【教えて!ご主人】著名人に愛された洋菓子店「ダンファン」の知られざる歴史
長岡の中心部近く、寺町としての歴史も長い渡里町。ここに、フランス菓子「ダンファン」はあります。住宅街に溶け込むようなさりげない構えのお店ですが、実は数々の「伝説」が囁かれる店でもあります。事情通いわく、かつて東京にお店を出していたらしい。しかも、松任谷由実さんお気に入りのお店だったらしい。ご主人は、ヨーロッパ各国を修行して回った人らしい……。いったい、どこまで本当なのか? 「昭和」から「平成」へ、時代とともに駆け抜けた、ご主人の奮闘の歴史を教えていただきました。
シェフになるつもりがパティシエに
ダンファンのご主人・坂田修次さんは1948年、与板生まれ。「ものを作って楽しむ仕事がしたい」と思っていた坂田さん、折しも、世は1964年の東京オリンピックを契機に第一次ホテルブームが巻き起こり、国際的なステータスを誇るホテルが次々建設されていた頃。「一流ホテルの料理人を目指そう」と、集団就職の一員として上京しました。
最初は、飛行機の機内食を作る会社に就職したものの、シェフを目指す若者は多く、競争の激しい世界。
「料理のほうは希望者がいっぱいでなかなか入れず、それでお菓子部門に回されました」
それが、パティシエの道に進む転機となりました。
1年後、20歳の坂田さんはパティシエ見習いとして「ホテルオークラ東京」の洋菓子部門に入り、ここでシェフ・パティシエとしてフランスから来日していたアンドレ・ルコント氏等に師事。一流の職人たちに学ぶ機会に恵まれます。
「あの頃、出会ったムースがうまくて。本当に口の中でとろけるような、まろやかで上品な味だった。あとはカスタードを使ったミルフィーユもおいしかったね」
東京で目標とするべき味と出会い、パティシエの修行に邁進していた坂田青年にチャンスが訪れたのは22歳のとき。ホテルオークラがオランダのアムステルダムに支店を出すこととなり、150人もの従業員が出向することになりました。そのメンバーに選ばれたのです。
華やかさと厳しさ。
ヨーロッパでの武者修行時代
洋菓子の本場ヨーロッパに渡り、アムステルダム支店の開業を支えた坂田さん。華やかな世界の裏方として活躍し、ある時は、なんと昭和天皇・皇后両陛下の欧州外遊の際、西ドイツの大使公邸での晩餐会のデザートを手伝ったこともありました。メロン・ジブレ、ピスタチオのアイスクリーム、シェリー酒のムースグラッセ……。今もメニューのひとつひとつまで言える、忘れられない思い出です。
次第に「もっと洋菓子を深く学びたい」という気持ちが膨らんできた坂田青年。知人の紹介で、英国の五つ星ホテル「ザ・サボイホテル」での修行が叶うことになりました。
五つ星ホテルでの大失敗と挽回
ロンドンのサボイホテルは、イギリスではエリザベス女王陛下御用達、貴族以上の上流階級でなければ入れない一流ホテル。フランス菓子を世界に広めた偉大なパティシエ、オーギュスト・エスコフィエの教えを受け継ぐ厨房で、26歳で働くこととなった坂田さん。アムステルダムと違い、今度は周りに日本人の知り合いはいません。言葉の通じない世界で孤軍奮闘していた坂田青年。しかし、ここで大失敗を犯してしまいます。
「総支配人がつくテーブルにデザートを出すとき、本来なら氷を敷くべき盛り付けを怠ってしまったのです。次の日すぐに総支配人から料理長にクレームがいき、大目玉。一回の失敗で周囲に無視され、挨拶しても会話もしてくれなくなってしまいました」
坂田青年は職場で信頼を失い、周りの職人たちに相手にされなくなってしまったのです。
「挽回のチャンスが巡ってきたのが、親方がバカンス、代理の兄弟子も怪我で休んだとき。自分に宴会の責任者の立場が回ってきたんです。それはもう、気合いを入れて頑張りました。その宴会が非常によかった、ということが料理長の耳に入ったのです。そうしたら次の日から、うってかわってハグしてくる。厳しくも温かみのある、仕事場でした」
仕事の失敗を仕事で挽回した坂田さんは、腕を上げ、そして、サボイホテルから「このホテルで仕事をした一流の職人である」というお墨付きを得るにいたったのです。このお墨付きがあれば、世界中のどこのホテルに行っても仕事を得ることができる、そんな価値ある証明書でした。
