長岡市が発信する平和への想いとは――ホノルルを訪問した女子学生インタビュー
戦争の歴史について
向き合おうとする決心
――最初に、おふたりが「平和の使者」としてホノルルに行こうと思ったきっかけは何だったのでしょう?
知野「小学校・中学校でずっと『平和学習』をしてきました。でも先生から話を聞いたり、本を読んだりするだけでは、自分の中に入ってくるものが薄っぺらいように感じられたんです。高校生になったら、戦争や平和について、もっと自分の目で見て、はっきりとした感想を持てるようになりたい、時間ができたらもっと学びたい、そう思っているときに、このプログラムの応募に出会いました」
大関「応募の理由はたくさんあったのですが……、実は自分の誕生日が8月6日で広島の原爆の日なんです。私も小学校のときから『平和教育』を受けていて、空襲の語り部の方や、近所の戦争体験をされた方にお話しをうかがったりしてきました。でも子どもって時々残酷ですよね。そうした活動の中で、私が8月6日生まれだからって、『(原爆で亡くなった人の)生まれ変わりだ』みたいな、からかわれ方をしたんです。それで戦争のことに触れるのはすごく嫌になってしまった。歴史よりは地理を選択するくらい、戦争の話題を避けてきました。
ですが、アメリカの大学に留学して、スクールカウンセラーの方から、アメリカの退役兵が何十年たってもPTSDで苦しんでいたりする現状を聞いたりするうちに、戦争はどちらか一方が悪いという話ではないと気付きました。また、韓国の学生と竹島問題について話したとき、自分の知識がないときちんと話ができないんだ、と痛感したこともあったりして、自分も戦争や歴史と向き合わなくちゃ、と思ったんです」
長岡の戦災資料館や
五十六記念館での学び
――事前に長岡の戦争の歴史や、太平洋戦争について学んでいらっしゃいますね。五十六記念館や戦災資料館の展示をご覧になってどんなことを感じましたか?
知野「山本五十六についてちゃんと勉強する前は、日本の戦争の先駆者みたいな勝手なイメージをもっていたのですが、五十六が指を失うことになった撃たれたときの服や、おじけず堂々とした姿の肖像画を見たり、長岡に帰ってきたときは、勲章やバッジなどを全部はずして普通の一人の男として過ごしていたという話を知ったりして、勝手なイメージをもっていたんだな、と改めて思いました」
大関「戦災資料館の3階に空襲でお亡くなりになった方の写真があるのですが、その部屋に入った瞬間、雰囲気が違うと感じました。実際に亡くなった方の写真を見ると、全然関係のない市民がいつも犠牲になるというのが伝わってきます。
五十六記念館でも撃墜された搭乗機の翼を見て、フライト前から、五十六がどの航路で飛ぶかというのは敵軍に解読されていたにも関わらず、当日、変更を何もせずに飛んでいった五十六の気持ちを考えると、すごい覚悟だと思いました」
ホノルルの記念式典での葛藤
――ホノルルの真珠湾追悼記念式典では、どんなことが印象に残りましたか?
大関「前日に『黒焦げの水筒』(※)の慰霊祭に参加させていただいたのですが、非常に厳かな式典で、事前に『黒焦げの水筒』の本も読んでいたので、意味を重く受け止められましたし、共感できるスピーチが多かったです」
大関「ですが、翌日の真珠湾追悼記念式典に関しては『居心地悪い』のひとことでした。自分の思う以上に、力強い、人を巻き込むようなスピーチがありました。まわりの人は拍手喝采で立ち上がるなか、一人の個人として行動すべきなのか、長岡の代表としてふるまうべきなのか、平和の使者としてふるまうべきなのか、いろいろ葛藤があったり」
知野「ここで拍手しなかったら会場に失礼なのか、拍手したら長岡に失礼なのか、そういう感じがありましたよね。どっちがいいのか、と……」
大関「スピーチに影響されて拍手したり立ち上がったり、その場の一員になれる自分もいたのですが、一方で、長岡の代表として来ている自分としては、それこそ、戦災資料館で見た死者の顔も思い浮かんできて、アメリカをたたえる気分になれなかったというか……。パールハーバーで亡くなった父の写真を服に印刷して着て『英雄』と言われたときに立ち上がったお子さんやお孫さんもいらっしゃって……。その場でよぎる思いが複雑すぎました」
「平和学習って何?」と聞かれて
――ホノルルのカメハメハ・ハイスクールの学生たちと交流したり、青少年平和シンポジウムに参加されていかがでしたか?
