誰かの記憶の風景を作り、まちに「大切さ」を取り戻す。ドーナツも売る設計デザイナー・高坂裕子さんの挑戦
真剣に仕事や教育に向き合う
大人の姿に導かれた少女時代
2025年には50周年を迎えるという長岡金型。その創業者一家に三姉妹の次女として生まれた高坂さんは、創業社長である父親の姿を見ながらこの場所で育った。
「私の小さい頃にはここにあった工場が自宅とつながっていたので、物心ついた頃から油にまみれた工作機械がいろんな音を立てながら動いているのを見てきました。学校から帰宅して、黙々と機械に向かう父の背中を横目に『ただいま』と言うのが私の原風景。だから、今でも機械油や灯油の匂いに惹かれます」
20代で「会社を作る」と決めた父。その父親である祖父は、「かつて自分ができなかった起業の夢を息子がなし遂げるのなら、それを支えよう」と、当時勤めていた会社を退職。その退職金を使って、親子でこの工場を築き上げた。そんな家族の影響を大きく受けながら、高坂さんは育った。
「父はものづくりのことしか考えていないような人でしたから、自宅に帰ってきても食卓に図面を広げて、『ここが、もっとこうなれば……』なんて言いながら睨めっこしていました。本当に楽しそうにそれをやっているので、私も子供心に『仕事って、楽しいものなんだな』と思って育ちましたし、自分も当たり前にそういう大人になるんだと思っていました」
子どもの頃から絵を描くことが好きだったという高坂さんはやがて美術予備校に通い、美大への進学を考えるようになる。専攻しようと思っていたのはグラフィックデザイン。しかし、当時の高坂さんには、平面構成や色彩学を学んでいくことが自分にとってのリアリティから少し遠いもののように思えた。
「そんなときに、『大改造!劇的ビフォーアフター』という、建築士や佐官職人など“匠”と呼ばれる人が民家や店舗のさまざまな困りごとをリフォームで解決していく番組を見て、大感激したんです。次の日には、予備校の先生に『私は“匠”になります!』って宣言していました(笑)。誰が聞いても笑いのタネになるような話ですが、その先生は一切笑うことなく『だったら、ムサビ(武蔵野美術大学)の工芸工業デザイン学科に行きなさい』と教えてくれたんです」
若者の勢い任せの話を無下に切り捨てることなく、真剣に聞いてくれる大人の存在。それが高坂さんに新たな扉を開かせた。めでたく合格した工芸工業デザイン学科で、インテリアという領域に出会う。
「私はそれまで、建築にも家具にもまったく興味がなかったんです。有名な建築家や名作家具の会話が飛び交う都会生まれの同級生たちの中に、ひとり『安藤忠雄……聞いたことあるぞ』というレベルの人間がいる状態(笑)。でも、学んでいくうちに、これこそが私のやりたかったことなんだと思えてきました。特に、見た目ではなく『居心地よさ』や『住まう』ことの本質を考えることこそがデザインなのだと教えてくださる先生がいて、その考え方がすごくフィットしたんです。私が“匠”に感動したのって、その仕事が誰かの生活を思うことだからなんですよね。その感覚が、『学び』と初めて合致した気がしました。今思えば、その先生も父と同じように、デザインについてとても楽しそうに話す方でしたね。仕事についてすぐに役立つノウハウのようなものではなく、本当に大事なことを伝えてくださる方がいたのは幸運でした」
「デザイン=人と向き合うこと」
仕事の本懐に気づいた東京時代
卒業後、高坂さんは東京で、店舗などの設計デザインを行う会社に就職する。学生時代にはアトリエ系の小規模な設計事務所から大手ゼネコン系列の事務所など、さまざまな現場でのアルバイトを経験したもののどこもしっくり来ず、就職活動もほとんどしなかった高坂さんだが、研究室のつてで大学OBの経営する会社に入社が決まった。
「社長が大企業のプレゼンに『行けなくなっちゃった、よろしく!』と言って新卒を一人で放り込むような豪快な方だったので、すごく鍛えられましたね。向こうにとっても初めての社員だったので、どうしていいかわからなかっただけかもしれませんが(笑)。ただ、先ほどの『居心地のよさ』のように、大学で学んだデザインの大事なことをもう一度現場で実践していけることや、自分の描いたものが大なり小なり現実の形になって世に出ていくことが、本当に楽しかったです」
仕事を通して、個人事業主や企業の担当者、広告代理店など、学生時代には巡り会えなかった多様なクライアントと出会う日々。そこでたどり着いたのは、「デザインとは、人と関わる仕事なのだ」という気づきだった。
「たくさんのお客さんと出会う中で、ただ見た目がよければいいという話ではなく『世の中にこんな価値を提供したくて、そのための店舗が作りたいんだ』というような根っこの思いの部分を聞かせていただくことも多かったですし、『この社長の会社だったら、自分も入って働きたいな』と思うような方もいらっしゃいました。誰かが世の中で形にしたいビジョンがあるとして、その思考のプロセスをお手伝いできるのが、デザインの仕事。なんておもしろいんだろう!と改めて気づいて……それで、独立への弾みがついたんです」
