スリランカ、フィリピン、ロシア…海外から長岡へ。3人の女性の移住物語
2019/4/27
深刻な人手不足が進む中、日本政府は外国からの働き手を積極的に受け入れるべく、門戸の拡大を試みようとしている。だが、すでに日本で働いている人たちの現状をめぐる課題は多く、まだまだ議論の余地は大きい。外国からやってきた人にとって、この国はどのように映っているのだろうか。新潟県長岡市で暮らす3人の外国人女性にインタビューを試みた。
スリランカのキャンディから長岡へ。
斎木ナヤニさんのストーリー
1人目は、スリランカとインド発祥の伝統医学「アーユルヴェーダ」に基づいたスリランカ家庭料理の店「あ〜ゆぼ〜わん」を切り盛りする斎木ナヤニさん。店舗は、JR長岡駅から車で10分ほどの場所にある。
「出身はキャンディという昔の都で、世界遺産がある街です。まだ学生だったころ、友人の結婚式で日本からやってきた男性と出会い、交際が始まって長岡で結婚したんです。若かったけれど、とにかく外に出たい!そんな気持ちでした」
もともと日本に憧れがあったというナヤニさん。そのきっかけは?
「ドラマの『おしん』ですね。スリランカでも放送されて、すごく人気があって。辛いことを乗り越えて幸せになる女性の物語と、ひな祭り、雪、桜。それが最初の日本の印象。それから、中学校の英語の教科書に日本のことが書いてあり、女性たちはとても忙しくて、トイレでも折り紙をしているくらい時間を大切にしてるって。プライドを持ち、男性を立てる大和撫子に憧れました。こんな女性に会ってみたいと思い、日本に来ましたが、当時“ガングロ”が流行ってて『なんなの、これ〜!』ってショックを受けました(笑)」
日本にやってきて言葉と食べ物の壁を感じたというが、どう乗り越えていったのだろう。
「覚えてきた言葉は5つだけ。『こんにちは』『さようなら』『ありがとう』『ごめんなさい』『おなかすいた』。これだけわかればなんとかなると思って。両親の反対を押し切って来たので、なにがあっても私はここで生きていく!という意地と若さがありました(笑)。いまだったら、もっといろいろ考えたと思いますが。
言葉は独学です。家の前の公園で遊んでいる小学生に英語で話しかけて、私が英語を教えて、子供たちが日本語を教えてくれました。子供を授かったとき、病院で英語が通じなくて。お医者さんも話せないから、市民センターでボランティアをしている女性に通訳をしてもらいました」
「最初は食べ物が口に合わなかったですね。味噌や醤油の独特の匂いも苦手だったから、お好み焼きと果物ばっかり食べてました。少しずつ慣れて、おいしいと思うようになり、いまでは和食が大好き。最初は食べられなかった納豆やお刺身も食べられるようになりました」
若くして結婚し、2児の母となったナヤニさん。店をオープンする前は、どのように過ごしていたのだろう。
「学校関連の仕事をしていたのですが、NOと言えずに仕事をどんどん任されてオーバーワークになり、家に持ち帰ったりしていて。ストレスで子供や主人に当たったりして、ついに爆発したんです。自分なんて生きてる価値がないと、うつ病のような状態だったとき、母から『帰ってきなさい』と電話があり、『もう日本に戻らないかも』と思いながらスリランカに帰りました」
故郷で人生を見つめ直したナヤニさん。幼いころから親しんできたアーユルヴェーダの力を感じ、この時間が転機となった。
「ストレスから離れて自然と触れ合って、1ヶ月ほどで劇的に変わりました。自然と人間は一体で、ゆとりがないとダメなのだと気付き、そして長岡に帰ろうと思ったんです。
だけど、しばらく外に出たくなくて、家に友達が遊びに来てくれました。料理を出しておもてなしをすると、『お店やったら?』と言ってくれて。友達がつながって、いろいろな人たちに助けられ、最初はイベント的に料理を作っていたのですが、月1が週1になり、『いつでも食べられるようにお店を出してほしい』という声に背中を押されて、2年前にここをオープンしました」
「主人も調理師免許を持っているので、いつか一緒に、いま住んでいる三島という地域でお店をやれたらと思っています。地場野菜を使った料理を提供して、アーユルヴェーダのトータルケアでリラックスできるサロンのような場所を作りたい。時間が許す限り通訳ボランティアの仕事もしています。長岡が、特に20年暮らしている三島が大好き。すっかりここが『地元』という感じです」
この6月にはスリランカのパワースポットを巡り、本場でアーユルヴェーダを体験するツアーを実施する。「どん底に落ちても、人生を諦めなければ必ず起き上がれる。そんなメッセージをみなさんに伝えたいし、いつかスリランカにも恩返ししたい。日本にいながらスリランカのサポートができたらいいですね」