ロンドンでの修業時代、坂田さんの楽しみは、サボイホテル近くのハイドパークでの散策でした。「ロンドンのハイドパークには15時ごろになるとオーケストラが来て、音楽を奏でます。あるとき、私を見て、日本の曲を演奏してくれたのです。感動してしまいますよね」。日本の曲が身に沁みました。ヨーロッパに渡って、無我夢中で仕事をすること4~5年。坂田青年には望郷の念が募り始めていました。
いよいよ日本に帰国するときがやってきたのです。
帰国。そして開店
はじめ古巣であるホテルオークラ東京に戻った坂田さんは、その時期に長岡生まれの奥様と結婚。その後、グランメゾンのレストランである「レカン」が銀座に新たに開店した「パティスリー・ド・レカン」の製菓長として引き抜かれ、フランス製菓組合の会長でもある有名パティシエ、ジャン・ミエ氏と1年半仕事をします。
「いずれは自分も事業をしてみたい」。その思いが叶って、いよいよ自分の店を持つことに。昭和58年12月10日。高級住宅地の広がる世田谷区玉川に「ダンファン」という小さな洋菓子店を開いたのです。坂田さん、35歳のときでした。
バブルの荒波にもまれる
二子玉川の「ダンファン」
「ダンファン」とはフランス語で「こども」の意味。産声を上げたばかりの自分の店を「赤ちゃん」に見立て、坂田さんが愛情込めて付けた店名です。
坂田さんが最も好きで、最も得意とするのが、カスタードクリームを使ったお菓子。二子玉川の「ダンファン」は、坂田さんの心のこもったシュークリームやクレープが美味しい店として評判になり、雑誌にもたびたび紹介されるようになります。高級住宅地が近いこともあって著名人のお客様も数多く訪れ、松任谷由実さんや俳優の高島ファミリーにお菓子を届けたりすることもあったそう。値段も良心的に抑え、地域に親しまれる店となったのです。
しかし、時代はバブルの真っただ中。不動産価格は年々高騰し、当然、人気エリアである二子玉川の地価もどんどん上がっていきました。どんなにお菓子が売れても、働く以上に上がる地代。店を持ち続けることの限界がありました。
長岡出身の奥様、3人の子どもたち、家族5人の将来を考えたとき、坂田さんは「地元に帰って、長岡で店を開こう」と決断しました。
与板には兄夫婦がいる、東京にくらべたら物価も安いし、食べ物もおいしい。
「東京を去るとき、松任谷由実さんがラジオのオールナイトニッポンで“自分の好きだったお店が新潟の長岡に移る”ということをリスナーに話していたらしい、と人づてに聞いたんですよ。本当にうれしかった」、と坂田さんは語ります。
平成4年。こうして華々しい経歴を積んだ一人のパティシエは長岡に戻り、「ダンファン」は再スタートをきったのです。
伝統的な技法を大切にしたケーキたち
坂田さんの愛する味は、カスタードクリームのお菓子や、アーモンドクリームのタルト。ホテルオークラのルコント氏、パティスリー・ド・レカンのジャン・ミエ氏等から学んだ、お酒をたっぷり使ったケーキや、その繊細な味わいが衝撃的だったと語るムース……。坂田さんは今でも、修行で学んだ青春時代のケーキの味を大切にしています。オリジナルケーキや流行のケーキも作りますが、あくまで伝統的な技法は崩さず、丁寧に作られた本物志向のお菓子がベース。だから「ダンファン」のお菓子は、いつどれを食べても、しっかり丁寧な味がします。
シュークリームはいつも出来立てを味わってほしいから、注文を受けてからクリームを詰めるのだそうです。ご自慢の味を取材班もいただきました。軽いシュー皮からでてくる、たっぷりのクリーム。卵の味が濃厚でバニラが香り、重すぎず、軽すぎず、口の中でとろけるよう。
そして、もう一つの隠れたこだわりの品が「フリアン」という焼菓子。見た目は地味ですが、アーモンドパウダーをたっぷり使った贅沢な配合のお菓子です。アーモンドのコク、バターの香り、しっかり焼き込まれて出る香ばしさ。その上質な美味しさの虜になりました。坂田さんがヨーロッパで学んだ伝統のおいしさ、何百年と伝わってきた変わらないおいしさ、坂田さんの思いが、小さな焼菓子に結晶しているような気がしました。
今は、後を継ぐことになったご長男とともに厨房に立っている坂田さん。学んだ技術を継承し、長岡に本場の洋菓子のおいしさを伝え続けてくれています。
フランス菓子 ダンファン
[住所]新潟県長岡市渡里町2-1
[電話]0258-39-4208
[営業時間]9:00~19:00
[定休日]不定休
[駐車場]なし