サッカー強豪・帝京長岡を支える「まちのクラブ」長岡JYFC。スポーツで地域をつなぐその育成哲学とは

帝京長岡高等学校。今やサッカー愛好家でその名を知らない人はいないのではないだろうか。新潟県下はもとより全国でも有数の強豪校として名を馳せ、これまでに全国高校選手権には9度出場、うちベスト4に2回。多くのOBがJリーグやフットサルのクラブと契約を結んで卒業後にプロ入りし、日本代表のアンダーエイジカテゴリの選手も代々在籍してきた。男子のみならず女子サッカー部も地区総体や全国総体で毎年好成績を残しており、押しも押されぬ名門の風格が漂う。

しかし、帝京長岡をここまでの存在に育て上げた現在の総監督・谷口哲朗氏が監督として1996年に赴任したときは、サッカー部の部員はわずか11人。チームがギリギリ成立するとは言え、現在のような隆盛は想像もつかない状態だった。そこからわずか四半世紀で全国有数の強豪校になった帝京長岡だが、その快進撃の裏には谷口氏の手腕に加え、チームの背骨を支える育成システムがある。

それが2001年に設立されたクラブチーム「長岡JYFC」(2004年にNPO法人化)。帝京長岡高校のグラウンドや施設を利用し、幼稚園児から小・中学生年代の子どもたちまでを一貫指導しながら帝京長岡サッカー部の次代を担う選手を育て上げ、クラブユースサッカーの全国選手権に出場するなど、着実に成果を出してきた。

だが、いわゆるユース世代のクラブのようなハードなサバイバル感はそれほど強くない。あくまで「サッカーを楽しむこと」を基本とする「まちのクラブ」という雰囲気を保ちながら、それでいてハイレベルな要求にも耐えうる選手を輩出している。それを可能にしているのは、どのような運営方針なのだろうか。谷口総監督の高校時代からの盟友であり、設立以来JYFCの代表を務める西田勝彦さんに話を伺った。

 

「名前を考える余裕もなかった」
すべてが手探りのクラブ設立

「最初は、本当に手探りで始まったんですよ」。季節の変わり目の冷たい雨がしのつくグラウンドで、西田さんはJYFCの始まりを振り返った。

名門・帝京高校から東海大学を経て、本田技研工業フットボールクラブというサッカー人生を歩んできた西田さん。転機は、帝京長岡が初めて全国大会に出場した2000年だった。谷口監督(当時)が率いて4年目の若いチームを関東で間近に見る機会があり、西田さんの中で「指導者になろう」というスイッチが入った。

「高校、大学、そして社会人とサッカーをやらせてもらっていたわけですが、いよいよ自分がプレーできなくなった時のことを考えるタイミングが来ていました。会社員なので、このまま会社に残って働くこともできる。しかし、それでいいのか。自分はやっぱりサッカーに関わっていきたいと思ったんです。ほとんどの同僚からは、『やめといたほうがいいんじゃない?』と言われましたけど、自分の中では答えは決まっていました。『ピッチに立ったら、すべては自分で決断するしかない』ということをサッカーを通じて学んでいましたからね」

そんな西田さんがいくつかの選択肢から選んだ行き先は、高校時代から苦楽をともにした谷口さんがいる長岡だった。2001年4月、「来たこともないし、何も知らなかった」長岡の地に、西田さんは立つ。

 

西田さんはJYFCの理事長、代表とともに帝京長岡サッカー部のコーチも兼務する。

谷口さんは以前から「帝京長岡には育成機関が必要だ」という問題意識を抱いていた。全国から生徒をかき集めるような古いタイプの強豪校ではなく、より下の年代から自然にサッカーと触れ合うことで長岡という土地のサッカーを底上げし、その中から育ってくる選手をさらに大きく育て上げる、そんな仕組みが必要だと考えていたという。そのためには、「JYFCは帝京長岡の下部組織ではなく、協力関係なんですよ」とハッキリ言える関係性があり、お互いの共通点も違いも知り尽くした仲の西田さんが指導者として招聘されたのだった。とは言え、西田さんもクラブ運営は初めて。チームの命名からして「すべてが手探りで始まった」と振り返る。