●Information
スリランカアーユルヴェーダ家庭料理店「あ〜ゆぼ〜わん」
[住所]新潟県長岡市北山3-34-1
[電話番号]070-4447-2455
[営業時間]11:30〜15:00
[定休日]火曜 ※不定休あり
[Facebook]https://www.facebook.com/Aayubowan/
フィリピンのマニラから長岡へ。
ジュビィ・アベシアさんのストーリー
2人目は、企業や児童館で英語を教えるほか、NPO法人PETJ(Philippine Education and Technology in Japan)代表として活動するジュビィ・アベシアさん。どんな経緯で日本にやって来たのだろう。
「マニラでは夫と一緒に旅行代理店を経営しながら、英語学校で日本人や韓国人に英語を教えていました。日本に関心が湧いて、人間が生まれ持つ可能性を最大限引き出すために、最も吸収力の高い幼児期からの取り組みが重要という、教育研究家の七田眞さんの幼児教育『七田式』に興味を持ち、奨学金を得て日本にやってきたのが24年前です」
ジュビィさんは、日本のどんなところに興味を持ったのだろう。
「洗練された文化、それから健康的な生活。私がマニラでポテトチップやサンドイッチを食べていたとき、日本ではヘルシーなものを食べていると知って。それが好奇心を掻き立てられた理由のひとつでもありました。なんでそんなに健康的なんだろうって。
うちは特別に裕福でもなかったけれど、両親が共働きで子供が4人いたからメイドさんを雇っていました。だけど日本では、掃除、洗濯、炊事と家事をぜんぶやらないといけない。ずいぶん違う文化だなと感じました」
フィリピン時代から教育に関わり続けるジュビィさん。長岡に来る前は、どこで暮らしていたのだろうか。
「東京は2年間。七田式のメソッドを学びながら、幼児のための外国語教室の設立に携わりました。日本人と外国人の混合チームで働き、私はずっと英語を使ってきたので、いまも日本語は片言(笑)。普通は日本で暮らすためにまず日本語を学ばないといけませんが、私はその必要がなかったし、ちゃんと学ぼうという気持ちにもならなくて。
その後は福島県に移り、福島、郡山、小名浜に七田式の教室を開設しました。それから栃木へ。長岡は6年目で、自動車のメーターなどを作っているメーカーで英語を教えています。社員は欧米やアジア各国に出張しますから、ファイナンス、マーケティング、コミュニケーションなど全般的にね」
長岡の街や人については、率直にどう感じているのだろう。
「街はピースフルで、とても清潔。そして市役所が素晴らしい!日本人の友達が遊びに来ても、『City Hall is awesome!(市役所、カッコイイ)』って、みんな言うわ。冬はカオスだけど(笑)。長岡の人たちはとても温かいと感じます。『おもてなし』というのかな、warm hospitalityがあるわね。道に迷ったら誰かが助けてくれるし、タクシーの運転手さんや高校生もね。英語で説明しようと努力してくれていて、とっても助かる」
「リクエストとしては、ショッピングモール、映画館やボーリングとか、とりわけ冬に屋内で遊べるところがもっとあればと思います。観光では、茶道は外国人に人気があるし、京都みたいに着物を着て街を歩けたらいいかも。それから、やはり言葉の壁ね。市役所に英語が話せるスタッフが少ないので、いつもGoogle翻訳を使っています。レストランではメニューを指差せばいいし、基本的な会話はOKだけど、病院とか銀行とか、子供たちの学校とか教習所とかが問題。でも、やっと娘が成長して通訳をしてくれるようになって嬉しいです」
最後に、PETJの活動について聞いてみた。
「NPO設立の目的はフィリピンと日本の文化交流と教育支援。日本在住フィリピン人の自立的な社会をつくろうとしています。『市民活動フェスタ』などイベントで英語を教えたり、茶道や着物の着付けをやってみたり。フィリピン人は英語ネイティブではないとみなされていて、日本では英語教師の仕事はオープンになっていないのですが、機会が得られるように努力をしていて、大学の先生たちもサポートしてくれています。
私の両親は異なる地域出身だったので家では英語を使おうと決めていたから、私の母語は英語なんです。私も子供たちに『家では日本語はダメよ』と。私が話せないし、家では私は負けてるの(笑)。うちは基本的に英語で、フィリピンのドラマを見るから、たまにタガログ語も出てきますね。いまはテレビ、ラジオ、インターネットなどメディアが助けてくれます。みなさんも英検やTOEICで慌てなくて済むように、幼いときから英語に触れておくといいと思いますよ。