そもそも実家が自営業ということもあり、自身もずっと会社員でいるイメージは持っていなかったという高坂さん。その決断を後押ししたのは、そうした素晴らしいお客さんとの出会いだった。「どうせやるなら、頭から最後まで、自分で全部責任を持ってやってみたくなっちゃって」という言葉に、お金になる仕事を次から次へと分業や流れ作業で効率的にこなすのではなく、もしかしたら多少効率は悪くとも、自分の全霊をこめて対峙できる相手との仕事一つひとつ積み重ねていくことを選ぶ高坂さんの美意識がうかがえる。
「でも、いざ独立するぞというタイミングで妊娠が発覚しまして。さすがに独立したてで出産・育児はなかなかしんどいな……と思って社長に相談したら、『おー、じゃあ引き続き働いてくれよ』と言ってくださったので、もう少し会社に在籍することにしました。今はまた状況も違いますが、当時のデザイン業界は、出産で一度第一線を離れた女性が簡単に復帰できる世界ではありませんでした。子どもを産むことと引き換えにキャリアを諦めていった女性を、私も何人も知っています。私のいた会社は幸運にも社長がご夫妻それぞれ働いていて、時折お子さんを会社に連れてくるような方だったので理解もあり、私はこの道を諦めずにすんだんです。結局、そこからさらに3年、計8年お世話になりました」
地元で直面したギャップと
志を同じくする仲間との出会い
理想的な職場環境にも助けられ、今度こそ独立を……と思いきや、またもヘビー級の現実に直面する。全国の自営業者の悩み、家業の後継者問題である。
「明確に『会社を継げ』と言われたことはなかったんですが、実家に帰るたび、じわじわとそういう雰囲気を感じ始めるようになって。父とお酒を飲んでいると『お前が継いでくれればなぁ〜』なんて、親子の情に訴えてきたり。完全にロックオンされていましたね(笑)」
そもそも、就職するタイミングでも、親のために実家を継いだほうがいいのではないかと思ったことはあったという。
「ただ、何の経験もない当時の私が入ったとして、うまくいかなかったら『絶対に人のせいにする』という気がしたんです。父なり、自分以外の誰かの“ために”という自己犠牲的な精神で始めてしまうと、うまくいけばいいけれど、そうではなかった時にその人たちの“せいに”するだろうと。そうなるくらいだったら私はまずは自分のやりたいことで力をつけようと思って、その時点で実家の会社に入るということはしませんでした。
でも、社会に出て8年経って、子育てと仕事の両立もでき始め、自分のやるべき仕事のスタイルも見えてきた。そろそろいいんじゃないか……と思ったんです。さらに夫も関東で製造業に勤めていたので、『うちの会社なんてどう?』なんて言い含めて工場見学に来てもらったり、両親からの見えない圧(笑)もあって、うちに入社してくれました。夫は当時は大企業勤めで、細かく分業が成り立っている現場で仕事をしていましたが、うちのような中小企業では、それこそ工程の最初から最後までものづくりに関われることが魅力に感じたみたいです」
デザインという仕事柄、拠点がどこであっても成立するような仕事のスタイルを作ってきた高坂さん。子育ての環境という点でも、東京に住むより長岡のほうが都合がよかった。「なので、一大決心というよりは、『じゃあ、帰ろっか』というくらいの気持ちで長岡に帰ってきました」
2015年に帰郷し、「いろいろなものを吸収して、それをまたアウトプットしていく」という意味を込めてSpongeを立ち上げた高坂さん。とはいえ、さまざまな仕事が集積する東京と長岡では、仕事のプロセスや文化の違いに戸惑うこともしばしばあった。
「東京では施工主との間に広告代理店がいたりして、役割分担や作業の流れが明確に決まっていることが多かったんです。その明快さに疑問を持つことはなかったんですが、長岡ではそうはいかない。そもそも施工をするわけでもない、どこかの工務店の所属でもないフリーの空間デザイナーという職業がまだ珍しかったので、単に図面を書く人だと思われたりして。『図面でこんなにお金取るの!?』と言われたこともあります。あとは、インテリア雑誌の1ページを持ってきて『これ作って!』とか(笑)。空間も違えば客層も違うし、同じものを作ることなんてできないんですよ……というところから説明しなければならないということも多かったです。今はだいぶ変わってきましたけどね」
だが、そんな中でも、少しずつ思いを同じくする地元のお客さんとの出会いが生まれてきた。
