フランス菓子と共に40年。「ラ・マドレーヌ」武田保司さんが貫く“暮らしの菓子”の矜持
JR長岡駅から西へ車で8分ほど走り、信濃川を渡った先に佇む洋菓子店、Pâtisserie La Madeleine(パティスリー ラ・マドレーヌ)。店主の武田保司さんは、東京のAU BON VIEUX TEMPS(オーボンヴュータン)、ベルギーのLe Sanglier des Ardennes(ル・サングリエ・デ・ザルデンヌ)など、国内外の名店で修業した後に故郷の新潟県長岡市で店を開き、長きにわたりフランス菓子を手がけてきました。日々お菓子作りに専心するシェフでありながら、店内で飲食する人のために自らエスプレッソを淹れたり、お菓子教室を開催したり、パティシエに憧れる子どもたちにケーキ作りを教えたり、まちの人たちと触れ合うことにも意欲的です。市民に愛され、2026年11月に26周年を迎える「ラ・マドレーヌ」の物語をお届けします。
父のケーキをおやつに育った幼少期
逡巡することなくお菓子作りの道へ
武田さんが作るお菓子に惚れ込み、ファンが足繁く通うラ・マドレーヌ。パリの薫り漂う洗練された店構えですが、かといって敷居が高いわけではなく、ふらっと立ち寄ってケーキや焼き菓子を選び、そこで味わうこともできる親しみやすさが魅力です。

長岡市で生まれ育った武田さんが修業を経て帰郷し、ここ古正寺にラ・マドレーヌをオープンしたのは2000年11月15日のことでした。修業時代から40年余にわたりフランス菓子ひと筋に邁進してきた武田さんに、この道を選んだきっかけから伺います。
「実家がケーキ屋だったんです。子どものころに暮らしていた家は中心市街地に近いところにあり、狭いところだったので、目を覚ますとすぐそこでお菓子を焼いていて、ケーキが毎日のおやつでした。その後、水道町に引っ越してからは2階が自宅、1階が工場で、親父がお菓子を作っているところを見て育ちましたから、なんとなく自分が店を継ぐんだろうなと思っていました」

「高校を出て、洋菓子を学ぶために東京製菓学校に行こうと思いました。楽しそうだし、やっぱり東京がいいなと。関東に親戚がいたので、よく遊びに行っていたんです。でも、学費がすごく高くてね。親父が『学校はいいから、ここで修業しろ』と、菓子屋の繋がりで千葉県市川市にあった『ドルチア』という洋菓子店を見つけてきて。東京で勉強するはずが、なぜか千葉で修業することに……(笑)」

高校を卒業して長岡を離れ、18歳で社会に出て現場で学び始めた武田さん。ドルチアでどんな時間を過ごしたのでしょう。
「最初は店番ですね。1、2年は接客をして、工場が店と別の場所にあったので、1年半くらいしてから工場に移り、ケーキを作っていました。ドルチアは当時、市川だけでなく浦安や日本橋にも店舗を拡大していて、すごく勢いがあったんです。そこで6年間しっかり技術を学ばせてもらいながら、休みの日は東京のケーキ屋をあちこち巡って研究していました。お世話になったドルチアをそろそろ辞めて次の店に行こうと思うようになってからは、行き先を自分で探そうと、より食べ比べに励みましたね」
そんな日々の中、武田さんは「これだ!」というフランス菓子に出会いました。
「焼き菓子の焼き色で、その店のシェフの気持ちがだいたいわかるんです。あるとき訪れた世田谷区等々力の『オーボンヴュータン』の焼き色がすごく深くて、ああ、これはいいなと思って。とても気に入ったので、電話して『働かせてもらえませんか』とお願いしました。シェフの河田勝彦さんに『いまの店には何年いるの? 6年ですか、じゃあ来てください』と言われ、すぐに決まりました。後で聞いたら、河田さんはドルチアの木村修社長と知り合いだったんです。河田さんがフランスにいたとき、木村さんはスイスでチョコレートを学んでいて、ヨーロッパで菓子を学ぶ日本人同士で仲良くなったようです。そういう繋がりがけっこうあるんですよね」

