失われた街の風景を語り合える「懐かし長岡データベース」。20年間サイトを守り続ける管理人ってどんな人?

2000年代に一大ブームとなったインターネットの個人運営サイトやブログ文化。当時、個性あふれる管理人やブログ主たちのサイトの更新、または新たな書き手の発見を楽しみに夜な夜なPCをネットにつないでいた方もいるのではないでしょうか。その時代に長岡で作られたWebサイトのひとつが「懐かし長岡データベース」。「懐かしいあの頃の長岡」を語り合う場として2005年にスタートした参加型サイトで、オープンから20年たった現在も、多くの長岡市民の投稿とともに稼働中です。今回は、サイトの主宰兼管理人である片山真一さんに、なぜこのサイトを作ったのか、話をお聞きしました。長岡駅地下道、長崎屋、おもちゃのバンビ、池津屋、ウチヤマのまりちゃんなどのワードにピンときた方も、そうでない方も、ぜひ続きをどうぞ。
今はなき地元の風景を
みんなで記録する場所
「懐かし長岡データベース」は、誰でも、長岡市の懐かしいと思える場所を「懐かしスポット」として登録でき、コメントを寄せることができる仕様のサイトです。百聞は一見に如かず。ぜひ実際のサイトをご覧ください。


懐かし長岡データベース https://www.nomeshi.net
主宰の片山真一さんは現在50代。地元企業のホームページの制作、クラウド系システムの開発、それらの運用サポートや販促活動サポート等をワンストップで行う企業「カタコム」の代表です。それでは、片山さんに、早速お話を聞いてみましょう!

——まずはプロフィールを教えてください。
片山真一さん 長岡市内在住で、システムを開発したり、プログラムを組むなど、地元企業のデジタル化を請け負う仕事で生計を立てている個人事業主です。2025年5月までは長岡IT事業協同組合の代表も務めていました。
——このサイトを始めた背景をお聞きしたいのですが、そもそも、どのようにして、コンピューターとかIT系の仕事をするようになったのでしょうか。
片山 2000年頃のことですが、看板、ポスター、チラシ等を手掛ける広告・販促物の会社に営業兼制作として勤めていたことがあるんです。お客さんを訪ねて、看板のデザインをさせてもらうために売り込んだり、販促やマーケティングの提案をしていたのですが、時期が時期だけに、「インターネットってのがあるみてえなねっかや(あるらしいじゃないか)」「ホームページみたいなの作りてえがぁよ」って相談されて。
——時代背景を補足させてもらうと、1995年にWindows 95が発売されたのをきっかけに、インターネットへの接続が容易なパーソナルコンピュータが家庭で購入しやすくなり、さらに、2000年にGoogleが日本語での検索サービスを開始したことなどから、2000年代初頭はインターネット利用者が増加。企業はWebサイトの重要性が高まったことから、自社ホームページを持つようになったんですよね。
参考資料: 『平成ネット史 永遠のベータ版』/著・NHK『平成ネット史(仮)』取材班(2019年、幻冬舎)
片山 僕も一応、コンピュータは普通の人よりは得意ではあったので「じゃあ何かちょっと作ってみますね」みたいな感じで請け負って、自分で本を読んで勉強して作ったのが始まりです。始めてみたら、その仕事が楽しくて、本気になってきまして。地元の企業向けにインターネットを利用した販促提案をするようになっていきました。
——いわば独学でITスキルを身に着けたわけですね。その後、「カタコム」を立ち上げるのですか?
片山 転職してIT企業に2~3年勤めたり、独立・起業などを経験したのち、自宅で「カタコム」を立ち上げました。「懐かし長岡データベース」を作り始めた2005年は、インターネットの仕事がすっかりメインになった頃でしたね。
着想のもとになったのは
「ネット掲示板」の文化