「JYFCというのはJunior Youth Football Club(ジュニアユースフットボールクラブ)の略で、すごくシンプルな名前ですよね。もっとクラブっぽい名前、特色のある名前にしてもよかったのでしょうが、とにかく右も左も分からない中で一から作り上げていったので、そんなことを考える余裕はなかったんです(笑)。2004年にNPO法人化しましたが、その際もクラブの選手のご家族が税理士さんや社会保険労務士さんだったりしたのでご協力いただいたりと、みんなで手作りでやってきたようなものですね。クラブ運営が落ち着いてきてから『あ、名前って大事だったんだな』とようやく気づいて、女子チームを作るときには『長岡Joias(ジョイアス=ポルトガル語で宝石の意)』という名前をつけました。

とは言っても、今ではここを巣立って行った選手たちがいろんな場所で活躍してくれるおかげでJYFCの名前も少しは全国で知られるようになったし、『この名前でよかったな』と誇りも持っていますけどね」

初年度の生徒は、谷口監督が方々に声をかけて集めた30人ほどの子どもたち。指導者としては初心者だった西田さんが彼らと向き合うために行ったのは、言葉よりも先に自分が体を動かすということだった。

「選手を引退したばかりで、まだ体も軽かったですからね(笑)。いきなりああしろ、こうしろというのではなく、まず自分が、一つひとつの動きやテクニックをやってみせる。それで、『自分もやってみたい』と思ってくれることが第一歩かなと思ったんです。指導の経験はなかったので、それしかできないということもあったんですが。右も左もわからず、とにかく夢中で一緒に歩んだ初年度の生徒たちのことは今でも忘れられません」

 

「勝利」だけを目的としない
JYFCの「ふたつの理念」

綺麗にピッチが整備された、帝京長岡高校のグラウンド。JYFCの練習もここで行われる。

クラブを導いていくというのは、一筋縄ではいかないもの。それぞれに違う個性を持った一人ひとりの子どもたちと向き合うことの難しさは、当初も今も変わらないという。

「立ち上げの頃だけではなく、今でも壁にぶつかることはいっぱいあります。クラブ運営自体がその連続でできているようなものですね。

JYFCの理念としては『サッカーを通して成長する』『長岡にサッカーやフットサルの文化を根づかせる』という二つの柱があります。『サッカーを通して成長する』で言えば、自分自身がサッカーから多くのことを学んできたという自覚があります。これはサッカーに限らないのでしょうが、フィールドに立つとひとつの試合の中でも喜怒哀楽というか、嬉しいことや悲しいこと、さまざまな感情の動きがあります。それらとうまく折り合いをつけながら『次はどうしようか』と考えていかないと、いいゲームができない。点をとって嬉しくても、ミスをしてへこんでもゲームの時間は流れていくものなので、熱い気持ちと同じくらい、うまく切り替える冷静さや大局を見る目も保たなければならないんですよね。

それは指導も同じで、『うまく伝わらなかったな』ということや『こういう向き合い方をしてよかった』ということは都度都度、たくさんあるんですよ。大人である指導者でもそうなので、現役の選手であり多感な時期の小中学生でもある子どもたちは、自分の考えを伝えたいのにうまくできないとか、自分の感情とうまく向き合えないといったことがもっとあると思うんです。そういうことを一つひとつ考えながら接していくことを、やはりサッカーが自分に教えてくれたと思います」

サッカーはチームスポーツである以上、当然ながら、チームメイトや相手チームをはじめとする他者との関わりの中で成り立つ。その中で経験したり考えたりして身につけることは、決して競技の時間だけではなく、長い人生に寄与することもある。

「サッカーだけで言っても自分のものの見方があって、そしてチームメイトの見方、相手チームの見方、チームのコンセプトといったものがある。自分のものの見方はもちろん大事だけれど、関わっていく他者が何を見て何を考えているのか、自分に何を求めているのかを考えられるかどうかは、サッカーに限らず社会生活を営む上でも、すごく大事なことです。
サッカーは、キーパー以外は手を使えないスポーツですよね。人体の中で最も器用な部分を使えないということは、ミスもそれだけ発生しやすい。そういった中で、周囲の味方との意思疎通や信頼関係の構築はとても大事ですし、とは言え何もしなくても他者が勝手にフォローしてくれるものではなく、自分がどういう思いを持って集団にどんな働きかけを行うかにかかっている。そういう、人としての成長にとって大事なことをサッカーは教えてくれると思っています」

