山古志史上3人目の女性闘牛主が語る「私が牛主になったワケ」

2016.9.6

新潟県長岡市の街中から車を約30分走らせると、棚田の美しい世界が広がる山古志と呼ばれるエリアへ入っていきます。2004年の中越地震で壊滅的な被害を受け、3年間の全村避難を余儀なくされた山古志。しかしそれから復興へと歩み続けた結果、今では日本の原風景ともいうような山の暮らしを再生させ、多くの人を魅了しています。

そんな山古志にある、国の指定無形文化財が「牛の角突き」です 。歴史は古く、1000年以上前から行われていたと言われ、勝敗をつけずに終わらせるのが、その特徴。牛がぶつかりあう迫力もさることながら、闘かっている牛同士を勢子と呼ばれる男性が引き放す場面も手に汗握る瞬間で見ごたえがあり、内外から多くの人が観戦に訪れます 。

ただ、近年は角突きの担い手の高齢化が進んでいます。

そうした状況の中、今年2016年の4月から、牛主(闘牛用の牛の持ち主)になったのが、森山明子さんです。森山さんは現在、「小豆丸」という牛の牛主として、牛の角突きに参加しています。

しかし、たとえ牛主であっても、伝統的に女性は角突きの土俵に入ることは許されません。また、牛主は牛を買って、エサ代や世話にかかる経費を負担しなければならず、もちろん黒字になることはありません。

そこまでして、なぜ、森山さんは牛主になったのでしょうか。山古志の闘牛会で、現在たった二人しかいない女性牛主の一人である森山さんに話を聞きました。

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闘牛会会長との出会いが人生を変えた

――山古志の角突きに興味を持ったきっかけは何でしょう?

森山「山古志闘牛会の会長だった松井治二さんに出会ったことがきっかけです。2011年に、山古志の郷見庵(さとみあん)という、道の駅のような施設で出会いました。そこで売られていた牛肉をおいしそうだなあと眺めていたら、松井さんがひょこんと現れ、なんとなくお話しをしたのです。その話しぶり、笑顔がツボにはまり、すっかりファンになってしまいました。このおじいさん、すごい!と一目ぼれでした。

中断していた闘牛を復活させるなど、中越地震の前から松井さんは山古志のために働いていました。地震後は、山古志や地震の大きな被害を受けた木籠(こごも)集落の未来を案じて、『郷見庵』を作り、水没した家を残すように働きかけて、地域の人と訪れた人との交流を積極的に行っていました。そんな松井さんから誘われて、時おり山古志を訪れるようになりました。」

はるじいと牛舎で

松井治二さんとのツーショット。森山さんが「はるじいがとてもよい表情をされていて大好きな写真」と語る一枚。

山深い木籠集落の風景。新潟県中越地震の際、土砂ダムにより集落が水没するという大きな被害を受けた地区。

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住民と木籠を訪れる方の交流施設、郷見庵(さとみあん)。1階は直売所、2階は交流スペースとして震災資料を展示しています。

 

最前列で牛に心を奪われる

――角突きを最初に観た印象は?

森山「2013年の長岡花火に友人が来たので、松井さんも出てらっしゃる山古志の角突きを観に行くことにしました。最初は、主人や友人と後ろの方に座っていたんです。ところが、角突きの取り組みが進むと、ものすごい迫力! 気づいたら主人と友人を残して私だけが最前列で、かぶりつきで見入っていました。私は、ドラゴンゲートというプロレス団体が大好きなのですが、角突きの迫力に通じるものを感じたのかもしれません。それからは、角突きに夢中になって、5月から11月まで毎月1~2回開催される角突きに、ほぼ毎回、通うようになりました。」

 

牛の世話をしているうちに募った牛主への思い

――観るだけの角突きから、なぜ牛主になったのでしょう?

