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17歳で欧州へ密航!長岡に生まれた「日本ビールの父」中川清兵衛の波乱の人生とは

栃尾長岡
栃尾長岡
2019年 12月 20日 | な!ナガオカ スタッフ

2016年のオープン以来、夏時期には特に賑わう新潟県長岡市与板町の「与板★中川清兵衛記念BBQビール園」。この場所の名前にもなっている、中川清兵衛さんという方が、一体、何を成し遂げたどんな方だったのか、みなさんご存知ですか?

実はこの方、このビール園のある与板町の生まれで、星のマークでお馴染みのサッポロビールの初代の醸造家。日本で初めて本場ドイツでビール造りを学び、そして本場仕込みの醸造技術で日本生まれのビールを作った、言わば〝日本ビールの父〟なのです。

今回は、サッポロビール株式会社にご協力をいただき、経営戦略部ビール文化広報室学芸員の江利川速さんと資料を読み解きながら中川清兵衛のひととなりを探ってみることに。すると、見えてきたのは、想像をはるかに超えた意外な経緯と前向きな人物像でした。

 

時代の流れによって動き出した清兵衛の物語

東京都恵比寿のサッポロビールの本社におじゃますると、出迎えてくださったのは、今回お話を聞かせてくださる江利川さん。手には、たくさんの付箋が貼ってある分厚い本を二冊抱えています。この取材のために、中川清兵衛の子孫が残したという『中川清兵衛伝』と『サッポロビール120年史』を読み返して準備してくださったとのこと。(本当にありがとうございます!涙)

中川清兵衛の物語を丁寧に語ってくださった、経営戦略部ビール文化広報室学芸員の江利川速さん。

早速、中川清兵衛がいつから海外への憧れを抱き、そして海を渡ったのかをお聞きしようとすると、江利川さんが申し訳なさそうにこう切り出したのです。

「私も、海外への憧れで矢も盾も堪らず!というイメージで清兵衛のことを調べはじめたんですけど、実は清兵衛が故郷を離れたきっかけは諸説あるようで、正確なことははっきりと分からないようなんです」

江利川さんはこう続けます。

中川清兵衛の子孫が残した書物とサッポロビールの社史を確認しながら、清兵衛の歩んだ道のりを読み解いていきます。

「『中川清兵衛伝』によると、中川清兵衛は1848年生まれの裕福な商人一族の御曹司。家業を継ぐために、幼い頃から英才教育を受けていて、とても優秀だったそうです。何かきっかけがあったのかは分かりませんが、清兵衛は16歳の頃に横浜へ向かうことになります。ちょうど幕府から与板藩に異国船接近に対する海岸警備が命じられたのもこの頃ですから、横浜へ行くことになった背景には、そういう流れも関係していたのかもしれません。今でいうと高校一年生くらい。その年齢で横浜に出したというのは、親御さんも内心はさぞ心配だったことでしょう。しかし、この時期の横浜は、黒船来航にはじまる文明開化の流れで、海外からの新しい文明がいち早く入ってきていました。そこで海外の文化に触れ、好奇心を掻き立てられたのかもしれません」

 

命がけの海外渡航と

ビールとの運命的な出会い

「清兵衛は、横浜に行った翌年にイギリスに渡っています。でも、これは〝密航〟。当時は、海外渡航が禁止されていた時代ですから、立派な犯罪なんですね。見つかれば即死罪というリスクを冒してまで、17歳の清兵衛は命がけで海外に渡ったということになります。イギリスにいた数年のことはあまり資料には残っていないのですが、密航できちんとした仕事には就けなかったでしょうから、おそらくボーイの仕事をしながら英語を習得したのではないでしょうか。そして、約7年後にはドイツに渡っています。ドイツでもボーイの仕事をしていたようですが、働いていた場所での大きな出会いが、清兵衛の運命を変えることになるんです!」

最初の申し訳なさそうな語り口から徐々にボルテージも上がり、すっかりストーリーテラーのような江利川さん。時折、付箋のついた資料をペラペラとめくりながら、語り続けます。

「この頃、後の外務大臣になる青木周蔵という男がドイツに留学していたんですが、清兵衛が働いていた家にたまたま招かれたんです。そして、ここで二人は運命の出会いを果します。青木は清兵衛の顔を見て日本人だとわかったのでしょう。『日本人がこんなことをしている場合じゃない。なにか技術を身につけた方がいい』とアドバイスしたと言います。そして清兵衛は、青木の紹介でドイツのベルリンビール醸造会社 フュルステンバルデ工場でビール醸造を学ぶことになります。これが、清兵衛とビールの出会いです」

