まちを知る
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戦争と震災を知らない子供たちへ――平和学習が伝える感謝とあきらめない気持ち
2019/9/6 新潟県長岡市には、忘れてはいけない2つの悲しい歴史があります。1945年8月1日の「長岡空襲」では焼夷弾が投下されて焼け野原となり、無差別に多くの命が奪われました。そして2004年10月には最大震度7を記録した「中越大震災」で建物や道路が崩壊し、犠牲者も出ました。 しかし、自分のまちで起こった悲惨なできごとであっても、実際に経験していない人にとっては、どこか遠くの世界で起
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柱時計が刻み続ける“業火の記憶”。ある一家の、空襲の夜の物語
2018.8.1 ボーン、ボーン、ボーン……。1945年8月1日の夜。柱時計の午後11時を告げる音が、空襲から逃げようとしていた今泉長治(ちょうじ)さん(当時42歳)の耳を打ちました。家族の自慢だった舶来の時計をなんとか残したい一心で、長治さんは急ぎ時計を貯蔵用の防空壕に移して家から飛び出し、焼夷弾が降る中、近くの川の橋の下に逃げ込みました。 太平洋戦争の末期、新潟県長岡市で、1480余名
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11歳、15歳、17歳。72年前の少女たちが語る、長岡空襲の一夜
2017.8.1 今年も、暑い夏がやってきました。長岡市では、8月2日3日の長岡まつり大花火大会にむけて町が賑わうなか、長岡が空襲を受けた日である8月1日を「長岡市恒久平和の日」として、戦災殉難者の慰霊祭や法要、灯籠流しといった慰霊の行事を市内各地で行います。 1945年8月1日22時30分。長岡は125機ものB29による焼夷弾爆撃を受けました。翌日の0時10分までの1時間40分におよぶ無