地元の声を聞き、とことん細かく寄り添う。越後川口の「生命線」・スーパー安田屋で考えた地域商店の姿

長岡市・川口地域。2010年の長岡市との合併までは川口町であり、合併後も「飛び地」になっている、長岡の中でも異色のエリアである。自然豊かな中山間地だが、他の地域の例に漏れず近年は人口が減少し、かつての商店街も少々さみしくなってしまっている。
そんな川口の中心街にあって、常に人の姿が絶えない場所がある。この地で唯一のスーパーマーケット、「スーパー安田屋」である。スーパーに食料品や日用品を買い求める人の姿があるのは当然だが、ここにあるのはそれだけではない。
長崎県の「金太洋つぶオレンジ」、北海道の「名水珈琲ゼリー」、群馬県・永井食堂の有名メニュー「もつっ子」のモツ煮パックなど、全国各地の有名産品から「こんなものまで!?」という個人商店の商品まで、バラエティ豊かな地域産品が並んでいるのだ。長岡ひろしといえど、他のお店で決して手に入らないような幅広い商品ラインナップや、それを紹介する手書きポップの熱意に惹かれて、川口の外からやってくるお客さんも多い。少し車で走れば大型店舗も立地し、人員にも限りがあるという状況の中、地域商店が地域のニーズを満たす以上のことを行うのはなまやさしいことではない。安田屋の賑わいは、どのようにして実現されているのだろうか。創業家の3代目である専務の山森瑞江さんと、東京からUターンして安田屋で働く息子の健也さんに話を聞いた。
地域のすみずみまで毎日配達。
山間地の生命線として63年

瑞江さん ちょうどさっき、健也が配達から帰ってきたんですよ。彼と野菜担当のスタッフが半分ずつ受け持ってるんですが、今日はそのスタッフがお休みなので、ぜんぶ一人で回ってきてもらいました。地域の保育園の給食と、小中学校の給食と……。
健也さん サービスエリアとラーメン屋さんですね。あぐり(川口の道の駅「あぐりの里」)もコースに入っています。
瑞江さん それ以外にも、配食サービスという、地域のお年寄りにお弁当を作って持っていくサービスがありますね。そっちは彼だけでは手が回らないので、私が行って。あとは個人のお客さん向けの配達もあるんですよ。午前中は時間がないので、それはまたこのあと、午後3時過ぎから行きます。

——そんなに配達に行かれてるんですか!完全に地域の生命線になっているんですね。どれくらい長く、この川口にお店を構えてらっしゃるんですか?
瑞江さん 創業して63年になります。長らく私の母が社長だったんですが、その前は母の父、つまり私の祖父が小売と卸の会社として商売を始めたんですね。でも、祖父は早くに亡くなってしまって。母は12人きょうだいの12番目なんですが、はじめに店を継いだ長兄の夫婦が経営に向いていない人で会社を潰してしまい、みんなバラバラになってしまったんです。最後に残ったのが末っ子である母と、年老いた祖母。このふたりが潰れた店に住み始めて、「せっかくお父さんが作った店なんだから」と21歳の母が継いだのが、今につながる始まりです。ゼロ……というよりマイナスから、車の免許を取って、市場に仕入れに行って、苦労しながら作ってきた店ですね。いま89歳ですが、「自分から仕事を取り上げないでくれ」と言って、午前中にやってきてパソコンを打ってますよ。苦労したぶん仕事には厳しい人ですが、すごいバイタリティだと思います。
——瑞江さんも、その背中を見てお店に入ったんですか。
瑞江さん ぜんぜん(笑)。私は4人きょうだいですが、一番お店が嫌だったと思います。「なんでこんなに朝から晩まで働かなきゃならないんだ」と思っていたし、短大を出て医療系の仕事をしていたので帰る気なんてなかったんですが、あるとき母が体を壊して、誰かが継がなきゃという話になったときに「お前が一番向いてるから、お前やれ」と言われたんです。それから、気づいたらいまに至ってますね。
震災のダメージ癒えぬ地域で
生き残る術を模索する日々
逆境から懸命に立ち上がり、地域の信頼や後継者も得て、少しずつ立ち直った安田屋。ひと息つきかけたのも束の間、店と川口を悲劇が襲う。2004年10月23日に発生した、中越地震である。川口では震度7を観測し、全体では死者68名、家屋の被害は全壊3,175棟、半壊16,076棟、一部損壊66,008棟にものぼった激甚災害で、安田屋の店舗もほぼ全壊に近い被害を受けた。

