11歳、15歳、17歳。72年前の少女たちが語る、長岡空襲の一夜
大久保家の三姉妹
長岡駅東口から歩いて5~10分ほどの四郎丸に今もある大久保家。3男4女の7人きょうだいで、父は早くに亡くなり、3人いる男のきょうだいは全員兵隊となりました。当時、長岡には母と4人の女きょうだい、それに出征中の長男の嫁と子どもが残っていました。
今回お話しくださったのは、大久保家の二女の文(ふみ)さん(89歳)、三女のムツさん(87歳)、四女のミヨさん(83歳)の3姉妹。3人は別々に逃げ、やっと再会できたのは8月3日でした。家族が無事に集まるまでの三日間のお話しです。
夏休み初日の小学生。
逃げて逃げて予定と全く別の場所に
始めに、大久保家の四女ミヨさんのお話です。当時11歳、四郎丸小学校の6年生だったミヨさん。学校生活のうち授業はわずかで、ほとんどが食料増産のための農作業。校庭は畑となり、毎日鍬をかついで学校に行った……との話に、同小出身者も多い長岡南中学校の学生たちが真剣に聞き入っていました。小学校の高学年ともなると、農家の手伝い、栖吉の山のほうまで行っての薪集め、落穂拾いに雪下ろし、と労働の担い手として一人前の働きを要求されていたのです。そんな時代でも、夏休みはありました。戦時中の子どもたちにとっても特別な楽しみだったろう夏休み。その初日の夜を襲ったのが、米軍の爆撃機でした。
――1945年の夏、私は母と一緒に、自宅と同じ四郎丸本町にある、本家の山澤家で生活しておりました。本家のうちのご両親が早く亡くなられたため、私の母が家族の介護をしたり、本家の三人の子どもの面倒を見ることになったためです。
8月1日は夏休みに入った日でした。私はその日遊びほうけて、夜9時ごろ警戒警報になっても「毎度のこと」と深く気にせず、さっさと寝てしまって、起こされるまで何もわからず、母に起こされたときは、宮内方面はすでに真っ赤になっていました。(註1)
註1・警戒警報が発令されたのは21時6分。空襲警報に変わったのは22時26分。
母に「早く逃げれ、おまえたち、おやま(悠久山)の堅正寺へ行け」と言われ、本家の長女と二人で逃げました。悠久山街道は、大きな荷物を持ったり、子どもさんの手を引いたりする人で、本当にいっぱいでした。まっすぐ行けばおやまに着くのですが、あまりに人が多かったものですから、途中、農道を脇道に入り、田んぼの細いあぜ道を、一生懸命、空を見ながら走ったんです。片足は田んぼの中に落ちたりしながら、どこをどう逃げたのか、ようやく山のほうに着きました。
道端には大勢の人がすでにいて、長岡の市街地のほうをみんな呆然として見ていました。「ここはどこですか?」と聞いたら「柿(かぎ)の村」だと言われて驚きました。柿とおやまではずいぶん離れています(註2)。どうしようかと思ったけれど、どうしようもない、その日は知らないお宅の玄関で朝まで休ませてもらいました。
註2・柿は四郎丸から3kmほど離れた村。当初の目的地だった悠久山の堅正寺からは南西に約2~3km離れている。
8月2日の朝、「おまえたち、なにか持ってたら出せ」と言われて、私は小さくちぎった乾麺を持っていたのでそれを出しました。ほかの人もそれぞれ煎った米や麦とか大根とかを出し、そのうちからおにぎりを作ってもらって食べてから、家に帰ろうと歩き出しました。
途中まで来ると、遠くに四郎丸国民学校(今の四郎丸小学校)が焼けずに残っているのが見えてきました。それで本家のお姉さんと「学校が残っているなら(その近くである)うちは残っているかもね」と言いながら歩いてきたら、目の前は焼け野原で。
まあ、長生橋の大きかったことと、水道タンクが大きかったことが記憶にあります。
柿から四郎丸にたどり着いたのはお昼頃でした。大久保の自宅も山澤の本家も焼けていて、跡には誰もいなくて待っていたら、私たちを探しにいっていた母と姉たちが戻ってきました。みな無事でケガもなく、よかったね、と喜び合いました。
その日は寝るところもないので、母のいとこのいる摂田屋に行きました(註3)。そこにも親戚の方やご近所の方が大勢来ていました。そこで一晩泊めてもらい、8月3日、四郎丸に帰る途中、本家の親戚である吉乃川に立ち寄って酒粕をもらい、それを食べて酔っぱらったのを覚えています。帰ってきたのは昼頃で、よく覚えていないのですが、文姉さんに会った(後述)のもそのときということになります。
註3・四郎丸から3~4km
「赤ん坊を泣かすなー、飛行機に聞こえるすけ!」