心なしか安堵の表情を浮かべる江利川さん。それもそのはず、この出会いがなければ、今のサッポロビールは誕生していなかったかもしれないのですから。何より興味深いのは、ビール醸造を目指したわけではなかった清兵衛が、一つの出会いによってビールの世界に導かれているというところ。そして、青木周蔵のマッチング力の高さにも驚いてしまいます。しかも青木は、清兵衛の真面目さと優秀さを見抜いてか、清兵衛がドイツにいる間の資金援助をすることを決めていたと言います。しかも、日本から振り込まれた留学資金を銀行に預け、その利子の部分で清兵衛を養っていたと言うのですから、青木の賢さにも驚いてしまいます。

「清兵衛は、2年2ヶ月の醸造修行で一人前になったこと認められ、証明証を受け取っています。羊皮紙に書かれた証明書は、サッポロビール博物館に保管してあるのですが、色も鮮やかできれいなんですよ」

 

2年2ヶ月の醸造修行を終えて清兵衛が受け取った証明証は、今でもサッポロビール博物館に保管されています。ベースとなっているのは、紙ではなく羊の革を鞣したもの。レタリングで清兵衛の名前が記入されています。

イギリスとドイツでボーイをして働いた経験があったからこそ、ある程度の語学は習得していたのでしょうし、言葉がわかったからこそ、ビール醸造の技術を短期間で集中して学ぶことができたのかもしれません。しかし、日本人でありながらきちんと一人前と認められたという事実は、冷静に考えればすごいこと。異国の人に対して最初からオープンに技術を教えるということは、今の時代でも考えづらいことです。いかに清兵衛が真面目に前向きな姿勢で毎日取り組んでいたか、そして強い精神力で乗り越えてきたかということは、容易に想像することができます。

 

清兵衛の尽力で生まれ育まれた

日本初のビール醸造

そして、ビール醸造の技術を身につけた清兵衛の物語は、再び舞台を日本に移します。

「明治の初め、対露防衛と産業振興の目的で設立された北海道開拓使は、新たな事業を検討していました。そこで、検討されていたのがビール。北海道の広大な敷地は原料の大麦を作るのに適していましたし、岩内という土地ではホップが自生していました。それに、ビール造りには大量の氷が必要。北海道は、気候も原料を育てる環境としても、ビール造りにピッタリだったのです。そして、この一大国家プロジェクトを立ち上げるに当たって、醸造家として白羽の矢が立ったのが、日本人として唯一本場ドイツでビール醸造を習得していた中川清兵衛。そして、その推薦をしたのは、ビール醸造を学ぶよう促した青木周蔵だったのです」

清兵衛が辿ってきた数々の〝点〟が見事に繋がり、やっと〝線〟となったということでしょうか。しかし、あらためて、青木のマッチング力に驚いてしまいます。まるで、後に日本でビール造りが行われることがわかっていたかのよう! 未来から逆算して清兵衛をビール工場に送り込んだのでは? と言いたくなってしまいます。

「清兵衛は、ビール造りに必要な機械の選定から工場のレイアウト、醸造スタッフの教育に至るまで全てに関わり、たったの3ヶ月で『開拓使麦酒醸造所』の立ち上げを行いました。すごいですよね!そして、後に民営化して『札幌麦酒会社』となり、これが現在のサッポロビールとなります。1877年には、東京でも「冷製札幌麦酒」という名で発売され、美味しいと評判だったのだそうです。清兵衛は、当時としては破格の高給(月給五拾円)だったようで、毎春に自邸の庭でビールを振る舞う会を開催していたという記録も残っていますから、冷製札幌麦酒の売れ行きが良かったことが伺われます。それに、ビールを作ることにおいては真面目で職人気質だったようですが、人を楽しませることによろこびを感じるような人だったのかなと想像するんです」

一見順調に見られる「札幌麦酒会社」でしたが、当時、清兵衛は「粘性麦酒」という品質劣化品が時折できてしまうことに悩んでいました。清兵衛がドイツで修行した頃には、これを解決する技術は開発されていなかったのでしょう。それを、ドイツからやってきた醸造家が容易く解決してしまうのですが、その方法は清兵衛にも教えられないまま。その他にも、やり方や考え方の相違もあり、清兵衛は「札幌麦酒会社」を去ることになります。恐らく、日本でのビール造りに情熱を燃やし、誇りを持っていた清兵衛ですから、去ることはとても辛い決断だったことでしょう。

その後は、小樽で旅館を開き繁盛させましたが、利尻の人々が港がなくて苦労しているという話を聞き、私財を投げ打って港の整備に乗り出して、資金不足で旅館も潰してしまったのだとか。とにかく目の前に困っている人がいれば、動かずにはいられないような正義感の強い人だったのかもしれません。