瑞江さん 掘立て小屋から新たに始め、さんざん苦労しながらちょこちょこ増築を重ねてきたのに、地震で大きなダメージを受けて。もう壊すしかない、となったんです。店の裏の倉庫だけは無事だったので、震災2日目からしばらくはそこで営業しながら初めて大きな借金をして、いまの店舗と社屋を建て直したんですね。震災前よりもずいぶん大きな建物なので、当時の店長は「もっと身の丈にあったサイズでいいじゃないか」と反対したらしいんですが、母は「うちがこのあたりで一番大きい建物で大きい商売をドンと構えないと、川口はダメになる」と強硬に主張して、いまの建物になりました。
大きくやるのと小さくやるのとでどちらがよかったかなんて分かりませんが、少なくとも地震がなければこんなに借金をしないですんだし、何より地域からこんなに人がいなくなることもなかったのにな……とは、いまでも思いますね。
——被災から20年が経過しても、地域へのダメージは残ったままなのですね。
瑞江さん いまでも、東川口あたりのまちを歩くと空き地がちらほらあるでしょう。ほとんどが地震で家がダメになって、建て直そうにも地主さんとうまくいかなかったりして、「雪が少ない長岡や新潟に住む」といって出て行った人たちです。それがみんな、うちのお客さんだったわけですから。
それ以降20年近く、経営が少しずつ右肩下がりになっていく状況が続きました。借金を返すめども立たないし、「もうダメかな……」と思うようなときもありましたね。そういうこともあって、店に並べる商品にももっと工夫をしなければ、となったんです。

——完全な地域密着型のお店である一方、日本全国のいろいろな産品が置いてあるのも安田屋さんの特色ですが、最初からそういうわけではなかったんですね。
瑞江さん もともとは、五泉市にある「エスマート」というスーパーを参考にさせてもらったんですよ。今から6〜7年ほど前に「参考になると思うよ」と人に言われて、一度見に行って衝撃を受けました。面積としてはすごく小さいお店なんですが、そこに全国各地の個性的な商品が置いてある一方、近隣の提携農場さんのおいしい野菜もしっかり置いてあって、地域の人にとっても地元のおいしい野菜が手に入る、なくてはならない場所になっている。「たのしいスーパー」を名乗ってらっしゃるだけあるな、と。
数年前に私の夫が勤めていた会社を定年退職して、安田屋の社長として経営のお金まわりを見てくれるようになっていたんですが、まずその夫にエスマートさんのことを教え、次は家族で行き、そのあとは「業務命令です」と言って、スタッフ全員に見に行ってもらいました(笑)。

——それだけ感銘を受けたということですね。
瑞江さん これからの地域スーパーの生き残り方はこれだ、と思ったんです。地域のお客さんももちろん大事だけれど、一方でこの高齢化社会、それだけでは先細っていくしかないですから。地域の外からも「おもしろい店だね」と言って来てくれるお客さんがつくような特色を作って、車の両輪でやっていければ……と。
ただ、最初に「そういう店にしたい」という話をしたときには、古くからいるパートさんの中には反対意見もありました。「新しい商品を増やしたら品揃えが圧迫されて、地域のお客さんに迷惑をかける」と。けれど、百聞は一見にしかずというか、見学に行ってもらったあとの朝礼で改めてみんなに「どうだった?」と聞いたら、「手にとって見たい商品がたくさんあってワクワクした」「ポップの書き方など、すごく参考になった」という反応が返ってきたんですね。実際に見てイメージを掴んだあとですから、私のほうも「いまのうちの店は、お客さんの日常を大事にする店。それは変わらないまま、プラスアルファでこういうものを取り入れていきたいけど、いいかな」という話をもう一度丁寧にできましたし、みんなの賛同を得ることができました。
Uターンした息子を修行に出し
一からスーパー業務を学ばせる

