム整備ができれば丸重も発展するし、産業としてもいい循環が生まれると思います。みんなで刺激し合って切磋琢磨する。そんなことを考えています」(重嘉さん)

山古志が真っ白な雪ですっぽり覆われる季節がすぐそこまで来ています。冬はのんびりできるのかと思いきや、「外国のお客さんは関係ないね。昔は冬は休んでたけど、外国から日本まで来てしまえば、どんなに雪が降ろうと来る」と笑う重雄さん。丸重養鯉場の多忙な日々はまだ続きそうです。

田中家のみなさん。「ケンカ? そりゃ、しますよ。でもStephenが『家族みんな、向いてる方向は一緒だよね』と言ってくれました。そう見てくれている人がいるのはうれしいですね」と長男の重嘉さん。

 

Text: Akiko Matsumaru
Photos: Mi-Yeon

 

丸重養鯉場 Marujyu Koi Farm
[住所]長岡市山古志虫亀677
[営業時間]8:00〜18:00、不定休
[電話]0258-59-2358
[Facebook]https://www.facebook.com/marujyukoi/

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