柱時計が刻み続ける“業火の記憶”。ある一家の、空襲の夜の物語
『男の子なんだ、先頭に立って逃げろ』
父に家族を託された11歳の夏。
空襲当時、小学校5年生だった今泉弥さんは、今も空襲前と変わらず、新潟県長岡市千手の町にお住まいです。自身の空襲体験と父の長治さんから聞いた話を鮮明に覚えており、同じく長岡空襲を体験された奥様の恭子さんとお二人で、空襲体験を語る「語り部」としてのボランティア活動もされています。
今泉さんの住む家は、当時「千手横町」と呼ばれる商店街にありました。江戸時代、参勤交代にも使われた大通りから一歩入った場所にあり、多くの店が連なる賑やかな商店街でした。
「家はそうした商店のひとつで、明治5年から錠前鍛冶屋をしていました。戦前の長岡には昔ながらの蔵も多く、父はその錠前を作るのが専門だったのです」
8月1日の晩、午後9時6分、長岡に空襲の「警戒警報」が鳴りました。警戒警報が鳴るのは決して珍しいことではなかった当時、本当の空襲がくるとは思っていない人が多かったといいます。しかし、続いて午後10時26分、「空襲警報」が鳴り響きます。
「空襲警報を聞いて、地元の警防団に所属していた父は様子を見に行きました。警防団が火の見櫓がわりにしていた屋根に上ると、市の三カ所の方面が火柱がたったように真っ赤になっており(※)、『これは本物の空襲だ、すぐに避難しろ』と警防団は解散となり、父は家に戻ってきたのです。『避難することになった。外を見なさい』と言われて見てみると、もう人々が布団をかぶって逃げていました。このときちょうど表通りから柿川にかかる橋だった栄橋が工事中だったために、避難のための道が分断されて、行き場に困る人がいたり、千手横町には逃げる大勢の人が流れ込んでいました。当時、家族は、70代の祖父、祖母、父、母、5歳の弟と、3歳の妹と私の7人。父は長男の私に『自分は家の整理をしてから追いかける。わたる、お前、男の子なんだ、先頭になって逃げれや。しっかり連れていくんだぞ』と言いました」
※註・米軍は、長岡空襲において、最初に、市の南部、中心部、北部の三カ所に、M47焼夷爆弾と、消火活動阻止、殺傷を目的としたM47黄燐焼夷弾を投下。猛烈な火災を発生させ、後続のB-29爆撃機の目印とした。
「父に『信濃川の堤防の水際に逃げれ(逃げろ)。長生橋のほうに向かってな』と言われた私は、座布団一枚かぶって、家族の先頭に立ちました。風で家々の火はいっそう燃え上がり、吹雪のように火の粉が流れてくるのをかいくぐらなければならず、2軒おきくらいに置いてある防火用水に座布団をつっこんで濡らして、前に盾のようにして持って、布団をかぶって逃げる大勢の人々のなか、6人が離れないように気をつけながら進みました。前には火の手は見えないものの、振り向けば建物全部から火の手が上がっていました。真っ暗なはずの夜空が、明るくて明るくて、鳩がバタバタと飛んで行くのが見えるほどでした。逃げるうちに夕立ちかというほどのすごい雨が降ってきました。最初は火を消してくれる雨だ!と思いましたが、あれはいわゆる黒い雨。大火事による上昇気流で雨雲が生じて降った雨だったのでしょう」
「堤防に着くと、米軍の飛行機が町に焼夷弾を落としているのが見えました。真っ暗い中、ドーンと火の玉が落ちてきて、またドンッと破裂して焼夷弾がバラバラと落ちていき、そして落ちたあたりが一度に明るくなりました。『また落ったぞー』と誰かが言う声が聞こえました。土手に逃げる間に、運悪く、空から落ちてきた焼夷弾やそのカバーに当たってしまって亡くなる人などもいました。隣では祖父母が『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と念仏を唱えていました」
空襲は8月2日午前0時10分まで続きました。1時間40分にわたり、125機の爆撃機が約925tもの爆弾を投下。そのすさまじい空襲による焼失戸数は1万1986戸、市街地の約8割が焼け野原になりました。
「夜中の0時すぎ、飛行機がすべて空の向こうに消えて、空襲が終わったのがわかりました。隠れていた人々がこわごわ土手にあがり始めました。町のほうは一面赤く燃えていました。それまで息をひそめていた人々が、いっせいに離れ離れになった家族を探す声を上げ始めました。泣き叫んでいる声も聞こえました。私と母も、父はきっと土手のどこかに逃げ込んでいるだろうと、『せんじゅのいまいずみ~』と町名と名前を叫んで父を探しましたが出会えませんでした。明るくなってから千手横町にも行こうとしましたが、道路が熱くて、とても歩けず、すぐには探しに行けませんでした」