 

清兵衛の情熱と開拓者精神は、

現在にも生き続ける

ここまで中川清兵衛という人の人生を辿ってみると、天真爛漫さや勇敢さ、生真面目さや誠実さ、柔軟さや豪快さなど、いろいろな側面が見えてきます。江利川さんは、あらためて清兵衛の印象をこう話します。

「ご本人の意思が最初にあるかないかは別にして、何か動かなくてはならなくなった時に、そこで得られる何かを最大限に得てくる力や、そこで得たものを次の場面で使って、事を大きく動かしてく力を持っている人だったのだなぁと改めて感じますね。運と言ってしまえば簡単ですけど、運が巡ってきたときに掴み取る力もあったのでしょうね。清兵衛の場合は、意思とは別の部分で、状況に対して最善を尽くして次のステップを掴んでいるという邁進の仕方が興味深く感じました。札幌麦酒醸造会社を辞めた時に、ビール醸造とは別の事業を始めたというのは、彼の義理堅さの現れのような気もします。古巣に不利益になるようなことはしない、対立軸に入るようなビジネスはしないという義理を感じます。目の前のご縁を大切にしてきた流転の人生だったのでしょうね」

そして、初代麦酒醸造人 中川清兵衛の心は、現在のサッポロビールにもしっかり受け継がれていると話します。

江利川さんが参考にしてくださったのは、サッポロビールが創立120周年を迎えた時に作られた社史の書物。

「開業式の写真には、樽にこんな文言が書かれています。〈麦とホップを制す連者(れば)ビイルとゆふ酒に奈る〉。これは、原料に対して大切に取り組み、踏むべき工程を正しく踏めばビールになるということなんですが、原料に素直に向き合わないと美味しいものはできない、という意味でもあります。私たちは、今も麦やホップを作っている協働契約農家さんとコミュニケーションをとりながら、常に美味しいものを目指していますが、根底にあるのは開業式で掲げられたこの言葉と想いなんです」

自分の道を切り開きながら、波乱万丈な人生を自分らしく歩んできた清兵衛ですが、与板の家族のことも気にかけていたであろう、こんなエピソードも印象的だと江利川さんは続けます。

「清兵衛は、本家の養子になって跡取りになる予定でしたから、どこかで家を出たまま戻らずにいることを申し訳なく思っていたのではないでしょうか。というのも、札幌でビール醸造家として成功した頃に、養母のために家を建てていると資料に残っています。若い時に家は出てしまっていても、家族のことをいつも忘れず想っていたのでしょう」

そんな家族想いの清兵衛ですから、さぞ、与板の家族にも自分が作った自慢のビールを飲ませてあげたかったことでしょう。そんなふうに思うと、こうして今、新潟限定で飲むことができる地域限定ビール「風味爽快ニシテ」は、清兵衛の願いが時を超えて地元に届いている一品とも言えます。そもそも「風味爽快ニシテ」という一言は、開拓使麦酒醸造所のビールに添えられていた取り扱い説明書にある味の説明にある一節。江利川さんは、このビールについて、こうも話してくれました。

「新潟限定で販売している『風味爽快ニシテ』は、清兵衛が取り組んだ創業時のビール作りに立ち戻り、オールモルトのしっかりしたうまみとスムーズな飲み口、そして、苦味と香りのベストなバランスによる爽やかなのどごしにこだわって作っています。作り方は当時よりも進化していますが、志は創業時のまま。これは、清兵衛を生んだ新潟という土地に感謝と恩返しの気持ちを込めて作ったビールです」

与板に生まれた中川清兵衛という一人の開拓者は、常に目の前のご縁を受け入れ、そのチャンスに前向きに取り組んだ人だったのでしょう。彼が生まれた町を出ることがなければ、サッポロビールが生まれることもありませんし、もちろん「与板★中川清兵衛記念BBQビール園」もなかったかもしれない。そう思うと感慨深いですよね。

今年はビアガーデンの季節は終わってしまいましたが、来年は中川清兵衛の流転の人生とフロンティア精神にも想いを馳せながら、ぜひ「与板★中川清兵衛記念BBQビール園」で『風味爽快ニシテ』をはじめとするさまざまなビールを味わってみてはいかがでしょうか。何気なく飲んでいたビールの味が、今までよりもほんの少し味わい深く感じられるかもしれませんよ。

 

Text: 内海織加

 

●Information
与板★中川清兵衛記念BBQビール園
[住所]新潟県長岡市与板町 与板河川緑地たちばな公園 内
[URL]https://www.nagaoka-yoita-beer.jp/
※2019年度の営業は終了しました。毎年4月~10月下旬の営業予定です。
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