その中で、教育者としてのサッカー指導者という存在を、西田さんはどのようなものだと考えているのだろうか。

「このクラブを選んでくれた子たちがそれぞれに持っているものを最大限に発揮できるようにすることが指導者の仕事だと思っています。例えば、我が強い選手がいるとする。『俺が、俺が』というタイプの個性は時にあまりよくないイメージを持たれることもありますが、そういう選手は点を取ってくるフォワード向きだったりします。晴山岬(Jリーグ、町田ゼルビアに所属。JYFCから帝京長岡高校に進み、2018年の全国高等学校サッカー選手権大会では一回戦でハットトリックを決めるなど鮮烈な活躍を見せ、大会優秀選手に選ばれた)なんかがまさにそうでしたね。そういうとんがった部分を無闇に削らないで、『点が取りたいなら、それはボールをキープすることから始まる。つまり守備から始まっているんだよ』と伝えると、守備も頑張るようになる。一方でチームのバランスをしっかり見極めて、ゲームのペースをコントロールできるタイプの個性もあったりと、選手によって千差万別なんです。そうしたものを一つひとつ見極め、もしかしたらその選手が短期的に目指しているものとは違っても、結果的によりよいところにたどり着けるように、本人の持っているものを伸ばしていくことが、自分の一番の仕事ですね。

もう20年このクラブを率いて来ましたが、今でも『思ったような采配ができたな』と思える試合は一年のうちに一試合あるかないか。選手が怪我をしたり、相手チームが思いもよらない戦法に出て来たりして、当初のプランが崩れていくことのほうが多いんです。そんな中で『では、状況にどう対処するか』ということをオンゴーイングで常に考えていく。指導者にも、選手にとっても必要な考えです。そんな時に『自分の一番いいところはこれだ』と信じられるものを作ってあげることはすごく大事だと思っています」

決まりきった質問とは思いつつ「指導者として印象に残っている試合はあるか」と問うたところ返ってきた答えが、西田さんの選手たちへのまなざしを象徴している。

「自分自身は成功も失敗も引きずるタイプではないんですが、勝った試合も負けた試合も全部覚えています。一つひとつの勝ち負けがどうというよりは、小さい頃から見てきた子たちが県大会や高校選手権でプレーするのを見て『あと一試合できていたら、もっとこの選手は成長したのにな』とか、『あともう少し、このチームが連動するのを見ていたかった』とか、そういう思いを大事にして、ずっと忘れないですね」

 

丁寧に人と向き合う姿勢が
少しずつ景色を変えていく

JYFCの全員が帝京長岡高校に入学し、サッカーで活躍できるわけではない。違う道を選ぶことになる生徒たちもいるが、そうした子どもたちにかける言葉にも、西田さんの哲学は表れている。

「違う道に行きたいという子どもは、毎年います。小さい頃から頑張ってきたのを見ている子ばかりですから、できれば帝京長岡に進んでもらいたいという気持ちはあるんですが、別の学校を選ぶのも、サッカーをやめて別の道を行くのもいいと思います。ただし、『自分が決めたことなのか?』と、は必ず聞きますね。それは自分の決断なのか、その決断に後悔をしないでいられるか。自分の決断であれば止める理由はないんですが、『自分は続けたいけど、親に言われて』といった理由の場合は、もう一度親御さんと話をして、それから自分自身の決断をするように、とは言いますね。

私自身も会社を辞めて指導者になったわけですが、会社を辞めるということも自分自身の決断として行ったから、クラブ運営がいかに大変な中でも後悔はありませんでした。次の道に進むのならば、そういう前向きな思いのほうがここで学んだことを活かしやすいと思いますし、本人にとって必ずプラスになりますから」