——2000年代というと、個人でホームページが作れるようになって、様々なテキストサイトが出てきたり、その後ブログブームが起こったりした時代ですよね。『懐かし長岡データベース』も、そうしたブームの中で思いついたのでしょうか。
片山 ちょうどIT系の仕事をやり始めた頃に、地元企業の社長さんとかと営業的な話をしてる中で、「昔はこういう場所によく行ったよね」みたいな話が、すごく盛り上がるということに気づきまして。しかも、そういう話って仲良くなれるんです。当時はWeb上の掲示板とかブログが流行ってた頃で、僕もちょうどプログラミングを学んでいるときでもあったので、「地元の人はもちろん、長岡を離れていった人とも、ネット上で長岡の懐かしい話を掲示板に書き込めたら、おもしろいかな」と思って始めたのがきっかけでした。
——住んでいる場所に関係なく、同じ話題を共有できるWebの利点を、長岡の思い出を書き込める場所として生かしたんですね。
当時のテキストサイトってアクセスカウンターが付いていて、そのページにどれだけ人が訪れたかが可視化されていて、「カウンターを回す」とか「キリ番」とか「足跡」といった言葉で、サイト主と投稿者同士が密につながっている感覚がありました。懐かし長岡の投稿者の皆さんのやりとりにも、そうしたネットならではの親密さを感じます。「2ちゃんねる」が広く認知され始めたのもこの頃ですかね。「電車男」が話題になったのが2004年でした。
片山 2ちゃんねるも、「懐かし長岡」を思い付くきっかけになっています。自分の思い出にある、長岡にあった懐かしいものを検索してみると、2ちゃんねるや匿名掲示板のスレッドで話題にされていて、長岡の人がいろいろ書き込んでいる。「見てるだけでも面白いな」と思ったんですよね。それで、これを体系的にまとめたら、面白いコンテンツになるんじゃないかと思ったのが、多分最初のアイデアですね。
——なるほど。「懐かし長岡」は、ネット掲示板の書き込み文化を取り入れていたんですね。たくさんの人たちの書き込みが主役で、情報の空白が埋まっていく様子は集合知の力を感じます。しかし、昔の匿名掲示板って、どこか雑然としていましたよね。見やすく、使い勝手をよくするためのページ作りにずいぶん工夫されたのでは。パネルのように並んだ特徴的なレイアウトの狙いや、製作のご苦労談はありますか?
片山 基本、文字ベースのサイトなので、懐かしスポットを一覧で見えるようにするには、どうやったらいいかは考えましたね。一般的には上から下へと縦にスポットを並べていくのが普通なのでしょうが、パソコンでは見づらいかなと思い、小さい四角を画面に並べて入れるような形にしました。また、コメント順、人気順、ランダムなどで並び替えるボタンを設置して、たまたまサイトに来てくれた人が、もっと他も見たくなるような、その人の思い出まで刺激できるような仕組みをなるべく入れたいな、と考えていましたね。

——確かにコメント順を変えるだけで、いろいろなスポットが出てきて発見がありますね。地図から思い出スポットが分かる仕組みもとてもいいと思いました。
片山 地図はgoogleマップをもとに「あそこにあの店があったね」みたいなみんなの思い出を刺激できればなと思って付け加えた機能です。地図上の場所を指定して投稿できるんですよ。

——このサイトを作ってみて、反響や、ご自身でよかったなって思うことはありますか?
片山 仕事先などで「見てますよ」と言っていただけるのは、非常にありがたいなと思ってます。あと、最初の頃は盛り上げようと思って一生懸命自分でコメントを書きましたけど、実はもう何年も、自分では書き込んでいなくて。誰かが書き込んでくれるのを、サイトのチェックをしがてら「懐かしいな」と普通にコンテンツとして楽しんでいる時こそ、作ってよかったなと思います。
——ご自身が誰より楽しんでいらっしゃる(笑)。


——ちなみに、掲示板の主宰というと、面倒事も多そうなイメージがありますが。
片山 ありがたいことに、いわゆる荒らしとか、良くない書き込みがされたりすることはほとんどないんです。アカウントの登録をして書き込むようなスタイルにはせず、本当にフリーで書き込めるスタイルをとったのですが、皆さんが非常にマナーよく使ってくださっていて。
——それはちょっとすごいですね。インターネットリテラシーと良識のある方々が書き込まれていらっしゃる。……それこそ「ニフティサーブ」のパソコン通信あたりから鍛えられてる方々が書き込んでいらっしゃるような匂いがします。
片山 そういう匂いですよね。ユーザーさん方に実際お会いすることってほとんどないんですけど。ペンネーム・投稿者名のセンスとかがその頃のセンスだなという感じがします。
——今、SNSの投稿などではしばしば炎上騒ぎが起きていますが、ここは、インターネット界の紳士淑女のサロンみたいな感じですね。
片山 そうですね。
おもちゃ屋、銘菓、変形学生服。
反響が大きい「懐かしスポット」は?
——ここからは反響が大きかった投稿など、主宰視点での「懐かしスポット」ベストセレクションをお聞きしたいと思います。