今泉さんの住んでいた地域は市の中央部に近く、千手学校地区内では144名が死亡、近隣の神明神社や平潟神社、柿川でも多くの犠牲者が出たエリアです。しかし、長治さんの指示による避難が早かったこと、また防空壕や広場ではなく、堤防側に避難したことが今泉さん一家に幸いしました。それにしても11歳の男の子が、火の手に追われ、火の粉をくぐりながら、家族を先導して逃げる――。その恐ろしさ、負わされた責任の重さ、追ってくるはずの父親が戻ってこない不安感はどれほどのものだったでしょうか。
そして、家財道具を整理して、あとから行くから、と家族を弥さんに託した父親の長治さんはその後どうしたのでしょう。長治さんは、家に残ったわずかの間に、信濃川の堤防に行けない状況に陥っていました。弥さんに長治さんの体験談をお聞きしてみましょう。
間一髪。焼夷弾を手づかみで投げて助かる
鍛冶職人で、警防団にも入っていた長治さんは胆力のある人だったようです。空襲警報が鳴る中、家族を先に逃がしてから、重要な家財道具を避難させようとしたのです。そうして逃げようとした矢先に長治さんの耳に聞こえてきたのが、11時を告げる柱時計の音でした。
11時を告げる今泉家の時計(アメリカ、セストーマス社製)。動画では20秒後に時報を打ちます。
舶来の柱時計は当時、高級品でした。なんと明治5年に購入されたというこの時計は、なおのこと大事なもの。これだけは燃やしたくない、と長治さんは思いました。錠前鍛冶用の仕事場には、古くなったセメントの浴槽を地面に埋め込んで作った貯蔵用の防空壕がありました。この中に、とにかく時計だけは、と文字盤を下にして入れ、続いて時計に火が及ばないようにと二階の廊下にムシロに広げて置いてあった前日配給で届いたばかりのたくさんのジャガイモを3回ほどに分けて階下に運んで、ムシロごと時計の上にのせました。
ジャガイモを運ぶ間に、家の天井を破って、焼夷弾がひとつ落ちてきました。まだ完全に火がつく前の焼夷弾。長治さんは反射的にそれを手でつかみ、窓の外へエイッと投げました。投げ出された焼夷弾は落ちた地点で、バァンと大きな火の手を上げました。間一髪――。鍛冶職人を生業とし、火と高温の金属に慣れていた長治さんだからこそできたことです。一瞬遅ければ、命はなかったでしょう。長治さんは、家財道具と柱時計とジャガイモの上から水をはった鍋や釜をのせ、それからバケツひとつをつかんで、家から飛び出したのです。
しかし、その間に、あたりの様子は一変していました。道には焼夷弾が点々と落ち、油と火でアスファルトが燃え出していました。周りの家も次々焼けていきます。行く手を風にまかれた火の粉が遮り、とても信濃川の堤防まで行ける状態ではありませんでした。やむを得ず、長治さんは近くを流れる柿川に逃げることにしました。当時の柿川では船で野菜や炭や米俵などの物資が運ばれており、川沿いの店の何軒もが、店の裏の柿川に運搬用の小さな橋をかけていました。そうした多くの橋のうち、八百屋と呉服屋の二軒が、木ではなく「鉄の橋」をかけていたことを長治さんは知っていたのです。
橋の向こうには、ご神明様と呼ばれて多くの人が集っていた神明神社がありました。ここの広場は戦前、サーカスのテントがたったり、相撲の興行があったり、桜の季節には皆が花見に来るような市民の憩いの場でした。大きな防空壕が二つ作られ、空襲の時には、ここに避難するようにと近隣の人たちは言われていました。しかし、もう神明様は人でいっぱいだと知った長治さんは、そのまま八百屋の鉄の橋の下に体をあおむけに横たえました。柿川の水位はこのときとても低く、火を避けるのに体をしっかり水に浸けるほどにはありませんでした。持っていたバケツで体を濡らし、ときに川の上流から流れてくるご遺体を下流へと流しながら、長治さんは一晩、業火を耐えたのです。終わったとき、長治さんの顔の上半分は火傷をしていました。
神明神社の防空壕での出来事
