自然な流れに身を委ね、自由に境界を越える。陶芸作家・矢尾板克則さんの“ズレてる”生き方
いまだ続くコロナ禍の中、働き方や暮らし方を見直すうち、それまで蔑ろにしてきたことに向き合ったり、日常のひとこまに新しい価値を見出したりと、生活意識が変化した人は少なくないはず。たとえば食器棚を整理して、お気に入りの作家の器を日々の暮らしに取り入れてみるとか。リモートワークが増えて在宅時間が長くなれば、自宅で食事をして、お茶を飲む回数も多くなる。作り手の想いが宿る“一点もの”で飲むお茶やコーヒーは、のどを潤し、香りや味を楽しむだけでなく、器の存在に心も満たされ、至福のひとときとなるかもしれない。
新潟県長岡市を拠点に活動し、全国のギャラリーから引きも切らず展覧会のオファーが届く陶芸作家の矢尾板克則さんは、手触りや色使いがユニークなカップや皿などの器と、壁に掛けたり置いたりして楽しむ陶のオブジェを制作している。唯一無二の風合いと独自の世界観をまとうチャーミングな作品はどのように生まれるのか、矢尾板さんの工房でお話を伺った。
豊かな表情を引き出す技法は
失敗と好奇心、偶然の賜物だった
JR長岡駅から車で15分ほど南に走った高島町。「矢尾板」という姓の人が多い界隈で、実家に隣接する倉庫を改築し、矢尾板さんが工房を立ち上げてもうすぐ28年になる。
「どうぞ、いらっしゃい。雪が降り出しましたね」と、工房に迎え入れてくれた矢尾板さん。さっそく自作のポットとカップでお茶を淹れてくれた。カップは、フリル文様と凹凸のある表面のテクスチャーが特徴的な「フリルカップ」。穏やかに風化したようなニュアンスの色合いに趣があり、日常使いの器として使い込まれてきたようにも見える。ふっくら丸いポットの黒地に浮遊するドローイングもおもしろい。
ちょうど制作中の「フリルカップ」があるということで、見せていただいた。工房の一角に淡いグレーの衣をまとったカップが並べられ、周辺にパリパリした細かいカケラが散らばっている。これはいったい? 「表面がひび割れしてるでしょ。『色化粧』という陶芸の技法で、顔料などを粘土に調合した泥絵具のようなものを作って、普通はそれを1回塗るのですが、僕は塗って乾かし、塗って乾かし、何色か塗り重ねていて。乾燥して剥がれると、下に塗った色や絵が現れるんです」 置いておくと少しずつ乾いて土の水分が抜け、自然に剥がれ落ちるというが、矢尾板さんが手で剥がしてみると……。 パリパリに乾燥したひび割れを剥がす様子は小気味よく、ゆで卵の殻をむくようでもあり、動物の脱皮のようでもあり、どこか清々しい気持ちになる。
「水分を含んだ土なので、乾燥して水分が飛ぶと収縮する。膨張と収縮を繰り返すわけですが、その間に手を加えてあげると、こういう質感が生まれるんです」
すべて剥がしたら、工房の奥にある窯に入れて焼成する。同じ色を重ねても、同じ図柄を施しても、作家の手で生み出されたものにひとつとして同じものはない。表面の凹凸、手触り、色彩の濃淡、形状にわずかな差異が生まれ、それぞれ異なる表情をたたえた唯一無二の作品となる。「矢尾板克則らしさ」の象徴ともいえる剥離(はくり)の技法はどこで習得したのだろう。「習ったわけじゃなくて、失敗から生まれたというか。色化粧というものは、本来は剥がれてはいけないものなんだけど、たまたま剥がれたことがあって。剥がれるんだったら、その中にドローイングを描いたり、色を塗り重ねたり、いろいろ仕込んでみたらどうなるんだろうっていう、好奇心で生まれたものですね」
既成概念にとらわれず、探究心に突き動かされて発見した技法を巧みに使い、遊び心と情趣がある作品を手がける矢尾板さん。ここに至るまで、どんな道を歩んできたのだろう。
予備校で「水粘土」に活路を見出し
大学では陶芸と彫刻の間で揺れ動く
矢尾板さんは1969年、長岡市生まれ。地元の十日町小学校、岡南中学校から県立長岡向陵高校へ進学した。