「私は高校卒業のタイミングで家を出ていますから、大人になってからの長岡の知り合いは少なかったんです。でも、仕事の合間にカフェに行ったりするうち、そこにいる人と少しずつ会話をするようになってきて。そんな中で出会ったのがGOOD LUCK COFFEEの青柳拓郎さんです。当時の店舗と私の家が近所だったのでよく通っては世間話をするうちに、私の仕事や、大事にしていることに興味を持ってくださって、デザインした店舗を見に行ってくださったり、ベーカリーを開業したいお客さんを紹介してくださったり。そのお店を見た料理研究家の方が『私の店もデザインして!』と言ってくださったり、お客さんのお店で働いていた方が今はうちで働いてくれていたり、人の縁がどんどん数珠繋ぎに広がっていきました。さらにはGOOD LUCK COFFEEが駅前に移転するときに、そのお店の空間デザインを依頼してくださって。本当に嬉しかったです」
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※店舗移転前の記事です
ひとつの出会いがつないだ
「これまで」と「この先」
そうやって他者の“場”を作ってきた高坂さんだが、いよいよ自分の“場”を構えるにあたって、なぜそれを他者にひらこうと思ったのだろうか。
「最初は、そんな意識ではなかったんですよ。工場が郊外に移転して空いたこのビルを、まずは自分のオフィスにと思ってリノベーションしたんです。自分の中でずっと学びというものへの興味が漠然としてあったので、『ときどき人を呼んでイベントをやったりできればいいな』というくらいのつもりで、本にまつわるものだとか、何かしらの学びに関係する集まりをやっていました。
そこに、今は3階に入居している『ひねもす大学』の太刀川さんがいらっしゃったんです。この場所に興味を持ってくれて、『ここで学習塾をやりたいです!』と言ってくれたことで、私の中でいろいろなものがつながって、世界が広がる気がしたんです」
もともと「最初からビシッと図面を引くのではなく、一つキーになる要素を見つけたら、そこから一気にアイディアが広がっていくタイプ」という高坂さん。このsomewhere、そして金型ビルにとってのキーのひとつが、太刀川さんとの出会いだった。
「自分自身でも、子育てをしているうちに『この子たちの世代に、何を残すことができるだろう?』『このまちに何か還元できることはないだろうか?』という思いが強くなっていたタイミングでした。太刀川さんがこのビルに加わってくれることで、自分では埋められないピースを埋められるなというだけでなく、一緒に何かをまちにもたらしていけるのではないか。そう思ったんです」
太刀川さんという戦友を得て、この場所に「学び」の具体的な要素がもたらされたことで、高坂さんの視線は一気に未来へと広がっていく。明確に「この先の時間を考える」というベクトルが加わったのだ。
それは、「自分のお店を持ちたいなんて思わなかった」という高坂さんが、この場所でドーナツを売るようになったということに現れた。脈絡がないようだが、これまで歩んできた道のりと、きちんとつながっている。
「ドーナツ屋のアイディアは、明確に私のデザイナーとしての課題から生まれたんです。私の店舗デザインという仕事は、これまでお店のコンセプトから内装をどう作っていくか、出来上がった時のプロモーションの仕方までをディレクションすることが大半でした。
しかし、もっと商品自体の魅力を高める必要や、接客やオペレーションなど、売り場全体を見渡して考えなければ、いくら世界観だけを作り上げてもその先維持・成長していくのは難しい……という場面にいくつも出会いました。そのため、手探りではありましたが商品開発や仕入れ業務など必要と思われることには首を突っ込んでやってきたものの、ひとり空回りしている感じがして、お互い良くしたいと思っているのに分かり合えないもどかしさや不甲斐なさが募るようになりました。自分で思っている以上に、商売する側のリアリティを汲み取れていなかったし、それが思いを共有する過程で説得力を持たせられなかった理由だと感じました。同じ目線に立たなければ相手の気持ちなんてわからない。共感してもらうためには、まず自分が共感する。つまり、小さくても自分で商いをしなくてはならない、と思ったんです。で、どうせやるなら自分が好きなものがいいし、『ドーナツ屋をやろう!』と(笑)」
somewhereのドーナツは流行りのデコラティブなものでもなければ甘ったるさも脂っこさもなく、実にシンプルな、誰でも安心して食べられる一品。「スウィーツ」ではなく、これぞ子どもの頃に食べた「おやつ」と呼びたくなるような、敷居の高さを感じさせないものだ。おからをベースにしており、添加物も極力使わない、素朴な味わいだ。
「ドーナツって、不思議な食べ物ですよね。あの丸い形を手に持ちながら、攻撃的な気持ちになれないじゃないですか(笑)。コミュニケーションツールとしてすごく優れてる。私がデザインで大事にしてきた『居心地よさ』が、ここにも表れているかもしれません」
この先の時間のために作る
「居心地よさ」とはなにか?