家々を焼く火がおさまって明け方、長治さんは橋の下から、神明神社の広場に出ることにしました。柿川の土手の石段は、熱くてとても上がれず、靴の裏が融けるほどでした。ここでもバケツが役立ち、川の水を汲んでは冷やして、ようやく上がることができました。警防団での経験が、とっさにバケツを手にさせ、長治さんを助けたと言えるでしょう。
夜明けの神明神社の境内で、防空壕の入口は、黒く焼け焦げた人々の遺体でふさがっていました。一目見て、死んでいるとわかりました。中に逃げた人もダメだったろう、そう思った長治さんの目の前で、黒焦げの死体がもぞりと動きました。飛び上がるかと思うほど驚いた長治さんでしたが、その耳に「助けてくれ」という声が届きました。中に生きている人がいる! 長治さんは入口を塞ぐ焼死体を必死で引っ張り出しました。手をひっぱれば手が抜け、足を引っ張ると足が抜け……。この凄惨な有様のなか、長治さんは何とか一人で出口となる道を作り出しました。そこから、泥だらけの人々が10人ほど、ぞろぞろと出てきました。なかに「命の恩人だから、名を教えてほしい」と言ってきた人もいたそうです。しかし、早く家族を探したい長治さんはそれどころではなく、名乗る間もなかったと言います。
「後日、戦災資料館のボランティアとして関わるようになってから、神明神社の防空壕の生き残りの方の手記を読む機会があって、それが父の話と一致して、ああ、あの話は本当だったんだな、と思いました」
神明神社の境内内では153人もの人々が亡くなりました。この跡地には今、「柿川戦災殉難地の碑」が建てられています。
この後、長治さんは焼けた家に戻り、自分を探しに来た弟と出会って、弥さんたち家族が信濃川の堤防にいることを知り、お昼近くに無事、堤防で弥さんたち家族と再会できたといいます。やっとの親子対面でした。
さて、柱時計はどうなったのでしょうか。
再び、動き出した柱時計
空襲後、弥さんたち一家は宮内の借家に家族で避難しました。2~3日たった暑い日、長治さんが「家の防空壕に、時計とジャガイモを置いてきたんだ、見に行こうや」と言い出しました。そうして長治さんと弥さんは、一緒に自宅を片付けにいったのです。
「町内は全部焼けていました。焼け残った焼夷弾がところどころ残っていました。全部まわりじゅう、焼け野原だから、これはもう仕方ないと思いました。これは戦争だから、爆撃されたんだからしかたねぇなあ……と」
「焼けた家を片付けて、風呂の浴槽で作った防空壕を掘りだして、真っ黒になった鍋や釜をどかすと、まず、真っ黒になったジャガイモが出てきて、そのうち、真っ黒じゃないジャガイモが出てきたんです。その下に時計がありました。父が『あった、あった! 時計燃えてねえよ』と喜んで……。それで、焼けたジャガイモを食べましたね。物がないときだったから、家で待つ家族にも、持って帰ったなあ」
終戦後、弥さんは大河津や宮内などの親戚の家を転々とし、生活が戻ってくるまでは大変な思いをしたと言います。しかし、翌年、千手横町に平屋建ての小さな家を建て、家族は皆戻って来ることができ、柱時計も再び、今泉家で時を刻み始めることとなりました。
長治さんは、戦後、錠前鍛冶から、農機具の修理などを請け負う溶接業へと仕事を変えました。長男の弥さんも工業高校を卒業し、地元の大手製作所で自動旋盤の図面を書く設計の仕事に就いたのちに、家業を継ぎました。鍛冶場仕込みの豪胆さで家族を支え続けた長治さんは、1989年4月に84才で亡くなりました。「きまじめで筋の通った職人肌の人でしたね」と語る弥さんと恭子さん。「時間には几帳面な人だった」とも。その性格もあって、時計をとりわけ大切にしていたのかもしれません。
弥さんは、今も2週間に一度、時計のねじを巻いています。
「2週間くらいたつと、リズムが遅くなったり、音に勢いがなくなってきて、『そろそろおなかすいたんじゃないか?』なんて声をかけながら、ねじを巻くんですよ」と笑う弥さんと、恭子さん。戦火をくぐり抜け、今泉家を見守り続けてきた時計は、今日もおふたりの側で、平和の時を刻み続けているのです。
Text & Photos : Chiharu Kawauchi
長岡戦災資料館
住 所
長岡市城内町2-6-17 森山ビル
電話番号
0258-36-3269
営業時間
午前9時~午後5時
休館日
毎週月曜日・ 年末年始(12月30日~1月2日)※8月は無休
入館料
無料