「最初は普通に通っていて、サッカー部で活動していたこともあったのですが、2年生から3年生にかけて、だんだん無気力になってきて。大学を出て公務員になるとか一流企業に入るとか、そういうレールに乗るのが嫌で、未来を思い描くことができなかったんです。田舎の長男で、親からは『お前は跡取りなんだから』と言われていて、自由がない感じもすごく嫌でした。朝、長岡駅で高校行きのバスを待っていると友だちがやって来て、そのまま一緒に喫茶店に行って、駅前の丸大デパートでバイトして、パチンコに行って……。ついに停学になったんですよ。担任の先生が家に来て、親を交えて『これからどうすんだ』という話になり、母親が『この子は昔から絵が好きでした』と言ったら、先生がポロッと『じゃあ美大は?』と。確かに子どものころから図工や美術は好きだったけど、それを職業にしようなんて考えたこともなかった。でも、『美大、いいかも』と思いました」
「そのときはデザイナーとか、おしゃれな職業に就くことをイメージしていました。長岡には美大の予備校がなかったので、独学で鉛筆デッサンの練習をしたけど、最初の受験はダメで。新潟を出て新宿美術学院という予備校に入り、みんな上手でレベルが違うなと感じました。ところが、授業で水粘土の彫刻をやったら、それだけ抜群に成績が良かったんです。『粘土か、これは僕の武器になるな』と思いました。作っていて楽しかったし、これならいけるかもって」 「武蔵野美術短期大学の陶磁科に入ったのですが、予備校でやってた彫刻と大学で学ぶ工芸はまったく別物で、あんまり楽しくなかったんです。陶芸に魅力を感じてはいたけれど、ロクロをひいて器を作ることが自分に向いているのか、よくわからなくなって。陶磁科で器を作りつつ、彫刻科に行って彫刻も作り、すごく揺れてましたね。卒業制作のオブジェを作りながら、いろいろな作家の作品を知り、現場に入ってみたいという気持ちもあって、作家の下で修業することにしました」
熊本の作家・山本幸一さんに弟子入り
学びの多い修業生活2年間を経て
まだインターネットがなかった時代、陶芸の本を読み漁り、心惹かれる作品に出会った矢尾板さん。愛知、岡山、福岡、大分などの作家を訪ね歩き、熊本市で活動する陶芸家・山本幸一さんに師事することになった。
「団塊の世代で学生運動にも参加していた山本さんは、民藝の窯で修業したのちイタリアで学んだ器とオブジェの作家です。家から車で20分くらいの山の中にアトリエがあって、登山客が行くような山小屋を改造したものなんだけど、そのアトリエのロフトに住まわせてもらいました。山本さんの犬と一緒に2年間(笑)。薪割りをして、ごはんを作って、器を作って、なんでもやってましたよ。アトリエの近くに彫刻家が住んでいたりして、おもしろい場所でした」
「工芸に対して抱いていた疑問を師匠にぶつけたり、弟子がもう1人いたときは、各自がテーマを持ち寄って勉強会をしたり。僕のテーマは柳宗悦の民藝理論でした。大学の陶磁科では社会との接点がなく、陶芸でどう生活していけばいいのかわからなくて、それを知るには弟子入りだと思って飛び込みましたが、個人の作家がどう生きていくのか、山本さんの工房で勉強できたと感じます」修業を終えた矢尾板さんは東京に戻り、武蔵野美術大学陶磁研究科で教務補助のアルバイトをしながら制作を続けた。2年間の任期を終え、大学で出会った女性との結婚を機に長岡に帰郷して工房を構えたのは1995年、26歳のときだった。矢尾板さんのパートナーとなったのは、後に服飾作家となるヤオイタカスミさんだ。
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「いつか長岡に戻ろうと思っていたわけじゃないんだけど、親が『倉庫を貸すから、こっちでやったら?』と言ってくれて。所帯を持つことになったし、作家活動を始めたいなと。工房は構えたものの、最初はまったく食えませんから、ここで陶芸教室をやって、不登校の子が通うフリースクールでアルバイトもしていました。摂田屋の味噌星六さんがやっていたフリースクールです。味噌のことはよく知らなかったんだけど、洋画家の中川一政が手がけた看板の書がカッコいいなと思って、陶芸教室のチラシを置きに行ったら『先生をやってくれませんか』と言われて。週2回くらい教えて、バイト代で陶芸の材料を買っていました」
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中越地震の後に降りてきた「小屋」と
長岡の気候・風土との付き合い方