育成世代の選手にとって、親や家族は非常に大きな存在である。しかし、それゆえにその影響が大きくなりすぎ、もしかしたら親自身、選手本人も気づかないうちに選手の思考を支配してしまう危険性もある。核家族化が進み、小さな単位の家族関係が強固になることでともすれば閉塞感を感じやすい現在の社会の中で、その力学からふと自由になれるような言葉をかけられる『もっとも身近なよその大人』が存在することが、まだ子どもといえる年齢の選手たちにとっては非常に重要なのかもしれない。

「そういうことは、指導経験を積む中で少しずつ考えられるようになってきたと思います。最初はもう無我夢中でそんなことを考える余裕はなかったんですが、少しずつ、いろいろな選手との触れ合いの中で自分自身も学ぶことができて今がある。小さい頃からじっくり子どもたちと向き合うことで、『この選手の、ちょっと先の姿』みたいなものを想像しながらやれるようになったのが大きいのかもしれませんね。本人や親御さんが生活を全部ともにしている中で、目の前のことに一生懸命になるあまり、なかなかイメージする時間がないかもしれない『ちょっと先』について、サッカーという点でだけつきあっている僕がイメージできることもあるのかなと思います。

それは総監督の谷口も一緒で、彼は『帝京長岡高校を強くするために、常に10年後、20年後を考える』指導者です。わざわざ改まって二人でそんなことを話したりはしないけれど、高校の時からすべてを一緒に見て、経験してきた仲なので、お互いの考えていることはわかる。だから、JYFCを立ち上げるときも、彼は『そんなにすぐ結果は求めてないよ』と言っていました。20年前の長岡は、首都圏のようにサッカー人口も多くて、チームもたくさんあって……という状況では決してなかった。その頃から彼は、今のような未来を描いて行動してきたと思います。そこに魅力を感じて一緒にやるようになったがゆえに、自分も『ちょっと先の姿』を考えながら選手と向き合うことができているのかもしれません」

『ちょっと先』を見据えつつ、気づけば20年。課題も感じつつ、まだまだこの先の楽しみはつきない

長岡には縁もゆかりもなかった西田さんが、手探りで築き上げたクラブ。少しずつ、丁寧に人と向き合い育ててきたことが、JYFCの柱のひとつ『長岡にサッカーやフットサルの文化を根づかせる』を大きく花開かせつつある。

「今いるスタッフで言うとジュニアユースコーチの山﨑太一、女子チームの監督をやっている清水建志、小学生を見ている本田光といった面々はみんな長岡市出身で、最初にJYFCがU-15フットサルの全国大会で優勝した2009年の選手でした。他にも地元出身のスタッフもいるし、私のように県外からやって来たスタッフもいます。『この広い長岡にはきっとたくさんの素晴らしい才能を持った子どもたちがいるんだろうな』とは自分が来た時から思っていたことなので、そうした子どもたちと一緒にサッカーやフットサルができているのは、ありがたいことです。帝京長岡のサッカー部に進学したり、そこからさらにJリーガーやフットサルの日本代表になったりする選手が出てきたのは大きな達成ですが、このクラブの目的はサッカーで成功する選手を育てることだけではありません。市役所に入ったり、企業に入ったり、新聞社に入ったりとさまざまなフィールドで活躍する人材が育つことで長岡の一部として貢献できているのであれば、こんなに嬉しいことはないですね。選手本人だけじゃなく、親御さん、地域の方々もJYFCを積極的に応援してくれるようになっていますし、そういう意味では文化が少しずつ作られているのかなと思います。

自分にできることなんて、そう大きいわけではないんですよ。選手本人の頑張り、地元の方々の応援があったおかげで帝京長岡もJYFCも少しずつ大きなチームになり、そして、そのことによって県外からも帝京長岡に有望な選手が入ってくるようになった。そうすると新しい風が吹いて、さらに土壌が豊かになっていく。長期的なビジョンが少しずつ形になっている自覚があります。だからこそ、いま一緒にやっているスタッフにどういうバトンを渡していくか、どう未来につなげていくかを考える時期に来ているのかなと思いますね」

 

