厳しい時代を生きた盲目の女たちの、声なき声を聞け。長岡に今も響く「瞽女」の歌声を追って
現在も歌い継がれる「瞽女唄」
保存会の公演にお邪魔した
2023年5月21日、アトリウム長岡(長岡市弓町)で葛の葉会による「春の瞽女唄公演」が行われた。出演は室橋光枝さん、横川恵子さん、小方理恵さんという「葛の葉会」の3人だ。
瞽女について少し説明しておこう。瞽女とは3、4人が一組となって各地を旅する芸能集団である。晴眼者もしくは弱視の人物が「手引き」と呼ばれる先導役となり、中越地方のみならず、東北や関東まで足を伸ばした。瞽女たちは「瞽女宿」と呼ばれる家を訪れ、集落の人々を相手に夜が更けるまで芸を披露し、その対価として日銭を稼いだ。娯楽の少ない時代、人々はプロの芸能集団である瞽女たちがやってくるのを楽しみにしていたという。
瞽女は集落に入ると、家々を回り、門付け唄を玄関前で唄った。「今夜、いつもの瞽女宿で待ってますよ」という合図となる唄だ。歌われる唄は決まっておらず、時代ごとの流行り唄が唄われた。この日、葛の葉会は門付け唄の一種として鹿児島の代表的な民謡である「鹿児島おはら節」を披露したが、こうした民謡が歌われることもあったようだ。
続いて披露されたのが、この日のメインとなる「祭文(さいもん)松坂 八百屋お七」。「祭文松坂」とは一定の旋律に乗せて長い物語を語る口承文芸で、一段が25分前後、長いものだと十段もの長さがある。「八百屋お七」は恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる江戸時代前期の娘を主題とするもので、歌舞伎や文楽でも取り上げられてきた有名なテーマだ。限られた時間のなかでは五段すべてを演じることはできないため、この日は「忍びの段」という一段のみが演じられた。
現代の感覚からすると、「祭文松坂」で語られるストーリーは決してわかりやすいものではない。ただし、随所に言葉遊びの感覚がみられるのが楽しい。たとえば、さまざまな虫の名前を織り込んだ「虫づくし」。あるいは数を織り込んだ「数づくし」。または野菜を連呼する「野菜づくし」。テンポよく言葉を重ね合わせていくあたりには、ラップに近い感覚も見え隠れする。
最後に演じられたのが「瞽女万歳(まんざい)」。万歳とは現在の漫才の原型とされる民俗芸能の一種で、瞽女万歳は江戸で流行した三河万歳の系統を引く。太夫と才蔵という2人によって繰り広げられる滑稽でリズミカルなやり取りは、漫才やコントにも近い。「盲目の旅芸人」と聞くとどこかうら寂しいイメージを持ちかねないが、「祭文松坂」にせよ「瞽女万歳」にせよ、どこか明るく、生き生きとした魅力に満ち溢れていることが印象的だった。
苦難や差別に耐えながら歌い続けた
瞽女たちの「生きる力」を伝えたい
公演の翌日、葛の葉会の室橋光枝さんと事務局の鈴木宏政さんにお話を伺った。冒頭にも書いたように、葛の葉会は1995(平成7)年、瞽女とのゆかりが深い唯敬寺(えいきょうじ、後述)で始まった瞽女唄教室を原点としている。
当時指導を行ったのは、瞽女唄伝承者の竹下玲子さんだ。竹下さんは1977(昭和52)年に東京で開催された公演で、「最後の瞽女」と呼ばれた伝説の歌い手・小林ハルの唄を体験。衝撃を受けると、紆余曲折を経てハルに弟子入りし、瞽女唄の修行と継承活動に励んだ。1991(平成3)年には竹下さんの活動を後援するとともに瞽女唄の普及と地方文化の発信を目的とする「瞽女唄ネットワーク」が設立。こうした下地があって、葛の葉会は設立されたのだ。
唯敬寺で瞽女唄教室が始まった当初からのメンバーであり、長岡出身の室橋さんは、当時のことをこう回想する。
室橋さん「竹下玲子さんは『瞽女唄は越後のものだから、越後の方に返したい』という思いを持っていたみたいで、瞽女唄の教室を開くことになったんですね。そのとき生徒の募集があって、私も応募しました。瞽女唄のことは何も知らなかったけど、邦楽を少しやっていたこともあって関心があったんですよ」
瞽女唄教室発足当初のメンバーは子供を含む8人。そのなかには劇団員や音楽教師もいた。室橋さんいわく、瞽女唄の発声に関心があって教室にやってくる人もいたのだという。
室橋さん「竹下さんは国立劇場の舞台で小林ハルさんを観たのが瞽女唄に関心を持ったきっかけだったそうなんですが、マイクも使わずにすごい声を出していたというんですね。私の母は瞽女さんが自宅にやってきたことを記憶していて、その声を覚えていると言っていました。ありったけの声で歌っていた、と」