強い力でぐいぐい引っ張るだけではなく、チームの全員とのイメージ共有を徹底したことで、新しいチャレンジは少しずつ軌道に乗っていった。おすすめのものにはしっかりと自分たちの声を反映したポップを書き、あくまで生活者の視線でものを売る姿勢も、顧客の信頼につながっている。その次に大きかったできごとは、東京で就職していた息子・健也さんのUターンだった。
——最初、お店のこうした個性的なラインナップは、てっきり健也さんが帰ってきて始めたのかと思っていましたが……。
健也さん ぼくはその頃は、まだいませんでした(笑)。東京の大学生だったので。
瑞江さん 「普通に東京で就職していいか」というのでどうぞどうぞと言っていたら、就職2年目にコロナ禍が始まったんだよね。
健也さん そうですね。ぼくもI T関係の会社で働き始めたばかりの状態で、世の中がああいうことになって悩んでいたんですが、店の経営もだいぶまずいことになっているのをそこで初めて知りまして。
瑞江さん それまでも長期低落傾向にあったのが、さらにコロナで売り上げが激減したんですよ。そんなときに息子とちょうど電話をすることがあって、「東京はどう?」なんて言ってるうちに、逆に店のことを聞かれたんです。そこで「いや、資金繰りも大変で」という話をしまして。子どもに店の内情を話したのは、それが初めてだったんです。相当びっくりしたみたいで。
健也さん 子供の頃から見ていた店ですし、お金に不自由せずに育ってきたので、その瞬間まで普通にうまく回っていて、まあ安泰なんだろうと思っていたんです。なので「そんな状態になってるの!?」と驚いて。そこで「自分が帰って手伝おうかな」と思い始め、それから半年後くらいに「今の仕事を辞めて、帰って店やるわ」という話を親にしたんです。

——コロナによって、人生が急展開したんですね。親御さんとしてはとても心強かったんじゃないですか?
瑞江さん いや、「すぐ帰ってきても、使い物にはならないな」と考えるのが先でした(笑)。この子を赤ちゃんのときから見ている古参の従業員が何人もいますから、甘やかされるのは目に見えてる!と(笑)。
せっかく決心してくれたのだから、まずはどこかで技術や経営を学んでから店に入れるのでないと、本人のためにもならない。そう思って、うちよりも大きいスーパーの社長さんに「修行させてやってください」とお願いしたんです。それも、鮮魚をやらせてくださいと。魚はきちんと修行しないと身につかないですから。
健也さん そこで一年半修行をさせてもらって、店に入りました。
瑞江さん 魚をきちんと習ってきたので刺身も作れますし、そのあとは精肉もやって、スライサーで肉も切れるようになった。お次は惣菜の揚げ物やだし巻き玉子とか、手作りの煮込みハンバーグまで、技術が必要なお店の中のことは一通りできるようになってくれましたね。名物の手作りおにぎりも、朝から来て作ってくれます。
——経営者一族だからと優遇するのではなく、現場仕事をきっちり叩き込んでから、オールマイティの即戦力として迎え入れたわけですね。
瑞江さん ただ、鯉をしめて捌くのだけは苦手だよね。
健也さん それだけはちょっと……(笑)。どうも慣れないんです。
細部を見て、人の話をよく聞く。
「当たり前」を徹底してこその地域密着