今も母子に申し訳なく思う
続いて、大久保家の三女、当時15歳だったムツさんのお話しをご紹介します。高等小学校卒業後、通信を学んで郵便局に就職し、四郎丸の自宅から通勤していたムツさん。戦争の時代でも、おしゃれをしたい気持ちや、きれいなものに心惹かれる、感受性の強い乙女であった様子がお話しからうかがえます。
――私は昭和19年の春、高等小学校卒業後、工場勤務が嫌で渋っておりましたところ、逓信省の逓信講習所の試験を受けさせてもらえることになり、合格して、トンツーの通信(モールス符号または無線電信)を習いました。当初卒業までは一年という話でしたが、戦争中ということで卒業が12月に繰り上がり、小千谷の片貝郵便局に勤めることになりました。
片貝郵便局へは来迎寺駅まで汽車に乗り、そこから片道一里(4km)歩いて通勤していましたが、その年は大雪だったこともあり、列車が運休になることも多く、ほとんど勤務になりませんでした。
空襲のあったあの晩は、警戒警報が長かったような気がします。一緒に住んでいた一番上の姉のツルは東京で洋裁を習ってきた人でしたが、灯火管制のなか、私と姉は、標準服じゃない服を作ろうと、祖母のきものをほどいてブラウスを作っていました。そうしたら、警防団の方に「大久保さん、明かりが漏れていますよー」と言われ、慌てて電気を消したところで空襲警報がありました。そのとたん、あたりが「明るく」ではなく、「赤く」なったんです。逃げようと思ったのですが、玄関のほうがもう赤くなっていて、出られません。それで裏口から、私と一番上の姉と兄嫁とその子と四人で夏掛けといわれた昔の薄い布団をかぶって逃げました。裏の家はもう燃えていたようで、裏のお父さんはため池の水をかけているようでした。
近くの赤城神社の防空壕にたどり着いたときには、もう人がいっぱいでした。入ると同時に赤ちゃんが奥のほうで泣いていたんですね。そしたら、奥のほうから男の人が「赤ん坊を泣かすなー、飛行機に聞こえるすけ!」と男の人が叫んだんです。そのとき私は防空壕の入口で、ああ、そうかもしれない、とそう思ったんです。でもあとから考えると飛んでいるアメリカの飛行機に聞こえるはずはないわけで……ずうっと今でも、あの赤ちゃんとお母さんに申し訳なかったな、と思い出すたび、そう思っています。
やがて火の手が広がったとみえて「ここにいてはだめだから、川のほうに逃げるように」と言われて、私たちは防空壕を出て、福島江、柿川伝いに逃げました。警防団の人たちは、柿川を通る私たちにバケツで川の水をかけながら、とにかく走って逃げれー、走って逃げれー言うんですね。私たちは水をかけられながら、ひたすら逃げました。そして、眼鏡橋から田んぼにおりて、土合の諏訪神社の前の土合橋の下にやっと自分たちが隠れる場所を見つけ、橋の下でその晩はすごしたんです。
そのときの橋のあいだから見える敵の飛行機は、下のほうがキラキラしていて、とてもきれいでした。こんなにきれいな飛行機が来たんだな、と私は思ったもんです。
8月2日の朝、土合にある兄嫁の実家に行きました。そこは大きな百姓のうちでしたが、親戚の人たちが全部来ていて私たちが座る場所もなかったくらいなのですが、そこで朝飯とも昼飯ともつかないごはんをいただいた気がします。
それで、四郎丸の自宅へ帰ろうと四郎丸小学校の北運動場に入ったときに、負傷されて寝ていた方もいたのですが、3〜4本、黒い棒が並んでいたんですね。あら電柱かな、と思ったのですが、それが焼け焦げた死体だとあとでわかって。
……でも、わかったんですが、なんの感情もなく、ただ、見て通りすぎた。そんなふうでございました。
そして四郎丸小学校の玄関を出た途端に、長生橋と六十九銀行(いまの北銀)のビルと、水道タンクが目の前に見えて、そのときに初めて、ああ、みんな燃えてしまったんだ、うちもなくなったんだ、とやっと我に返ったように気が付いた状態でございます。
家の焼け跡に戻ってきて、妹と再会し、その晩は摂田屋の親戚の家に泊まりました。翌3日は、吉乃川に立ち寄り、べったりとした酒粕を一斗樽でもらってきて、それをどんなふうにして持ってきたかは覚えていないんですが、四郎丸に帰ってきてから、近所の人たちと手でそれをすくって食べて酔っぱらった、という覚えがございます。
患者を肩でかついで逃げた
外科病院の新米看護師