「1998年に『日本クラフト展』で優秀賞をもらって、東京の松屋銀座で作品が展示され、その後いろいろなオファーが来るようになりました。当時はアフリカの土器のようなオブジェとか、いまとは違うプリミティブな作風で、少しずつ注文も入るようになってきて。でも、量産できるような作り方でもないし、『このサイズで何個ね』と言われても大変でした。それを続けていけば安定したんだろうけど……」
週2回の陶芸教室は賑わっていたが、制作のほうが忙しくなってクローズし、いよいよ作家活動に専念することに。やがて二児の父となり、地道に活動していた矢尾板さんだったが、2004年10月にM6.8の中越地震が長岡を襲う。その体験が矢尾板さんの心身と制作に少なからぬ影響を与え、陶のオブジェ「小屋」シリーズ誕生のきっかけとなった。 「地震発生は夕方で、その日は展示で県外にいたのですが、夜には長岡に帰ることができました。家は一部損壊くらいで、工房のほうは、あの重い窯が20cmくらい動いていて、いろんなものがバラバラと落ちていて。停電が1週間くらい続いて、余震が怖いから、みんなで車中泊したり、玄関で寝泊まりしたり。片付けに1ヶ月くらいかかりました。それから少し経った冬に、この『小屋』が降りてきたというか、作らざるを得ない状況になったというか。メンタル的にもいろいろあったし、技法のこととか、タイミングが重なって出来上がった感じです。そういう経験はあんまりないですね」その後たくさんの「小屋」が生まれ、各地の展覧会で話題となった。この「小屋」から派生して生まれたのが「ハリボテ」シリーズである。
「小屋の後、中身が空っぽな立体を作ってみたくなって。小屋はちょっと写実的で情緒があるような感じだけど、作品にどうしてもつきまとう土っぽさ、泥臭さ、ぬくもりみたいなものから逃げたくて、ハリボテは情緒をなくして抽象的に。もっと言うとポップでアホっぽい(笑)。そういう作品を作りたくなったんです」突発的な地震だけでなく、冬は例年、大雪に見舞われることもある長岡。この気候や風土、環境は、制作にどんな影響を与えているのだろう。
「自分ではそんなにわからないけど、たくさん影響を受けてるでしょうね。親は兼業農家だったし、『自然には逆らえない、歯が立たない』という思想は僕の中にも埋め込まれているかもしれない。そういった『手に負えない自然の中で作る』という感じかな。長岡は住み慣れたところだし、静かでいいんだけど、冬の寒さがけっこう辛いので、たまに違う環境で制作してみたいなと思うことはありますよ」
環境が変わると、作品にどんな変化が現れるだろうか。実は矢尾板さんは、海外での制作経験もある。
デンマークでのレジデンス(滞在制作)と
進行中のプロジェクト「うつわラジオ」
2016年の7月から8月にかけて、静岡県伊豆の国市の「ギャラリーnoir/NOKTA(ノワール/ノクタ)」からのオファーを受けた矢尾板さんは、初めてデンマークに飛び、バルト海に浮かぶボーンホルム島に滞在した。1ヶ月にわたって現地で制作し、滞在中に何度か作品を発表する機会も得たという。
「この島には昔、ロイヤルコペンハーゲン(250年の歴史を誇る、世界的な陶磁器メーカー)の工場があったそうで、土や釉薬の原料など、焼き物の材料が豊富なんです。陶芸やガラス作家以外のアーティストもたくさんいて。美術のホイスコーレ(デンマーク発祥の伝統的な教育施設、フォルケホイスコーレ)があり、そこを卒業して関西で活動する日本の作家たちと一緒に行ったので、現地のことは彼女たちに聞きながら、のんびりと制作してました」 「材料は基本的に現地調達で、顔料も現地で買って。そのときの顔料がまだ残っていて、いまも使ってますよ。自由にやりたいことをやって楽しかったから、機会があればまたデンマークに行きたいし、ほかの場所でも制作してみたいです」長岡とはまったく異なる環境のデンマーク、ボーンホルム島。真夏でも穏やかな陽射しと開放的な空気に触れ、のびのびと制作に没頭できたせいか、帰国後の個展では見たことのない色鮮やかな作品が発表され、訪れたファンは矢尾板さんの新境地を目の当たりにした。