知野「現地の学生との会話が印象に残っています。自分の生まれた長岡での学びが特別、という認識は今まで一回もなかったのですが、『平和学習って何?』ということを聞かれて、はっとしました。ホノルルでは、戦争という言葉は知っているけれど、何があったかは知らない、という人が高校生も大学生も多くて、自分たちが小学校のときから歴史を調べて胸をいためる経験をしてきたことは『あたりまえ』じゃないんだな、と。だからこそ、同年代の人たちにも、もっと歴史のことを知ってほしいと思います」
未来に向けた活動
――ホノルルの学生と一緒に作った共同宣言の最後に、「自分の得意なこと、好きなことを活かして恒久平和を実現するためにそれぞれが活動し続けることを誓います」とあります。お二人は、この先、どんな活動をしたいと思っていますか?
知野「私はスポーツが好きで、東京オリンピック開催の2020年には、21歳の社会人になっています。外国人が日本にたくさん来てくれて、日本が注目されているときに、スポーツのことだけでなく、日本にはこういう歴史があって、戦争があって、今こういう平和活動をしているよ、っていうことを幅広く伝えられるような大人になりたいと思います」
大関「(知野さんは)ホノルルに行く前と行ったあとでは変わったものね。帰りは将来の夢が決まったものね。
私は、アメリカの大学で、ツーリズム&ホスピタリティー マネジメントを学んでいます。戦争の史跡は本来、観光地ではなく、外部の人の立ち入りが禁止されていた時期もある。でもその一方で史跡をたくさんの人に巡って歴史について考えてもらいたい。そのためにはその場所にふさわしい雰囲気を作る必要があります。どこでも写真を撮って、どこにでも入って行って、というのが当たり前な風潮がありますが、『ここってそういう場所じゃないんだよ』ということを訪れる人に正しく知ってもらいたい。
そう考えたときに思いついたのが、長岡市の観光コンベンション協会の観光ボランティアガイドと観光通訳ボランティアに登録すれば、国内外の人に、自分がパールハーバーで感じたことも、長岡花火がただのお祭りイベントでなく慰霊の花火だよ、というのを伝えることができる。将来的に長岡市のそうした場の『雰囲気作り』に参加できる人になりたいです」
「和解」を進めるために大切なこと
知野さん、大関さんのおふたりは、ほかの10名の仲間とともに、『黒焦げの水筒』の本を読み、「平和・友好・和解」をテーマにしたエッセイをまとめ、発表してきました。「和解」をテーマにした一文にはこう書かれています。
「同じ『和解』でもそれが共通認識ではない可能性があるから、ひとつの『和解』を強要してはならない、慎重に進めることが大切だ」。
スピード感が求められ、拙速に、安易に、結論に飛びつきがちな現代社会において、学生たちは重要なことに気づいています。「国同士の和解が、すべての人の和解にあてはまるだろうか、違うよね、と考えさせられました」と大関さん。
日米の国同士の和解は大きな一歩ですが、すべての人の和解のために、歴史への学びと、平和交流、そして若い世代へのリレーを続けていかなければなりません。
メッセージオブピース
長岡市が発信する平和への想いとは
長岡まつり花火大会では、毎年、8月1日の午後10時30分、空襲が始まった時刻に「白菊」という花火を打ち上げます。長岡の花火師・嘉瀬誠次さんが作り上げた、白一色の大輪の花には、死者に手向ける供花の意味が込められています。
2015年の8月15・16日、終戦から70年を記念し、真珠湾で両国の戦争犠牲者の慰霊と世界の恒久平和を祈って「長岡花火」が打ち上げられました。死者を弔い、平和を祈り、約束する思いが、ホノルルの空を彩ったのです。
「メッセージ オブ ピース」と名付けられた、長岡とホノルルの平和への願いを託したプロジェクトムービーもぜひご覧ください。
平和を願い、
未来を想う花火を
世界中であげていきたい
これが長岡市の発信する平和への想いです。
ふたつの姉妹都市の平和を願った活動は、これからも続いていきます。
Text & Photos : Chiharu Kawauchi