最後に、大久保家の二女、当時17歳だった文さんのお話です。看護師になりたてで、外科病院に住み込みで働いていた文さん。病院があったのは、長岡の繁華街に近い今の柏町。爆撃が激しかったエリアです。手術後の体の自由がきかない患者さんを支えながら、必死で逃げた体験談を話してくださいました。医療従事者としての使命感と、過酷な現場でのやりきれない気持ちを語る話に、引き込まれます。
――1945年3月に看護学校を卒業して、免状をもらったばっかりの新米の看護婦だった私は、長岡市東千手町(現在の柏町)にある坂井外科病院に住み込みで働いておりました。お風呂掃除から、使い走りから、手術場に入っても雑用ばかり、そんなような空襲前の生活でございました。
7月20日の朝8時ごろ、左近に模擬原子爆弾が落とされました。まだ診療も始まらない時間でしたが、すごい音とすごい揺れに、耳と目をおさえて、患者さんと一緒にトイレの前でしたが、かまわず、ひれ伏しました。ガラスは壊れませんでしたが、それだけの爆弾が落ちたにも関わらず、当時の私は「長岡は空襲になるんでねえか」などという気持ちはなんにもなかったんですね。日本は負けない、と教えられてきたから、その気になっていたんですよね。
8月1日は、午後からいくつかの手術が入っておりました。当時、軍隊に入る前に、鼠径ヘルニアや痔を治しておくという患者さんが多かったのです。夕方から夜、手術を終えた患者さんを担架にのせて追廻橋のたもとにある別棟の病室へ運び、病院に帰ってきて、手術の後片付けをしないうちに、警戒警報がなりました。
それで、私らはとにかく救急袋を両腕に下げて、防空頭巾しょって、救護要員に配給されていた鉄兜をかぶり、患者さんといっしょに病院の防空壕に入りました。
坂井病院の防空壕は商売人の人が作った、大きくてしっかりとした防空壕でした。ですが、警戒警報があまりに長かったので、私は履物を探しに、真っ暗い病院に戻って探しておりました。内履き履いてでようかな、でも一回外で使うと、あとで洗わなきゃいけないしな、なんてケチな考えで、結局は足袋はだしで出たんですね。それで、同僚といっしょに「きょうはなげぇ警戒警報らね」と言ってるあいだに警戒警報が空襲警報に変わり、同時に宮内方面がぱあああっと。
赤くなったんです。
院長は「逃げれー、逃げれー!」と必死で叫んでおられました。
当時、空襲が来たときには、「歩ける人はおやま(悠久山)の方面へ逃げれ、歩けない人は柿川に入れ」と指導をされていました。病院の防空壕から全員を出し、自分は一番最後に出てきたつもりでいましたら、私の後ろから、とぼとぼと鼠径ヘルニアの手術をして三日目の人が出てきたんです。私と同じ17歳くらいの人でした。太ももの付け根の手術で、歩くのもおぼつかないその人の腕を肩にかけて、柿川添いを進み、一之橋をわたって、今の悠久山街道をまっすぐに悠久山めがけていきました。
ほんとに道いっぱいの人で。自分が走りたくても走らんねえような状況でした。栖吉川にかかっている「令終橋」(現在の新潟大学付属幼小中学校近くの橋)に来た時、その人が「おれ、この栖吉川を伝って、亀貝のうちに帰る」と言ったんです。それで「それじゃ気をつけて帰ってね」とお別れしました。
それきり、一生お会いできませんでした。
それから、私は人に押されながら、一人とぼとぼと悠久山街道をいきました。警防団の人が「(道を歩くと飛行機に見つかるから)草の上走れーっ」て言うんです。でも人が多くて、とてもそんなことはできませんでした。そのあいだに、院長と婦長に再会できました。院長は翌日に胃がんの手術をする予定で絶食していた女性の患者さんをひっぱっておられました。ちょうどその人が悠久山のほうの人でしたので、そこまで送りつけました。私と院長と婦長は長岡高専、悠久山、片貝に道が分かれる三叉路(中貫町一丁目交差点、栖吉中学校近く)の田んぼの畔に降りて、やっとそこでほっとして空を見ました。
おやまのほうの空は本当に星がいっぱいで、大きいきれいなおつき様が出ていたんですよ。町のほうを見ましたら、下は真っ赤、上は真っ黒で星も見えない。そんなときに、アメリカの飛行機が何基もね、翼に赤と緑の電灯をつけて、栃尾のほうにずーっと飛んで行きましたね。そのときね。なんで日本の飛行機が出て戦ってくれないのかな、そんなに思いました。
その晩は、栖吉の村の助役の家に荷物を疎開させてあったので、そこで休ませてもらいました。
8月2日の朝、病院に戻ろうと栖吉川にかかる「れいしゅうばし」まできたんですが、とてもその先の市街地に入れなかったんです。見てるまに電柱が電線といっしょにバーンと道端に倒れてくるんですよ。それで、院長の判断で悠久山のほうに引き返し、おやまの堅正寺へ連れていかれ、そこで一泊しました。前夜、山澤の本家から同じ堅正寺へ逃げた母は朝早くに四郎丸に戻ったのでしょう。すれ違いになったと思われます。