もうひとつ、ギャラリーのプロデュースで始動したユニークなプロジェクト「うつわラジオ」を紹介したい。神奈川県鎌倉市を拠点にいくつかのギャラリーを営むギャラリスト、祥見知生(しょうけん・ともお)さんと矢尾板さんは旧知の仲で、もう20年以上の付き合いになるという。そんな祥見さんが「うつわラジオ」というプロジェクト名を投げかけ、ふたりで少しずつ企画を温めて、2020年6月に「うつわ祥見KAMAKURA」で「うつわラジオ展」を初開催した。 「祥見さんから『うつわラジオ』という言葉を聞いて、よくわからなかったけど『やりましょう!』って。僕はラジオっ子だったからね(笑)。その後ふたりでイメージを膨らませて、僕が『妄想企画書』を作り、展示のほかにTシャツ、バッグなどのグッズ販売、ギャラリーライブ、テーマソングを作って、お客さんも交えて合唱団を結成して歌うとか(笑)。そんなアホな企画でした。ライブや合唱はコロナで実現できませんでしたが」一風変わった可笑しみのある作品も多く、手に取って眺めるだけで幸せな気持ちになれそうだ。
「祥見さんは音楽家の知人も多く、『うつわラジオ』以前にも、展示に合わせた高田漣さんのライブとか、小説家のいしいしんじさんがレコードをたくさん持ってきてDJをしてくれたこともありました。2022年11月の『うつわラジオAutumn』では、僕がドリップしたコーヒーをお客さんに出したりして。僕は器だけでなく、少しズレた活動をしているから、そういう部分を祥見さんがおもしろがって広げてくれていて、『展示だけでなく、違った要素を織り込んでいけたらいいよね』という話をしています」 祥見さんのギャラリーでは、2023年7月に伊豆高原の「SHOKEN IZU」で小屋の展示が、12月に「うつわ祥見KAMAKURA」で「うつわラジオのクリスマス」が予定されている。オンラインで販売中の作品もあるので、ぜひウェブサイトをチェックしてほしい。[参考リンク]
うつわラジオ
東京で気鋭のタコス店を営む
マルコ・ガルシアさんとの幸せな邂逅
矢尾板さんの記事を作るに当たり、どうしてもコメントをいただきたい人がいた。メキシコ北部のモンテレイ出身で、東京でタコス専門店を営むマルコ・ガルシアさんだ。上智大学留学中に日本の食文化に感銘を受け、「日本で究極のタコスを」と再来日。2018年9月にLos Tacos Azules(ロス・タコス・アスーレス、以下LTA)を三軒茶屋にオープンしたマルコさんは、開店に向けて器を探し求める中で矢尾板さんの作品と巡り合った。
「器を探して、いろんなところを見ていました。ギャラリーを回って、たくさんのアーティストの器を見たんですけど、なかなかぴんとくるものと出会えなかった。たまたま通りかかった展示で矢尾板さんの器を見たとき、『これだ!』って一目惚れでした」とマルコさん。
「とても可愛らしくてシンプルだけど、よく見るとたくさんのレイヤーがあって、この結果になるのに、きっと頭を使ってすごく考えたんだろうなって思いました。私たちの料理はカラフルで可愛く思われることが多くて、だけど本当はとても手間がかかっています。トルティーヤをトウモロコシから作り、入っている具材やサルサも全てが手作りで、よく見れば手間がかかっていることはわかると思います。矢尾板さんの器も、わかりやすいカッコよさや高級さを目指しているわけではなく、だからといって、可愛いからと品質を下げる必要もなくて、私たちの料理と似てるなと感じます」(マルコさん) 「みなさんがイメージするのは典型的な派手なメキシコかもしれないけど、メキシコにもさまざまな美意識があります。街の家の壁のカラフルなペンキが剥がれていても、それは時間が経っていることを示すから美しいのだ、とか。ピカピカの新品でもクールでもないけど、オリジナリティを感じたりします。シンプルだけど豊かな田舎の暮らしを思い出せるような料理をイメージして作っているから、矢尾板さんの器はピッタリだと思いました」(マルコさん)マルコさんは2022年11月に新しい店「Tacos bar」を恵比寿にオープンしたばかり。その店で使う器も矢尾板さんが手がけているそうだ。