名物のメンチカツをはじめ、充実のラインナップ。こだわって仕入れた食材を使用した惣菜の数々も安田屋の魅力
——健也さんご自身は、「お店のことが一通りできる」以上のご自身の強みがあるとしたら何か、意識されていますか?
健也さん 一度外に出たがゆえに、俯瞰で物事を見られる部分もあるんだろうなと思います。いま働いてくれている皆さんは、ほとんどがずっとこの近辺で生きてこられた方ですから、また違う視点をお店に持ち込めるんじゃないかなと思いますね。あと、母は物言いが強いので(笑)、いい具合にスタッフさんとの間の緩衝材になれればなと(笑)。
——違う視点で見えたものがお店に影響したことって、例えば?
健也さん ずっと同じ仕事をしているだけで回ってきたという部分があるので、仕事の内容が毎週毎日、ほとんど同じなんですよね。同じものを仕入れて、同じものを売るということに慣れてしまっているし、たとえば特売のチラシを作るにしても、「この曜日はこの内容」という感じで固定化していて、新しい取り組みをしなくなっていた。そこで社長と一緒に他のスーパーを視察に行き、例えばどこそこでは日曜に原価ギリギリのセールをしているとか、この日は肉類を安くする日だとか、そういった企画的なメリハリをつけていくという、簡単だけどこれまでやれてこなかったことをする、という感じです。労力はこれまでより少しかかるけど、明らかにお客さんの反応が違いますから。
そういう意味では、さっき話に出た手作りおにぎりを復活させたのもその一つです。うちは惣菜売り場の面積がかなり大きいんです。肉や野菜もこだわって仕入れているし、大部分は店内で作っていますから、味もいい。ただ、惣菜を作る人数が減ってしまっているので、「おにぎりを手で握っている余裕がないね」ということで、いつの間にかコンビニにあるような、包装済みのおにぎりを仕入れるようになってしまっていました。せっかく米どころでごはんが美味しいのにそれではもったいないし、お客さんにとっても「あ、手作りをやめて出来合いのものを得るようになったんだね」というマイナスの変化しか印象に残らないので、いいことがないんですよ。とはいえ人数が足りないのは事実なので、今はぼくが朝から握るようにしています。

——ルーティンになりすぎてしまったことや、リソースが足りなくて縮小する方面に進んでしまったものも、少し手を入れてやれば復活するということですね。ずっとその場所にいる人ではわからないことを、健也さんが再点検していくという役まわりなのかもしれません。
瑞江さん 昔はお寿司なんかも、すべて店内で作っていたんですけどね。いまは手作りの寿司は節分の恵方巻きだけになっていますが、毎年600本くらい売れていますから、手作りの需要はやっぱりあるんだと思います。お客さんが求めているものは話を聞いていればわかるので、人手の問題さえ解決すれば、もっといろいろやっていきたいんですけどね。
——いまサラッとおっしゃいましたが、「話を聞いていればお客さんの求めているものがわかる」というのは、当たり前なようでとても難しいことのように思えます。
健也さん この人(瑞江さん)は、本当によくお客さんと話をするんですよ。仕事に関係なくてもどこそこの誰がどうしたとか、地元の様子をよく聞いているし、商品を薦めるにしても「これはイマイチだったから、こっちのほうがいいよ」とか、お店としてはどうかと思うことも正直に言うし(笑)。