スペシャルゲスト・谷口総監督登場!
地域サッカーを作る「バディ」対談

ここで、西田氏を長岡に招いた本人である、谷口哲朗総監督にもご登場いただいた。高校以来の関係性、そしてJYFCを立ち上げて以降の西田さんとの信頼関係も含め、このまちのサッカーの形を見つめるふたりの「いつもは改まって話すことはないんだけど」という会話を最後にお送りする。

「切っても切れない関係だから」とご登場くださった谷口さん(右)。高校時代からの悪友(本人談)らしく、撮影中も笑顔で冗談を交わす

谷口総監督 私は帝京長岡高校のサッカーを強くするためにこの学校に呼んでいただいて、もう26年になりました。自分自身、高校サッカーという世界の中で育ったので、そこに恩返しできるならという気持ちでした。その高校サッカーの入口、15歳でチームメイトとして西田に出会って、それから別の大学に進んでもずっと悪友として(笑)長い時間を一緒に過ごしてきました。

私が帝京長岡に着任してから時間を過ごす中で、「この学校をもっと強くするために、高校年代より下の世代の育成をするクラブが必要だ」という思いが大きくなっていった頃に、西田も選手としての生活を終えるタイミングが来て。それで「長岡に来て、育成のためのクラブを作ってくれ」というオファーをしたんです。彼は他にも指導者の話がきていたようなんですが、昔ながらの縁で長岡に来てくれて。もう20年以上が経ちましたね。

私は本当に「帝京長岡を強くしたい」という思いが強くて、地域のサッカー文化に貢献するところまでは考えがもう一つ及んでいなかったんですが、この20年の間に、地域との関わりという意味でもとても意義のあるクラブになったと思います。

西田 「強くしたい」という谷口の思いを受け止めながら、一方で私自身の考えることも尊重してもらえる協力関係が築けたことは非常に大きいですね。学校にも感謝していますし、小学生や中学生が高校のグラウンドを使わせてもらっていることも含め、先行投資と言いますか、短期的な勝ち負けを超えて多くの人が応援してくれていることでクラブが成り立ってきたと思います。その上で帝京長岡高校のサッカー部に入部する生徒も増え、サッカー部を強くすることに貢献できているという誇りもありますね。……普段は、谷口とこんな話をすることもないんですけど(笑)。

谷口 まったくしないね(笑)。始めた当初は二人とも若かったので、見切り発車でチームを作って、今では考えられないくらい何事もどんぶり勘定だったので、クラブにお金は全然なくて。西田なんて、朝は牛乳配達をしたりしていました。そんな中でも、運営していく中で「ここをこう改善すれば、もっとよくなるかも」ということの繰り返しを重ねることや、グラウンドの運用を工夫するといったハード面も含めて、大人たちがサッカーを真剣に考えている姿を見せることを通じて、少しずつ選手が育っていったのかなと思っています。帝京長岡も強くなり、全国大会で好成績を収めたり、選抜や日本代表に選ばれる選手を輩出できるようになってきたけれど、私たちがことさらに何かを教えたというより、そういう光景を選手たちに少しずつでも見せることを続けてこられたことが今につながっているんじゃないでしょうか。

西田 谷口の考える10年先、20年先のビジョンを信じてこられたからこそだと思うので、そこは大きかったですね。

谷口 西田はそう言ってくれるけど、昔は自分も若かったので、目の前の試合に勝つことだけをもっともっと考えていたと思います。気持ちが強いあまりに近くしか見えなくなってしまいますし、どこかで焦っていた部分もあった気がしますが、こうしてチームが育っているのを見てきた中で、だんだん焦りは消えてきましたね。今は総監督という立場ですが、後任の監督もスタッフもみんな帝京長岡の卒業生ですし、変な話、自分が生きている間に日本一になれなくても「今までやってきたことを積み重ねることを怠らないでやっていけば、いつかはなれるんじゃないかな」というくらいの長い目で見られるようになってきた気がします。天狗になったり勘違いして研鑽を怠ったりはしていないか、水漏れしていないか、そういうところを気にするようになりましたね。