日本におけるフランス菓子の第一人者、憧れの河田さんのパティスリーで次なるステップに進んだ武田さん。オーボンヴュータンでの日々と運命的な出会いが、人生の進路を決めることになりました。
「技術」と「エスプリ」、
大切な二つを学び、海外へ
「ドルチア時代は、技術的なことを一生懸命勉強したり、専門学校に行ってない分、自分でもっと学ぼうと思って本を読み漁ったり、お菓子を食べ歩いたり。ケーキのデコレーションなどのコンペに毎年出るのは嫌々だったけど、その経験がいま役立っているから、運がいいなと思います。オーボンヴュータンでは、自分が作るケーキとはどういうものなのか、フランス菓子というものの何たるかということを河田さんに学びました、ものづくりをする人間にとっていちばん大事なエスプリというか。いま振り返ってみても、その3年間がすべてですね」
武田さんのお菓子作りの基礎となる技術とエスプリ、フランス菓子に向き合う精神や美意識が、ドルチアでの6年間とオーボンヴュータンでの3年間で培われました。その後はいよいよ海外へ? と思いきや、西麻布にあったスフレ専門店「ル・スフレ」(注:2022年に代々木に移転)で働くことに。

「ここはオーボンヴュータンの立ち上げのときのスーシェフ(副料理長)だった永井春男さんの店で、河田さんと永井さんはすごく仲良しなんです。河田さんに『お前は来年フランスに行くんだから、その前に半年くらいル・スフレに行け。人が足りないから』と言われて。オーボンヴュータン卒業後はフランスで働くのが当たり前になっていて、私も行くことを決めていたので、半年くらいなら、まぁいいかと軽く考えていたのですが、結果としては1年でした。ル・スフレで過ごしたその1年間は、海外のレストランで働く上でのスキルとして大いに役立ちました」
そして、ル・スフレの次はフランス、ではなく、なぜかベルギーに行くことに。
「それがまた運命というか。ル・スフレの永井さんはあちこちで講習をやっていたのですが、教え子がフランスから帰国して店に遊びに来たんです。永井さんが私を見ながら『武田がフランスに行きたいんだけど、どこかないかな?』と彼に聞いたところ、『日本人の知り合いがベルギーで働いていて、パティシエを募集してますよ』と。さっそく電話で聞いてくれて、『来月から来てください』という返事をもらいました。フランス語圏だし、ベルギーならいいかなと思い、行くことにしたんです。フランス語は駅前留学で少し勉強していました。当時は“メルシー、アン・ドゥ・トロワ”くらいでしたけど(笑)」

そして渡欧し、ベルギーに向かった武田さん。新天地は「ル・サングリエ・デ・ザルデンヌ」という、王室御用達のオーベルジュ(注:ホテル併設のレストラン)でした。
「とても有名な店ですが、東部の地方都市・リエージュから電車で1時間、駅から歩いて1時間半くらい。まるで“ムーミン谷”のような、すごい田舎なんですよ(笑)。有名なグランシェフがいて、東京の帝国ホテルでベルギーフェアをやるときに呼ばれるような人です。パティシエは私ひとり、ほかに修業中の“apprenti(アプランティ)”と呼ばれる若者たちがいて。その子たちは私から技術を学びたい、私は彼らから言葉を学びたい、そんなギブアンドテイクでコミュニケーションを取っていました。給料をたくさんもらっていたけど、ムーミン谷だから買うものも遊ぶ場所もない。ビールに使うだけ(笑)。お金を貯めてはあちこち一人旅していました」 そして、無事に1年契約の任期を満了。その後はいよいよフランスで働こうと就職活動を始めた武田さん。応募するための手紙をアプランティの若者たちに書いてもらい、ロワール地方の店に採用されました。