小林ハルには、現在も語り継がれている訓練方法がある。冬になると、毎朝・夜に信濃川の河原に出かけ、土手で発声練習を重ねていたというのだ。瞽女の世界では、声が出ない状態でもなお練習を続けることで強い声が得られるとされた。ハルはそうした訓練を幼いころから続けていたという。
その唄声は晩年の録音がCD『最後の瞽女 小林ハル 96歳の絶唱』にまとめられているほか、『瞽女うた 長岡瞽女篇』には昭和30年代から50年代初頭におけるさまざまな長岡瞽女の声が収められている。いずれも高齢になってからの録音ではあるものの、その声はまさに大地から迫り上がってくるような力強さに満ち溢れている。瞽女唄ネットワーク事務局の鈴木宏政さんはこう話す。
鈴木さん「瞽女さんたちは師匠から『決して色気を出すな』と教えられたそうです。確かに彼女たちの唄は情感たっぷりに表現したようなものではないですよね。私の解釈では、そのぶん聴く人たちが想像を巡らせることができるような声だと思います。瞽女は旅をしながら歌い、糧を得て暮らしていたわけですが、あくまでも組織として動いていた。個人的感情を押し殺し、唄を提供していたんだと思います」
ちなみに、室橋さんと鈴木さんのふたりは農村を行き交う瞽女たちを実際に見ていたわけではない。鈴木さんが「瞽女さんの姿を覚えているのは今の90代ぐらいの世代までだと思います」と話すように、当時の記憶は多くの長岡市民のなかでも忘れ去られつつあるのだ。
室橋さん「母が言うには、うちに来られたことはあるそうなんですけど、私は一切覚えていない。テレビもラジオもない時代、みんな瞽女さんが来るのが楽しみだったようですよね。農村の人たちにしてみると、街の流行を持ってきてくれる瞽女さんはありがたい存在だったんですよ」
葛の葉会および瞽女唄ネットワークは1996(平成8)年、とある儀式を50年ぶりに復活させた。「妙音講」だ。
かつて、旅を続ける瞽女たちは一年に一度、妙音講の日には大工町(現在の長岡市日赤町一丁目)にあった組織の本部支配所である瞽女屋敷に戻り、瞽女の守り神である弁天様に芸を披露するとともに、互いの労を労った。
室橋さん「瞽女さんたちはたとえどんなに遠くにいても、妙音講の日には必ず瞽女屋敷に帰ってきたんですよ。周りには着物や三味線の露店が何十件も並び、瞽女小路と呼ばれたそうです」
なお、瞽女屋敷のあった大工町にも近い文治町(現在の山田三丁目付近)には遊廓があったと伝えられている。夏の風物詩である「長岡まつり大花火大会」も、現在は「戦災犠牲者への鎮魂の花火」として知られているが、その源流自体は明治時代から存在しており、最初は遊廓の芸妓・娼妓の水子供養なども兼ねたお祭りであったようだ。そうした遊廓で働く芸者たちと瞽女たちが何らかの接点があったとしても不思議ではないだろう。
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だが、その妙音講も1945(昭和20)年4月の開催を最後に途絶えてしまう。市街地の約8割が焼け野原となった同年8月1日の長岡空襲で瞽女屋敷が全焼したことで、妙音講はおろか、帰るべき拠点を失った長岡の瞽女文化は壊滅的なダメージを受けることになったのだ。1996年に葛の葉会が唯敬寺で再開した妙音講は、それ以来の開催となった。
盲目の旅芸人である瞽女たちは、時に差別の対象にもなった。そのことについては水上勉の小説『はなれ瞽女おりん』(1975)や、それを原作とする(1977)映画など多くのメディア・文献で描かれてきたためここでは触れないが、長岡でも瞽女への差別はあったと聞く。その一方で、瞽女には集落の外からやってくる福の神という側面もあった。瞽女からもらったお米は頭がよくなるとされたほか、瞽女の唄を聞くと蚕がよく育つとされ、一部の地域では蚕のために瞽女が「蚕口説」を唄うこともあった。瞽女が弾いた三味線の糸は縁起物とされ、妊婦が糸を煎じて飲むこともあったらしい。
時に差別され、時に村民たちから歓迎されながら、瞽女たちは激動の人生を生き抜いた。鈴木さんもまた「生きていくのが大変だったにもかかわらず、明るく振る舞い、瞽女唄を歌い続けた。そこがすごいなと思いますね」と話す。
最後に室橋さんにこんな質問を投げかけてみた。――瞽女唄を通して伝えたいこととは何でしょうか?