片山 【長岡駅の地下道】は、当時もすごくコメントがありましたし、最近でも書き込んでくださる方もいて。長くその話題にコメントくださっている方がいるのは、非常にありがたいし、面白いなと思っています。
——私も【長岡駅の地下道】の投稿を読んで【長岡水族館】について書かれていたのを見て、確かに熱帯魚屋さんがあった!と当時の景色が目に浮かびました。あと、地下道の独特の匂いについても言及されていましたね。普段は忘れている記憶が書き込みによって刺激されました。
片山 今の長岡駅の地下の自転車駐輪場のところに、地下道と商店街があったんですよ。居酒屋や骨董品店、それに熱帯魚の店があったんですよね。


長岡駅ビルの地下道入口(写真左)と地下道(写真右)。現在は自転車駐輪場として使われている。
——子供の頃、東口のバス乗り場に行くためにその地下道を抜けて行く感じで、子供心にはちょっと怖いような場所でしたね。
「な!ナガオカ」編集部スタッフ ウーパールーパーがいたとも聞きました。
片山 いたかもしれない。
——はやりましたね、ウーパールーパー。1985年の「日清焼そばU.F.O.」のCMがきっかけでした。
片山 あと反響が多かったのは、【龍文堂東口店】ですね。龍文堂は現在も営業している本店がよく知られていますが、実は、長岡駅東口バスターミナルのあたりにもう一軒あったんです。ちょっと品揃えが違ってて、東口店はボードゲームなどを中心に扱っていたり、よりディープな感じでした。
片山 あと、大手通りの現在アオーレ長岡の場所には、厚生会館というホールがありまして、その向かいに【おもちゃのバンビ】というおもちゃ屋さんがあったんですが……。


片山 可愛らしい名前のおもちゃ屋さんで、シャッターにはディズニーの小鹿のバンビが描かれていて、すっごくかわいい感じなんですけど、入るとエアガンが並んでいて、エアガンマニアみたいなおじさんたちがいつもたむろしていて。
——(一同爆笑)。むしろバンビは撃たれそう!
片山 店主が好きなんでしょうね、きっとね。常連みたいなごついおじさんが、店主と話しているのを見て「うわ……」って子どもの頃に思った記憶があって。おもちゃのバンビについて投稿してくださった方がいたのをきっかけに、僕もそれを思い出したんです。そこで「エアガンマニア風のおっさん達がたむろしていたりして」とコメントしたら、「そうそう」みたいな返事をいただいたことがありました。
——「池津屋」の書き込みがまた最高におもしろかったです。大手通りの十字路にあった「池津屋」という洋品店は、短ラン、ボンタンといった、いわゆる変形学生服が買えるお店だったんですよね。


片山 1階は普通の服屋さんなんですけど、階段で地下に降りていくと、地下はもう全部ボンタンがいっぱい並んでる。なんかちょっとずつ違うんですよ、サイズによって。上のサイズと下のサイズを合わせた「70の40」みたいな言い方で希望サイズをオーダーするんですよ。ウエストと1番幅広のところと足首の3カ所のサイズから選んで買うんじゃなかったかな。
——そういう変形学生服を着て中学に行き、教育指導の先生に怒られるまでがセット。
片山 そうですね。だから、当時はサイズの差の数値がでかいほど英雄視され、恐れ知らずなやつだみたいな話になりましたね。
——思い出の味にまつわる投稿も多いですね。今、トモシアやNSG教育研究会のある場所には、お菓子やパンを売っているウチヤマがありましたね。【ウチヤマのまりちゃん】で有名な。

編集部スタッフ ウチヤマのまりちゃんってなんですか?
——ウチヤマというお菓子屋さんがあって、「まりちゃん」という、言葉を選ばずに言うならば、仙台銘菓の「萩の月」みたいなカスタード饅頭が名物でした。
片山 ウチヤマも書き込みがいっぱいありましたね。まりちゃんを食べた時に「こんなうまいものがあるのか」と思って、すごく好きだったんですよ。大人になって、萩の月をいただいたとき「これ知ってる。まりちゃんじゃん」ってなって。長岡の人、みんなそう思ったんじゃないかな(笑)」
——失われた思い出の味ですよね。思い出の味といえば、サイトを見ていて驚いたのが、【ボン・オーハシ】の2階の【グラタンセット】の書き込みが多かった!みなさん、あの味に郷愁を感じるんですね。
片山「ボン・オーハシの店舗が現在のミライエ長岡の裏手にあたる場所にあったんですよ。2階がちょっとおしゃれな感じのレストランだったんです」