森山「2年越しで闘牛会場に通っているうちに、山古志の人たちから『牛を持たなくてはね』と冗談交じりに言われたりしましたが、まさか『牛を持つわけがない』と思っていました。

そんな折、2015年の夏に大ファンだった松井さんが亡くなり、追悼の闘牛大会の打ち合わせが長引き、思いがけず牛舎に行くことになったのです。そのときはじめて、松井さんの息子である富栄さんの牛の世話の手伝いをしました。

闘牛会場と違う表情の牛たちが、ものすごく可愛らしかったのです。ブラッシングをすると、もっと撫でてと私を見ます。『次は私の番』と牛たちが次々に立ち上がるのです。すっかり牛の世話にはまってしまい、週に一回、牛舎に通うようになりました。

冬の山古志は、積雪が3~4mになる豪雪地帯なので、さすがに行けないだろうと思っていたのに、昨年は小雪で、冬も通い続けることができました。牛の世話をしながら、もし自分が牛を飼うならどんな名前をつけようという思いが芽生えてきたようです。あるとき不意に、『小豆(あずき)ちゃん』という名前が心に浮かんできました。

実は私は、中越地震で生き残った『豆五郎』(現『天の風―浜街道』)のことが大好きなのです。豆五郎は、闘牛は強くないのですが、かわいい顔をしていて、優しさが顔に表れています。もし牛を飼うなら、豆五郎のような赤い牛がいいと心に決めていました。また、名前も豆五郎の『豆』をもらって『小豆ちゃん』がいいと思っていました。」

――小豆丸との出会いを教えて下さい

森山「『小豆ちゃん』という名前が浮かんでも、角突きができなくなった牛のことを考えると、私には耐えられないと思い、諦めていました。

でも、あるとき、私が明日死んだら、牛を飼わなかったことを後悔するだろうと思ったのです。人間もずっと生きていることはできない。牛も人間も終わりがあることが、自然の流れのように思えたのです。そして、2016年4月に沖縄と徳之島から来た牛の中に、黒と茶のしましまの牛がいました。それが小豆丸です。南からの牛は黒牛だけだと思っていましたが、茶色が混ざっていたこの子を見て「このタイミングでここに来てくれたのはご縁かもしれない」と思い、決断しました。「小豆ちゃんでは名前がかわいすぎて強くなれない」と周りから言われたので、「小豆丸」と命名しました。

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小豆丸の体をなでる森山さん。

 

山古志の人たちから学んだ、損得だけでない生き方

――家族からは反対されませんでしたか?

森山「主人には内緒で決めたのですが、反対はされませんでした。新聞やテレビの報道で知った実家の母からは、『これから、年金も少なくなっていくのに、牛なんか飼ってどうするの?』と電話がかかってきました。親だから心配するのは当然だし、一般的に考えたら母の言う通りです。でも、私は山古志で、人は損得だけでは動かないことを学びました。山古志の人々は年を重ねてもお元気で、生き生きされている方が多く、こんな生き方をしたいなと思わせてくれます。損をしても、自分が楽しくて、他の人も喜んでくれたらそれでいい、そんな気持ちを大切にしたいと思います。

時おり考えるのですが、もし災害のような大変なことが起きても、山古志の方のような生き方を日頃からしていれば、困ることも少なくなるのではないかと思います。山古志の方は生きる力が強いし、自然に寄り添った生き方をしているから。その生きる知恵を学ぶために、私は山古志に通い続けているのでしょうね。」

――実際に牛主になってみてどうでしたか?

森山「小豆丸が初めて土俵入りした5月4日は、心配で食事も喉を通らず、吐き気もしてきました。こんなに心配するなら、牛持ちにならなければ良かったと後悔したくらいです。
その小豆丸が土俵に入って、元気に飛び跳ねただけで、涙がこぼれてきました。泣くかもしれないと思ったけれど、まさか土俵に入ってきただけで、泣くなんて。自分でも本当にびっくりでした。
今後は小豆丸が少しずつ、山古志の角突きに慣れていってくれればよいと思っています。

県外の方はもちろんのこと、長岡でも角突きを観たことがない人がまだまだ大勢います。こんなに素晴らしい伝統行事が近くにあるのは本当に恵まれた環境です。ぜひ多くの方に観に来ていただきたいですね。」

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小豆丸の取り組みを見つめる。

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国指定重要無形民俗文化財「越後山古志の闘牛大会」
[開催期間]5月~11月
[今後の開催]2016年9月18日(日)・9月19日(祝)・10月9日(日)・10月23日(日)・11月3日(祝)
[時間]各日とも10:00~開場、13:00~取組開始(取組数により変更あり)
[会場]山古志闘牛場(新潟県長岡市山古志南平地内)
[入場料]2,000円(高校生以上) ※入場券は開催当日に会場で販売/全国のコンビニでも購入可
[問い合わせ]山古志闘牛会 TEL:0258-59-3933  http://tsunotsuki.main.jp/

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