室橋さん「今は生きるのが大変な方も多いと思うんですけど、そういう方に瞽女唄を聴いていただきたい。親が子を思う気持ちだったり、瞽女唄のなかには現代にも通じる物語があるんです」
その足跡と文化が消えゆく中で
「継承する」ことの意味とは何か
室橋さんと鈴木さんにお話を伺ったあと、瞽女屋敷のあった大工町からほど近い草生津(くそうづ)に建つ唯敬寺を訪れた。唯敬寺の創建は1507(永正4)年。戊辰戦争と長岡空襲により本堂や資料が焼失したため、その歴史を正しく伝えるものは少ないが、そのことがかえってこの寺が辿ってきた苦難の道のりを生々しく伝えている。
唯敬寺は瞽女頭である「山本ゴイ」の菩提寺でもあった。弟子たちに芸事のすべてを教える山本ゴイは個人名ではなく代々襲名される名跡であり、華道や茶道の家元に近いともいえるかもしれない。最後の山本ゴイを務めた山本マスは1964(昭和39)年に死去しているが、実質的には戦争を機に山本ゴイを頂点とする長岡の瞽女組織は崩壊していたようだ。
先述したように妙音講も戦争を境に途絶え、その後、瞽女唄ネットワークの働きかけで復活した。現在も妙音講では住職によって瞽女式目なるものが読み上げられるが、ここには瞽女の由来と戒律が綴られている。瞽女唄ネットワークの会長であり、長岡瞽女研究の第一人者である鈴木昭英さんは論考「越後瞽女」のなかでこう記している。
年期修業中の瞽女は、上等の絹の着物を着てはならぬとか、化粧してはならぬとか、いろいろの制約が加えられる。瞽女社会は年功序列で、商売から普段の生活に至るまで全てが入門順によって律せられる。弟子は師匠に、妹弟子は姉弟子に奉公服従を強いられる。艱難辛苦を伴う芸の習得に加えて、そうした仲間の秩序・規則を守ることが大変であった。
(鈴木昭英「越後瞽女」)
仲間の堅い掟を破り、不正の所業を働くと制裁が加えられる。毎年妙音講の席で朗読される「瞽女式目」にもその戒めが書いてある。作法に背く者があれば髪を切り、竹の杖を預け、科の品により所を追い、あるいは十里、二十里外へ流罪にする。不行式あれば、その罪名を裁いて五年・七年・十年と年を落とす、等々。
この論考によると、新潟でも長岡の処罰がもっとも厳しく、なかでも男子禁制の掟を破ることが最大の罪とされたという。発覚すると妙音講の席で報告がなされ、罰が与えられた。
「これが瞽女御条目です」と、住職の三条正憲さんが式目を出してくれた。かつてはこうした巻物が瞽女屋敷で受け継がれていたものの、長岡空襲で焼失。現存するのは鈴木昭英さんが資料をもとに復元したものだ。現在の妙音講でも弁天様の掛け軸をかけ、お経と御条目が唱えられる。
一度は復活した妙音講も新型コロナウイルス感染症の影響で2020年から開催が途絶えており、今年(2023年)も見送ることになった。三条さんは「来年もどうなるか、ちょっとわからないですね」と寂しそうに呟き、こう続ける。
「以前は自分の家でも瞽女宿をやっていて、瞽女さんたちを迎えていたという方がいたんですよ。でも、そうした世代の方もほとんどいなくなってしまいました」
三条さん自身も、農村で芸を披露する瞽女を観て育ったわけではない。だが、唯一の記憶として、とある情景のことを話してくれた。
三条さん「戦後、長岡駅の東口と西口を繋ぐ地下道で瞽女さんがよく三味線を弾いていたんですよ。ゴザを敷いてね。昭和31、2年ぐらいですかね。当時は傷痍軍人と同じように見られていたと思います。立ち止まって聴くような人はいなくて、みんな見て見ぬふりをしていた気がする。空襲で瞽女屋敷が燃えてしまい、集まる場所がなくなってしまったこともあるでしょうね。終戦直後はみんな大変だったし、旅に出る仲間もいないから、ひとりでやっていくしかなかったんだと思います」
昭和31、2年ということは、日本が高度経済成長期に突入した時期にあたる。農村の若者たちは都会をめざし、それまで集落内で行われていたさまざまな風習が失われつつあった。瞽女の暮らしを支えてきた地域共同体もまた、同じころ変容しつつあった。長岡では戦争をきっかけに瞽女組織が崩れ去ってしまったわけだが、たとえ戦争がなかったとしても、瞽女と農村の人々が築いていた幸福な関係はそう長くは続かなかったはずだ。
唯敬寺を出たあと、かつて瞽女屋敷のあった大工町や遊廓が立ち並んでいたとされる文治町を歩いた。現在では瞽女の痕跡はまったくといっていいほど残っておらず、言われなければ三味線を担いだ女たちの一群が歩いていたとは誰も思わないだろう。どこにでもあるような静かな住宅街といった雰囲気である。だが、確かにそこには瞽女たちが存在したのだ。かつて文治町であったエリアには数年前まで遊廓の建物を利用した転業旅館が営業を続けていたが、それも取り壊され、遊廓の気配も遠い過去のものとなりつつあるようだった。
瞽女たちがこの世を去り、その姿を記憶している世代もひとり、またひとりと鬼籍に入っている今、瞽女唄の継承は重要な意味を持っている。かつて長岡の地では豊かな唄の文化が育まれていた。そして、この地では瞽女と呼ばれる旅芸人たちが、生まれついた困難や貧困、激動する時代の中でも必死に生き抜いていた。時代は常に移り変わっていくが、そのことを決して忘れてはならない。瞽女唄のバトンを繋ぐということは、唄を通じて瞽女たちの存在や、彼女たちの生きた時代を記憶し続けるということでもあるのかもしれない。
Text:大石始 / Photo:池戸熙邦