——グラタンセットというメニューがおいしくて人気でした。高校生でも入れるくらいのお店だった。
片山「ウチヤマ、ボン・オーハシと出てくると、大体【ローラン・ローゼ】の話題が出てきますね」
——敷居が高くて遂に行けなかったな、ローラン・ローゼ……。他にもラーメン屋さんなど、閉店した飲食店やお菓子屋さんへの、皆さんの郷愁溢れる書き込みは多いですよね。
長岡のまち華やかなりし頃の
ディープなデパートの思い出
——大手通りが一番華やかだった時代のデパートの話題は、やはり鉄板の盛り上がりを見せますね。
片山【長崎屋】関連の書き込みは、めちゃくちゃいっぱいあります。
——長崎屋は、今の駅ビルのCoCoRoに併設されている駐車場のあたりにあったデパートです。ちなみに、どんな書き込みがあるんですか。
片山 中に入っているお店1軒1軒ごとに書き込みがあったりします。オアシス、たんぽぽ、ピーコック。切手のお店とかありましたよね。隙間みたいなところで切手を売ってるんですけど。

——切手のお店ですか。ディープというかマニアックな感じがしますね。私の思い出はボウリングセンターの前で売っていたソフトクリームがおいしかったこと。
片山 たしか、長いソフトクリームじゃないですか。あのあたりの書き込みは、めちゃくちゃ盛り上がってますね。
——料理研究家の坂田阿希子先生にインタビューしたとき、先生もそのソフトクリームがおいしかったっておっしゃってて。
片山 ソフトクリームを出してくれるおばちゃんが、すごくサービスしてくれるんですよね。ピーコックとタンポポって2軒のお店があって、あれは競ってたのかな? いつしか2店ともめちゃくちゃ盛りがよくなって(笑)。
——長崎屋のソフトクリームに、そんな背景が! デパート関係では、「丸専デパート」がらみの投稿が初期に多いですね。そういえば、サイトがオープンした2005年の前後はデパートが次々と閉店した頃ですよね。
片山 デパートは、バタバタバタっとなくなっていきましたね……。このサイトを作った直後ぐらいに、確かもう、丸専が最後の頃を迎えていたんじゃないかな。丸専の建物に行くと、人気は少ないものの営業している店舗はまだあって「ここにこういう店があったな」という記憶がすごく刺激されたので、よく書き込んでいましたね。
——丸専デパートの閉店は、2007年。ほかのデパートの閉店の年は、長崎屋長岡店1995年、イチムラ百貨店1997年、ザ・プライス丸大店2000年、大和2010年。かつて華やかだった大手通りが寂しくなっていく感じがありましたね……。
片山 確かに、今思い出すと、「懐かし長岡」を作った初期の頃は、この店、なくなったんだとか、あこはもう閉店なんだ、みたいなそういった寂しさをものすごく感じてる時期だったかもしれないですね。
アクセス数が増えるのは
「年末年始とお盆の前」
——2000年代に数多く誕生したサイトも20年過ぎた今、なくなったり、更新が途絶えたりするところが多いのですが、「懐かし長岡データベース」は最近まで書き込みがありますね。
片山 そうですね。特に年末年始とかお盆の前後になると、アクセス数が急に増えたりするんですよ。
——え!おもしろいですね、それ。
片山 みんな、里帰りとかすると懐かしくなるんだろうなと思って。あの店、どうなったかなと思い出したり、久々に帰省したらなくなっていて「いつの間になくなったんだろう」と検索したりするんじゃないかな。
——いつでも故郷を振り返れるというか、ちょっと同窓会に来た雰囲気を味わえるんでしょうね。これだけ長く一つのサイトを続けてきた理由をお聞きしたかったのですが、まさに、こうした訪ねてきてくれる人たちがいらっしゃるからなのでしょうか。
片山 はい。おっしゃる通り、今でもコメントを書き込んでくださる方がいるので、それも見てると楽しいですし。完全に趣味の領域ですね。
——趣味の領域と言いながら、ちょこちょこと手も入れてらっしゃるんですよね。
片山 手を入れたいなと思いつつ、機能の追加とかはなかなかできないので。ただウェブサイトである以上、メンテナンスは必要なので続けています。
——ちなみに、写真は入れようか、考えたことあるんですか。
片山 一時は、写真を送ってもらって自分で掲載したりもしてたんですけど、けっこうシステム的に大変で。誰でもフリーで書き込めるようにしてるので、ファイルのアップロード機能を入れると、セキュリティ的な問題があったりメンテナンスが大変になるかなと思って、そこはあえてやらないままです。
——でも、このテキストだけのスタイルが、当時を知らなくても想像をかきたてる部分もあるので、あえて写真がないのもいいですよね。この先、このサイトをどういうふうにしていきたいですか。
片山 記事が何年頃の思い出なのかというアンケートを入れているので、それを生かしてエピソードの年代別にフィルタリングができるようにして、自分の世代の思い出を読めるようにしたいという野望があります。若い人たちにも使ってもらえるようになりたいですね。
ほかに、いろいろな人が書き込んでくれた「長岡の懐かしいこと」に関する書き込みが大量にあるので、それを生成AIに読み込ませてあげると、懐かしい長岡についてずっと話し相手になってくれるChatGPTみたいなのが作れるんじゃないか、ちょっとやってみたいな……と思いつつ、本業もあってなかなかできずにいます。
※この取材時の構想は「懐かし長岡GPT」として2025年6月に公開。ご本人いわく「精度はいまいち」とのことですが、「懐かし長岡」の内容が充実すればより精度は上がると思われるので、ぜひ奮ってご投稿を。
——それにしても、そもそもこのサイトを20年続けてくださっていることに感謝しないといけませんね。風景が変わると、思い出も上書きされてしまいますが、ここにくれば、みなさんの投稿を読んで、自分が見た景色や空気感、食べ物の味などを思い出せそうです。
あらためて、懐かし長岡データベースは、地方都市の消えそうな歴史と、インターネットという誰もがアクセスできる空間が交差して、みんなの思い出を残せる場所になったところに面白さやありがたみがあるな、と思いました。
片山 ありがとうございます。なんかいい感じにまとめてもらって。自分のサイト、意外といいサイトだなって思いました(笑)。
——いやいや、いいサイトですよ。お盆と年末年始になるとアクセスが増えるサイトなんて、もうほとんど「地元に帰ってくるたびに立ち寄ってしまうお店」みたいじゃないですか(一同笑)。「帰省したら必ずフレンドにイタリアンを買いに行く」みたいな存在でずっとあってほしいです(笑)。
「街に行く」が
ワクワクの合言葉だった頃