瑞江さん お客さんの話は全部聞くし、要望だって全部聞きますよ。さっき配達の話をしましたけど、そのほかにも会社や自治会関係の花見みたいな行事とかに出すオードブル、慰安旅行に持っていく軽食などなど、いろんな注文が来るんですが、全部受けますね。それも決まった内容のものをただ出すんじゃなく、どういう行事なのかも全部聞いて、「こういう行事なら、こういうメニューはどうですか」といった提案をしたり。自治会行事のオードブルなんかは役員さんが代わっても「安田屋さんが全部わかるから」みたいな感じでざっくりした注文が来るほどです。でも、「さすがに前の年のオードブルの内容まではわかりませんから、毎年メモをとって記録をつけておいてください」なんて言って、結果的に業務改善にも貢献してますね(笑)。
——「まず話を聞くこと」というのは人であれ地域であれ、ニーズを把握する、あるいは対象をケアするうえでもっとも基本的なことですが、それを徹底したうえで、いわばオーダーメイドの体験を提供しているということですね。
瑞江さん 最近は人の集まり方も変わってきていますから、「ママ友のランチ会をするので、オードブルじゃなくてフルーツの盛り合わせをお願いします」とか、昔はなかったニーズも増えていますね。健也が入ってから公式LINEを作ったんですが、そこではもっと細かい注文があれこれ舞い込みます。「夕方にメンチカツを5個買いに行きたいから取り置きお願いします」「ポテトサラダを何グラム、唐揚げをこれくらいお願いします」といった日々の細かい要望にも、全部対応しますよ。

——最強のカスタムオーダーですね。そういう意味ではLINEやSNSなどは、個人とダイレクトにつながれるツールでもあるから、相性がいい。お店のInstagramアカウントも活発に更新されていますが、これらは健也さんが帰ってきてから始めたことですか?
健也さん そうですね。帰ってきて最初にやったことが、SNSのアカウントを作ることでした。インターネットでの情報発信には物理的な距離の制約がないので、地域の中にいるいつものお客さんだけではなく、外の人にも届くことを意識して発信しています。震災や高齢化で減っているぶんのお客さんを、そういうところで獲得できればいいなと。フォロワーも少しずつながら増えてきて手応えもあるので、これも手間ではありますが、頑張っていきたいですね。
瑞江さん 効果はあると思います。特に土日や祝日などに、このへんでは見たことのないお客さんの姿が目立つようになりましたから、「Instagramを見て来たんだろうな」と思って見ています。特に群馬の永井食堂の人気商品「もつっ子」は鮮度が命なので基本的には卸はしませんし、群馬の外だと買える場所はうちくらいなんです。それを買いにわざわざ長岡や三条、新潟から来られるという方も多いですね。この子が帰って来て、そういう発信をSNSでやるようになってから、今まで下がり続けていた売り上げが横這いになったんですよ。

健也さん ぼくが入る前にもFacebookをお客さんから習って運用していたんですが、もう、見られたものじゃなくて(笑)。
瑞江さん だって、「このボタンを押したらいっぱいの人に届いてしまう〜!」とか思うと、緊張しちゃってね(笑)。

瑞江さん ともかく、若い人の感覚で発信してくれるおかげで新しいお客さんが来始めたことと、その後に夫が入ってきて数字を見てくれるようになったことで、状況は変わってきてはいますね。
最近では川口一帯の学校の制服や体操着の取次をするようになったり、川口やお隣の小千谷市の老人ホームの注文を受けるようになったりと、新しい仕事も増えています。小千谷のホームはこれまで商品を納めていた会社がやらなくなったので、最初は地元の大きいスーパーさんに頼んだそうなんですが、「そんな細かい商売はできない」って断られたみたいなんですね。話を聞いてみると、入居者お一人おひとりの好みに合わせて、すべて内容の違うおやつを一週間に一回納めるというものだったんです。さらに、その請求もホームにではなく、利用者一人ひとりにしないといけない。確かにものすごく細かいんですが、社長が「面倒でも、それをやっていくことで新しい注文につながることもある。伝票なんかは自分がやるから、細かい仕事も受けていこう」と言ってくれて。実際に売り上げは上がってきています。
「属人性」を超えていく方法は?
地域商店の試行錯誤はこの先も続く