やっと8月3日になって長岡の市街地に入れました。焼けずに残った長岡国民学校(今の阪之上小学校)が救護所になっていたので、救護要員として連れていかれました。
それはもう……、本当に地獄をみるようでしたね。
全身やけどのひと、焼夷弾がかすめた傷で手足に血がにじんでるひと……家族が手ぬぐいや自分の衣服を裂いて傷にあてていらっしゃいました。それを見ても私たちは治療一つできなかったんです。薬といえば赤チンだけ、手当する材料がほかになんにもなくて。知っている患者さんもいて、院長に「先生、助けてください」っておっしゃるんです。でも先生も何にも持っていなくて。どうにもなんなかったんですね。
亡くなった人は藁筵のうえで、阪之上小学校の築山のあるあたりに集められ、亡くなった方の家族が燃え残った木を集めて、ご遺体を荼毘にふしておられました。それを見ても、心が凍っていて、大変なことなのに……そうねえ、やっぱり感じなかったんですよねえ。
そのあと坂井病院の焼け跡に行きました。空襲警報が出たとき、その日最後に手術なさった方を、病院の外の桜の木の下まで担架のまま運んでもらったんですが、その方が、桜の木とおんなじようにまっくろけに焼かれて亡くなっておられました。
その人のことを、私は今でも思うんです。低比重麻酔(部分麻酔)のため、下半身は全然きかない、でも、頭はしっかりしているんです。それで、どんなにか苦しかったろう、どんな思いでいらっしゃったろうと。その方は、空襲のさなか、付き添い看護婦の人に「俺は覚悟したけえあんた逃げてください」と言ったそうです。
それから私はそこで50円をもらって、解散になったんです。それで私はやっと実家に帰りました。四郎丸の家の跡に着きましたが、誰もいませんでねえ。近所の人に聞いたら家族が無事だとわかり、「じっき来なはるんでねえかねぇ」と言うので、待ってましたんです。そうしてようやく摂田屋から戻ってきた家族と再会できました。うちのもんは、三日も私の姿が見えないもんだから、私はもうどうにかなったんだねえかなあ、と思っていたらしく、無事だったということで喜び合いました。
「花火の音を聞くのはつらい。けれど…」
家族と再会できた、三姉妹。しかし、帰る家がなくなった姉妹は、親戚のつてを頼って白根、摂田屋と転々とし、「教科書も服も何もなく、焼けなかった家の子どもとのあまりの違いに苦しく惨めな思いをしながらも(ミヨさん)」、家族手をとりあって生きていきます。兵役についた三人の兄のうち、長兄は傷痍軍人として帰還できましたが、二人の兄は海軍で亡くなりました。「外国の音楽が好きでこっそりとレコードを聴くような兄たちでしたから、平和のこの時代に生きていたらどんなに楽しかっただろうと思います(文さん)」。
文さん、ムツさん、ミヨさんは、今回の「長岡空襲の体験を語る会」で三人で一緒に話すことが決まって、どのように逃げたのか当日の様子を話し合って、お互い初めて知ることも多かったそうです。
印象的だったのは、三人ともに、市街地が焼け野原となり、遠くの長生橋や水道タンクが見渡せるほどに一変した景色に衝撃を受けていらっしゃったこと、そして多くの惨い様相の遺体に、心が凍ったように何も感じることができなかったとおっしゃっていたことです。
思い出すのもつらい記憶を、私たちにありありと伝わるように、話してくださる語り部の皆さんには、本当に頭が下がります。そして、こうした記憶を次世代に引き継いでいくのが、私たちの使命なのではないでしょうか。
「花火の音はあの夜の焼夷弾に似ていてつらい」
そう話しながらも、
「でも、8月1日の夜、白菊が上がるときには、私はあの日亡くなった方に手を合わせます」
とおっしゃった三姉妹。
私たちも、長岡まつりに込められた平和と復興への願いを忘れることなく、手を合わせ、亡くなった方々の冥福を祈りながら、長岡の花火を見上げ続けたいと思います。
Text & Photo : Chiharu Kawauchi
長岡戦災資料館
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毎週月曜日(その日が祝日に当たるときはその翌日)
年末年始
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