「Tacos barはLTAのレベルアップだと考えていて、別のコンセプトとしてイメージして作ったわけではないです。矢尾板さんの器を使って3年、よく馴染んで、とても自然な組み合わせだと感じたから、LTAのバリエーションというか、進化だと思ってTacos barの器を考えたとき、別の人の器を使うことは想像できませんでした。私はコンセプチュアルな人間だと思っていて、“LTAには矢尾板さんの器”、そういう決まりがあるんです」(マルコさん)
お互いに通じ合うものを感じ、すっかり意気投合したふたり。マルコさんが呼びかけ、矢尾板さんとのコラボレーションで生まれた器がある。
「Jarritoはメキシコの伝統的なマグカップ。丸くて可愛くて愛嬌があって、メキシコの田舎を思い出させてくれる愛着がわきやすい形で、昔から好きなカップです。メキシコには伝統的な飲み物がたくさんあり、とても魅力的な文化だと思います。店を作ったときからそういうドリンクを紹介できたらいいなと決めていました。その魅力を伝えるためには、カップの力が必要だと思って、最初はメキシコから持ってきたものを使おうとしていました。でも、やっぱり統一感が大事だと思って。それに矢尾板さんが作った可愛いマグカップを見てみたかったので、お願いしてみました。このカップはLTAと矢尾板さんの初めてのコラボ商品として発売し、お客さまの反応は素晴らしかったです。たった1日で売り切れて『次の入荷はいつですか?』って聞かれます。長岡の店でも矢尾板さんの素敵な器が楽しめたらいいと思います。ただもう私たちのレストランのアイコンみたいになっているので、違う形の器とかを作ってもらったらおもしろそうですよね。矢尾板さん、なんでもできるし!」(マルコさん)手間を惜しまず、丁寧に作られたタコスとメキシコ料理の数々。矢尾板さんの器とのハーモニーを、ぜひマルコさんのお店で堪能してほしい。LTAでは、開店5周年を迎える9月末に矢尾板さんの展示も含めたイベントを計画しているそうだ。
[参考リンク]
矢尾板さんは王道を進む陶芸家ではない。「なぜか、そうなっちゃうんですよね」と笑うが、高校時代に一旦レールを外れて自分に問いかけてみたように、「こうあるべき」というステレオタイプを疑い、軽やかに越境しながら独自の道を切り拓く。自然に抗うことなく流れに身を委ねる、その鷹揚で寛容なスタンスが多くの人を惹きつける所以なのかもしれないし、きっとこれからも探究心の赴くまま、自分のペースで歩むのだろう。ときを経た器のように、深みと奥行きを増していく矢尾板さんの活動を追いかけていきたい。
過去から未来にベクトルを向け
自分の中の新しいものを見る
陶芸に出会って30年余、矢尾板さんはこの春に54歳になる。
「なにかちょっと、自分の中の新しいものを見たいなっていう気持ちが増えたというか。仕事をして楽しいと思うのは、もうそれしかないかな。過去のものも仕事だから作るけど、それだけじゃおもしろくないから、未来にベクトルを向けて作りたい。もうちょっと、見たことないようなものが作れたら、そっちのほうが楽しいよね。若いときより体力が落ちたのか、技巧的なものが増えて時間がかかるのか、そんなにたくさん作れなくなってきて。だからこそ、好きなことに絞って、1個1個しっかり向き合って作りたい。そんな気持ちが強くなっています」
最近は苦手なSNSを始めて、ぼちぼちと発信もしている矢尾板さん。ぜひインスタグラムで最新情報をチェックして、展示で実物を手に取り、眺めてみてほしい。そして、できれば矢尾板さんが在廊する日を狙って、気に入った作品について気軽に訊いてみてほしい。作家と対話をすることで、家に連れ帰った作品がよりいっそう愛おしいものになるだろうから。
Text: 松丸亜希子 / Photo: 池戸煕邦、松丸亜希子
●インフォメーション
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[2023年の展覧会]2/18(土)〜27(月)shirotae(香川県)、4/21(金)〜29(土)hakuto(東京都)、7/15(土)〜20(木)SHOKEN IZU(静岡県)、8/26(土)〜9/10(日)galleria PONTE(石川県)、10/27(金)〜 CIBONE CASE(東京都)、11/24(金)〜29(水)bonton.(兵庫県)、12/16(土)〜25(月)うつわラジオのクリスマス@うつわ祥見KAMAKURA(神奈川県)