——これまで地域の中でいろいろな事業者がいわば分業で行っていたようなことが、すべて安田屋に集まってきているということですね。売り上げの増加とともにこれまでにない業務があれこれ増えてくることのバランスについては、どうお考えですか?
健也さん 仕事が増えても、人は増やせないという悩みがありますからね。おにぎりと同じように、新しいことを始めるときは、まずぼくがそこに入って従業員さんと一緒にやることにしています。
瑞江さん そういう意味では、スタッフの一人でも欠けたら、うちは立ち行かないんですよ。よく「健也くんが入ってくれて、楽になったでしょう」と言われるんですけど、とんでもない。全員フル稼働です(笑)。
うちは生花も扱っていますが、従業員が手伝う余裕はないので、仕入れからアレンジの受注制作まで私が全部ひとりでやっています。贈答用の花束もあれば仏花もあるし、「結婚式のブーケを作って」とか、あらゆる注文が来るんですよ! 大変すぎるので一度、市外の花屋さんに注文を全部アウトソースしたことがあるんですが、お客さんが「やっぱり、これじゃだめだ」って言うんです。聞けば、量が少なくてオシャレすぎるとのことで(笑)。川口には花屋さんがもう一軒もないし、「瑞江さんの作った花束がいい」と言われると、まあ仕方がないか……と思ってしまいますね。
(携帯電話が鳴る)あ、ちょっとすみません。はいはい……。またお花の注文でした(笑)。
——個人携帯に連絡が来るんですね(笑)。
瑞江さん もう花束から、唐揚げから、オードブルまで、全部私に来るんですよ。みんな、なんでも「安田屋に頼めばなんとかなる」と思ってる節がありますから(笑)。

——細かく細かく地域のニーズに対応して付加価値を作っていくというのは、なかなか他のお店にできることではない、安田屋ならではの強みですね。ただ一方で、それがあまりに属人的になりすぎると、「その次」のやり方がとても難しくなってしまうと思うんですが。
健也さん 例えば、10年、20年経ったら今のスタッフは年齢的にほとんどいなくなってしまうかもしれないことを考えると、そのときに向けて準備をしておかなければとは思っています。今のところ、ぼくが色々な部門に入って、それぞれの仕事を吸収しておき、それぞれの代替わりがあるときに引き継ぎをスムーズにできるように……と思ってはいますが、花だけはちょっと無理かな(笑)。
瑞江さん これはセンスの問題だからね(笑)。自分のやれることをやってお客さんに喜んでもらうのが私の生きがいなので、自分の手がかかるのは仕方ないと思っていますけど。この先、店もずっとこの規模でやれるかどうかはわからないですし、特に、花やいろんな地域産品は、日々の食卓の必需品である肉や野菜と違って「なくても生きていける」というものですから、手が足りなければやめるということもできる。けれど、そういうプラスアルファのものがお店の売り上げを支えたり、ファンを増やしてくれるという面もありますから、今後どのように扱うか、どのように売っていくかということは、すごく頭を使わないといけないと思います。

健也さんが安田屋の先頭に立つ頃の川口は、どんな地域になっているか。視線はそこに向けつつも、試行錯誤の日々は続く
健也さん あと20年は元気で、同じ仕事をしてもらわないといけないですね。
瑞江さん その頃には80歳過ぎてるんですけど? まあ、日々、やることと考えることだらけですからね。そのうち私も「仕事を取り上げないで」と言い始めるかもしれません(笑)。
人口の流出、高齢化、大型店の立地による市街地の空洞化。地域の三重苦ともいえる状況を改善する魔法があるわけではない。人の話を聞き、地元と自分たちの状況を冷静に把握し、あとは何をすべきか日々考え続け、手を動かし続ける——このオーソドックスな営みを高いレベルで続けてこられたからこそ、ようやく今がある。この先の「地元密着」の姿をまだまだ模索中の安田屋だが、それゆえの瑞江さんや健也さん、スタッフたちのエネルギーを感じに、ぜひ川口を訪れてほしい。

Interview&Text: 安東嵩史/Photo: 八木あゆみ(ともに「な!ナガオカ」編集部)