文化を伝えることは平和を伝えること。日本文化を世界中に広めたいです。フィリピン人の先生たちには、掃除も健康的な食事も忍耐強さもぜんぶ教えます。PETJの運営やイベントを手伝ってくれるボランティアを随時募集しているので、よかったら参加してくださいね」
●Information
NPO法人PETJ(Philippine Education and Technology in Japan)
[問い合わせ]petjinnovation@yahoo.com
ロシアのハバロフスクから長岡へ。
小林アンナさんのストーリー
最後は長岡市の自然豊かな山間部、山古志地域で暮らす小林アンナさん。3月上旬、まだ雪がたっぷり残る山古志のデイサービスセンター「なごみ苑」へ向かった。
アンナさんは2年前に山古志に引っ越してきた。ここに至る経緯は、どのようなものだったのだろうか。
「新潟で暮らす日本人と出会い、結婚してロシアから移住しました。最初は新潟市で暮らしていて、それから長岡市内のニュータウンに引っ越して。山古志にロシア人の友人が住んでいて遊びに来るうちに、ここが好きになって移住したんです」
日本語は来日してから本を買い、独学でマスターした。デイサービスを行う施設で介護の仕事をして2年。日々の仕事についてどう感じているだろう。
「毎日がすごく楽しい。ここは90歳を超えている人が多いんだけど、お年寄りは子供と似ていて可愛くて、できないことを助けてあげたり、お世話してあげたりしたくなりますよね。
利用者の数によってシフトが決まるから、週に2日勤務のこともあるけれど、仕事はだいたい月12日から15日くらい。多いときは月20日くらいになることも。私が知らないことぜんぶ、ほかのスタッフさんが親切に教えてくれて、とても優しくしてもらっています」
アンナさんの評判を利用者の男性(85歳)に聞いてみた。
「優しくてね、思いやりがある。すごく評判がいいですよ。アンナさんがいないと、なんだか張り合いがないって、みんな言ってますよ。一生懸命に日本語を勉強して字も書けるようになったし、若くて元気があってね。これはお世辞じゃないよ。私は正直者だからね(笑)」
アンナさんは小学生と幼児の母でもある。生活するうえでは都市部のほうが利便性が高いようにも思えるが、山古志のどんなところが気に入っているだろう。
「風景がきれいで、自然がいっぱい。うちの子供たちも毎日とっても楽しそうですよ。山古志の人たちは、みんなとても優しいしね。それに、ごはんがおいしい。和食はなんでも食べます。ミョウガはちょっと苦手だけど、納豆は私も子供も大好き。山古志の地場野菜の、神楽南蛮も大好き。神楽南蛮味噌を作ってごはんの上に乗っけたり、お弁当に入れたり」
料理好きなアンナさんは畑仕事もしていて、畑で育てている野菜を料理に使うそうだ。
「ビーツ、ハーブ、ディル、キュウリ、トマト、ピーマン、ナス、ラディッシュ、ジャガイモなどを少しずつ作っています。うちの子供は小さいときから畑のキュウリやトマトを食べてるから、スーパーで買うものは『おいしくない』って。野菜の作り方も山古志の人たちが教えてくれます」
「『火まつり』のほかに、牛の角突きでも、5月のシーズンが始まるときと11月に終わるときに、山古志支所でロシア料理のブースを出します。メニューはボルシチ、ピロシキとか、クレープみたいなブリンチキとか。遅く来ると売り切れるから、早めに来てぜひ食べてください」
「いつかロシア料理店をやったら」と期待している友人もいるのだとか。「まずは子育てを中心にがんばって、畑仕事や料理も楽しみたいです」とアンナさんは笑う。
ナヤニさん、ジュビィさん、アンナさん。長岡で暮らすことになった動機や経緯は三者三様だが、「長岡の人たちは優しい」と口々に言う。とはいえ、市役所や病院など公的な機関ですら英語がまともに通じないなど、困難な状況をどうにか乗り越えて到達した現在地までの道のりは平坦ではなかっただろう。
生まれ育った場所でずっと暮らしている人、離れていた故郷にUターンした人、ほかの街から移住した人、そして海を越えてやってきた人。
多様な文化を持つ人が混じり合うことでコミュニティに活気が生まれる。温かい眼差しを持ち、新しくやってきた人たちを迎えるために、行政サービスの拡充はもちろん、個人レベルでも各自がやれることを模索するタイミングにきている。
Text: Akiko Matsumaru
Photos: Hirokuni Iketo