最後に、たくさんの人たちの街の記憶を残す場所を作った片山さんに、自身にとって一番の「懐かしい長岡の風景」をお聞きしました。
片山 自宅から大手通りに向かうときの景色ですね。子どもの頃住んでいた家が今のウオロク長岡店(日赤町)のあたりで、「街に行く」というときは、匠橋を渡って、駅に向かって歩いていくんです。今のトモシアの辺りには家具屋さんが3軒くらい並んでいて、それが見えてくると、向こうは華やかな表通りが続いていって、そこから別世界というか、「街に来たなあ」っていう気持ちになりました。その光景がすごく思い出されますね。

本、レコード、服、家具、おもちゃ、誰かのためのプレゼント……。商品がたくさん並んでいて、外食も楽しみで、そんなワクワクする気分を抱えながら「街へ行く」。片山さんの話を聞いて、小学生のときの、大手通りに向かうバスの中から見える景色や、中高生のときに友達と大手通りで待ち合わせるために自転車を走らせたときの空気感が思い出されました。大手通りに「向かうとき」。そんなささいな記憶が残っていたことが我ながら驚きです。
あの頃の長岡のことが話せる場所、そして、あの頃の自分にも会える場所。まちの風景は一度壊されてしまえば二度と戻ってきませんが、「懐かし長岡データベース」はこの先も、たくさんの人の記憶が託せる、また記憶を刺激するサイトとして、長くインターネットの片隅に残り続けてほしいと思いました。昭和の長岡を覚えている方も、平成の時代に思い出がある20~30代の方も、「懐かし長岡」に立ち寄って、思い出話を投稿してみませんか。数十年後に、貴重な街の歴史の記録となるかもしれませんよ。

Text & Photo: 河内千春
懐かし長岡データベース https://www.nomeshi.net