逆に、これまで僕よりずっと遠くを見ていた西田のほうが、最近は焦っているかもしれないですね(笑)。彼は僕よりもずっといい選手でしたが、高校や大学で怪我を経験したりして選手としては思うようにやれなかった経験もあるので、「もっと選手のこの先を考えた指導の方法はないか」と常に模索をしながら育成をしてきたと思っています。けれど、最近は帝京長岡にも県外からいい選手がたくさん来てくれるようになったので、長岡の子たちが埋もれてしまうという危惧を抱いているんじゃないかな。そういう意味では、二人のベクトルは常に同じなんですけど、お互いの考えていることの強弱とか濃淡というか、力を入れるポイントはその時々で違いながらも、勝手にうまく補い合えている気がします。やっぱり、腐れ縁なんだな(笑)。

西田 お互いに自分にないものを持っているという感覚がありますし、同じタイプではないのがいいんだろうと思います。その上で協力関係を築けるという信頼があるので、成り立っているんでしょうね。

谷口 高校の頃からずっと一緒に過ごしてきたので暗黙の諒解みたいなところがあって、それでいて自分とは違う観点から物事を見られるという点で、とても重要な存在だと思っています。とは言え同級生ですから、二人とも同時に歳をとっていく(笑)。なので、次の世代を育てなければというところはありますけどね。幸運にもJYFCや帝京長岡で育った後進の世代がたくさんいて、ここに戻ってきてくれたり「一緒にやりたい」と言ってくれています。我々の考えてきたことを彼らには全て伝えていますが、彼らがそれを踏襲するだけではなくて自分の考えや色をどんどん足していってくれて、ひと世代だけではなく何十年、何百年も続いていくものになればと思っています。

この学校のグラウンドの、平日の夕方の光景が僕は本当に好きで。そのためにやっている気さえするんですけど、だいたい15時くらいからサッカー部の高校生が練習をしていて、その後17時とか17時半くらいから、ぽつぽつとJYFCの子どもたちがやってくる。18時を過ぎると徐々に入れ替わっていくんですが、時によっては高校生が小さい子とすれ違うときに挨拶をしたり、怪我で休んでいる部員が子どもたちの手伝いをしたりするんですよね。高校生も地域の子どもたちや、一緒にきた親御さんに見られているといういい緊張感をもてるので、とてもいい影響があるんです。その脇では幅広い年代の子どもたちが入り混じってサッカーに勤しんでいる。そういう光景を見られるのなら、これをやっている意味があるなと思うんです。

サッカーに限らず子どもがスポーツに打ち込むことによって学べることは多いはずですし、それはスポーツではなく科学とか文学とか、別の分野でもそうだと思うんですが、その裾野を学校や会社みたいなものの外側に広げる一つのケースになっているんじゃないかな。

西田 子どもたちから見ると高校生は大人ですし、彼らがきちんと人に挨拶をしているのをぼんやりとでも目にすることで、自分も挨拶をするようになったりするんですよ。私が「こうしなさい」というのではなく、自然に、自ら少しずつ学んで変わっていく。高校の部活と、いわばまちのクラブが併立しているというかなり珍しいあり方の意義を感じる部分ではありますが、もし首都圏だったらこの形は成立しなかったかもしれませんし、谷口哲朗という人間や帝京長岡という校風がなければまた違ったと思います。この環境があることの価値を感じながら、もっと高校スポーツと地域との連携を作っていきたいですね。

谷口 本当に幸運にも、「たまたまこうなった」んですけどね。でも、それは大きな力で作ったというより、長い時間をかけて自然に生まれたとも言える。それが大事なことなんだと思います。

 

西田氏と谷口氏。まさに「バディ」という言葉がふさわしい信頼関係で結ばれた二人の仕事によって、長岡のサッカーとその周辺の風景は少しずつ、しかし20年という単位で見れば大きく変わってきた。ここにあるのは勝利や得点といったわかりやすい指標だけを求めるスポーツ教育ではなく、信頼をベースに人や地域といった一言では表現できない複雑な存在と長い目で継続的に向き合うという、教育のひとつの理想的な形なのではないだろうか。

NPO法人 長岡JYFC
住所:新潟県長岡市中沢4丁目412-3
Webサイト:https://www.footballnavi.jp/teikyo_nagaoka/
入団・体験の問い合わせ:0258-84-7704

 

Text / Photo: な!ナガオカ編集部

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