「実は、その店はすぐに喧嘩して辞めたんです(笑)。1990年代後半でしたが、オーボンヴュータンの仲間が10人くらいフランスにいたので、ロワールからパリに行き、仲間のアパートに転がり込みました。レストランで仕事を得て、パリにはなんだかんだ2年くらいいましたね。当時は日本人がたくさん研修に来ていました。差別を受けて喧嘩することもあったけど、あんまり気にしなかった。ちゃんと交渉して、フランス人と同等の給料をもらえたし、フランス人の友達もできたし。『ちゃんと給料をもらわないと意味がない』というのも河田さんの教えです。ベルギーもフランスも自由で気楽で、なんのしがらみもなく、楽しい日々でしたね。特にパリは居心地がよかったです」

しかし、1999年に武田さんは楽しい欧州生活を終え、帰国することに。なにがあったのでしょう。
「姉貴が親父とお袋を連れて、みんなでパリに来たんですよ。旅行も兼ねて、『そろそろ帰ってきなさい』と直接言いに来た。早く帰ってきてほしかったんでしょうね。そのころ実家は結婚式の引き出物のお菓子などを作って卸す仕事をしていましたが、最初のドルチアのときから、修業を終えたらすぐ長岡に帰ってくると思ってたみたいで。ベルギーに行ったら1年で帰ると約束してたんだけど、『もうちょっとこっちにいたい』と話してフランスに行ったんです。私としてはいつか帰るつもりはあったけど、長岡に固執していたわけでもなく。でも、いずれ親の面倒も見ないといけないという気持ちもあって帰ってきました」

父の営んだ店に敬意を込めて
店名を同じ「マドレーヌ」に
18歳から千葉、東京、ベルギー、フランスで豊かな経験を積み、31歳で帰国した武田さんは、さっそく師匠の河田さんを訪ねました。
「『お前はこれからどうするんだ』と訊かれて『店をやります』と答えたら、『すぐやらないと、お前はやらなくなるから。すぐやれ』と言われました。それで、物件を探してここを見つけ、帰国した翌年、2000年11月に店をオープンしたんです」
店名の「ラ・マドレーヌ」には、こんな由来があるのだとか。
「1965年創業の親父の店が『マドレーヌ』だったんです。それを継いだという気持ちで、この名前にしました。親父は大阪屋という新潟の和菓子屋で丁稚奉公し、のれん分けした店から独立して。当時の専務が親父に『これからは和菓子じゃなくて洋菓子だ。洋菓子を作れ』と言ったそうです。それできっと店名を代表的な焼き菓子の名前にしたのかな。まぁ、親父はそんなに深く考えてなかったと思うけど」

長岡でフランス菓子の専門店を開くにあたって、客層や好みなど意識されたことはあるのでしょうか。
「そんなこと考えもしなかった。いや、でも、多少はあったのかな。河田さんとそんな話をしたことがありました。『長岡で店をやるんです』と言ったら、『お前はいままでなにしてた? なにを作りたくて菓子屋やってんの?』って。それを日々考えながらやりなさい、ということです。河田さんも永井さんもそうだと思いますが、これまでやってきたこと、自分がやりたいことをやるだけ。それしかできないから。それで売れなかったらしょうがないですよね。やりたいと思わないことをやっても意味がない。最初のころ、カヌレを見たお客さんが『なんだ、この黒いかたまりは?』とか、マカロンを見て『この赤い最中(もなか)はなんだ?』とか、いろんな反応がありました。『美味しいよ。食べてみて』と、うちのお菓子を好きになってもらうしかない。私は自分が食べたいもの、美味しいと思うものを作るだけです」

「うちのお菓子は『おやつとして食べる駄菓子のようなフランス菓子』。ケーキはおやつなんです。私は生まれたときから、おなかが空いたら食べてました。子どものころは100円玉を握りしめて駄菓子屋に行くのがすごく楽しかったし、お菓子はそれでいいんだと思います。最近は材料もなにもかも高くなっていますが、ケーキは500円以下と決めてるから値上げはしません」

2021年11月には、ラ・マドレーヌの2号店、La Madeleine 2ème(ラ・マドレーヌ・ドゥーゼェム)を四郎丸にオープン。こちらでもフランス菓子が購入できるほか、定休日の火曜日にお菓子の教室を開いています。
「フランス菓子を知らない人が多いから、もっと知ってもらいたい、教えてあげたいという気持ちでやっています。お菓子作りは楽しいし、美味しいから、みんなもやってみたら? って」と武田さん。「火曜日が教室だと、お休みがないですね?」と尋ねると、「教室の予約がない日は柏崎に釣りに行ったりしていますよ。昨日もイワシを釣って、オイルサーディンを作りました。アジとかキスとか、食べたいと思ったら釣ってきます」と笑います。
武田さんはお菓子作りだけでなく、料理もお好きなのだとか。
「厳密に言うと、フランスでパティスリーと名乗る店には“トレトゥール(traiteur)”という部署があって、パテとかサラダとかキッシュなどのお惣菜を作っています。私もル・スフレ時代は料理を手伝ったり、本を買って勉強したりしていました」

高いお菓子は作らない。
「おやつの店」のプライド
パティシエに憧れる子どもたちも多い昨今、家業を継ぐという自然な流れでこの世界に入り、才能と出会いに恵まれ、お菓子作りが天職となった武田さん。その楽しさを子どもたちにも伝えようと、ラ・マドレーヌのキッチンでケーキ作りを教えたこともあります。友人でユニークな学習塾「ひねもす大学」を運営する太刀川晋平さんからの依頼によるものでした。

「太刀川さんは店のお客さんでした。私はこう見えて人見知りで社交性がないんだけど、太刀川さんがたくさんの人を紹介してくれて、塾の教え子だった大学生にここでバイトしてもらったこともあるし、いろいろお世話になっているから頼まれると断れない(笑)。実際にケーキを作っている現場を見せたいということで引き受けました。パティシエになりたい人は多いけど、けっこう難しいみたい。ここにも修業したいという人がいっぱい来て、いっぱい辞めていきます。若い人たちには『同じ業種だったら、どこの店でもそんなに変わらないから、どこでも自分にとってマイナスになることはない。たとえマイナスがあっても勉強になるから、それもプラスになるんだよ』とよく言ってますね」

まもなく還暦という節目を迎える武田さんに、この先の展望を伺いました。
「とにかく菓子作りが好きなので、何歳まで仕事をするかとか、考えたことがないです。菓子を作ってないときは釣りをして、釣りをしていないときは菓子を作って。たまに料理もするけど、菓子作りは日々の生活というか、家族のために料理して食事するのと同じ感覚です。早く仕事を終えて趣味のための時間がほしい、好きなことをやりたいと言う人もいますが、私の場合は一日中ずっと好きなことをやり続けているんです。休みがないということでなく、仕事だと思ってないから、ずっと休みみたいなもんですよ。仕事だと思っているのは、注文のウェディングケーキを作ること。もちろんそれも全力でやってますが(笑)」

「中東情勢の影響か、最近は材料が日本に入ってこなかったり、価格が上がったりで、作れないものも出てきていますが、できる範囲でやるしかないですね。値段が高くなってしまうものは作りたくない。おやつが800円とか1000円とか、ありえないでしょ。これからは果物のコンポートとかコンフィズリー(confiserie)、たとえばマシュマロ、キャラメル、果物の砂糖漬けなど、手間はかかるけど日持ちのするものを増やすとか、そういう方向にシフトしていこうかなと考えています。南フランスにそんな店があって、コンフィズリーを並べるのもおもしろいかなって」

「店が混むと常連さんにとって迷惑だから、取材はお断りしてきたんです。お客さんが大切なので」と言う武田さんでしたが、そこをなんとかとお願いしてお話を聞かせていただきました。ひたむきにフランス菓子に没頭してきた菓子職人としての心意気に触れ、武田さんのお菓子とお人柄に惚れ込んで通うファンが多いことに納得。混み合ってほしくないけれど、やはり一度は訪れてほしい名店であり、話をしてみてほしい人です。
2号店 La Madeleine 2ème(ドゥーゼェム)の情報は下記のリンクからInstagramをご参照ください。こちらはペットのワンちゃんを連れていくこともできます。JR長岡駅東口から歩いて10分ほど、中央図書館へ向かう散歩道の途中にあるので、お散歩がてらぜひお立ち寄りを。

Text: 松丸亜希子 / Photo: 居城俊之(PEOPLE ISLAND PHOTO STUDIO)