流れに運ばれているように見えながらも、要所要所でその哲学をきちんと磨き上げてきた高坂さん。デザイン、場所、学び、そしてドーナツにまで広がったその仕事で体現しようとしてきた「居心地よさ」の延長にこの場所もあるのだとしたら、その本質はどのようなものなのだろうか。
「そうですね……。私の言う『居心地よさ』というのは、今その場所にいるときにだけ感じるものでなくてもいいもの。そのときはわからなくても、時が経ってから『あのお店のあの照明、よかったな』『窓際から店内を見渡したときの店員さんの表情がよかったな』というように、人の心にそれぞれの形でポジティブに残るシーンになればいい。そんな場所を作りたいと思ってきました。
また、私や、場所を利用する人だけが『居心地よさ』を感じればいいわけではないと思うようにもなってきました。例えば施工業者さんのように発注と受注といった力の不均衡が発生しやすい関係性も含めて、みんながこの場所を作る仲間として対等でいられる仕事のあり方とはどういうものなのか? 設計者として自分がどう振る舞えばそれが可能なのか? ということや、イベントや店舗にしても、誰かが無理をしなければ回らないような環境を作らないほうが絶対にその仕事や業界が長く続くはずだ……ということを考えられるようになりました」
誰かの記憶に残る光景を作ることから、それを形にするプロセスそのものを健全化することまで、高坂さんの視座はより長く、そして広く、このまちに生きる人たちの「この先の時間」を捉えたものになりつつあるのだ。
「スクラップ&ビルドの激しい東京を離れて長岡に戻ってきたことで、地方都市で店舗を作るということの責任の重さを感じるようになったんです。東京では半年でお店がなくなることも珍しくありませんが、長岡では50年残るかもしれない。そのまちの風景を作るプレイヤーとして何を考え、どのような風景をまちに残していくかということの重みですね。そのためには、『自分や、目の前のお客さんだけがよければOK』ではいけないんです。
この場所を作るまでは、私のそういう気持ちを汲んでくれる青柳さんのようなお客さんがもっと現れてくれないかな……と、受け身の姿勢でいました。だけど、そういう人は待っていても現れない。だったら、自分がそのプレイヤーになってまちの風景に作用していけばいいと、今は思っています」
個の記憶をベースに
まちに「大切さ」を取り戻す
そんな高坂さんの願いが表れているのが、6月にビルの一階にオープン予定の、ドーナツをメインとしたおやつの店 「おやつショップ ダボ」。このチャレンジにはどのような意図があるのだろうか。
「私の原風景を再現したいという思いがあるんです。子どもの頃、私の家、つまりここから信濃川の土手に歩いていく途中に精肉屋さんがあって、そこでひとつ40円くらいのコロッケを売っていたんです。その場で揚げてもらって、友達と一緒に土手で食べることが最高に幸せでした。そういう経験を今の子どもたちにもさせてあげたいし、何より、まちにそういうシーンを増やしたいんです。私が土手で食べたコロッケを今も忘れられないように、ここでおやつを食べた子どもや大人にとって、忘れられない景色を作っていければ」
店名となっているダボとは木工現場などで使われる、両側のパーツを接続する木製パーツのこと。「さんざん悩んで最後に辿り着いたのは、自分たちらしい名前。原点であるデザイン、それも空間づくりを行う私たちだからこそできることがあるという思いを込めてつけました」。経済だけを優先した開発や人口減などでまちの歴史と現在やこれからをつなぐ手がかりが失われつつあり、それがさらなる愛着の喪失と一過性の開発という結果になってしまう地方都市の現実を認めながら、「個人の記憶」をベースにこれまでとこれからをつなぐための“接続点”に——ということだろう。
「この川西エリアは中心部と比べると確かに人通りは少ないですが、それがデメリットだとは思っていないんです。中心部と同じような場所を作ろうと思ったら難しいかもしれませんが、条件が違っているからこそ、この場所でしかできないチャレンジができますから。それが誰かを引きつけるものになれば、中心部とはまた違った新しい文化圏ができていくかもしれないし。somewhereは一見なんだかわからないけれど、オフィスでもギャラリーでも商いの場でもある。こうした拠点に何かを感じてくれる人が集まって、少しずついい風景の作り手がまちに増えていくきっかけになればと思っています。
私自身、この場所を作らなかったら、そんなことを考えることもなかったでしょう。だから、これからもっと変わっていくでしょうね。ずっと店舗設計をしていくかというと、そうではなくなっていく可能性だってあります。
私はもしかしたら設計というより、舞台美術に近い気持ちでデザインをしているのかもしれません。その場所で人が何を考え、どんなふうに動き、そして何がみんなの心の中に生まれていくか。そのきっかけを、いろいろな形で作っていきたいです」
土手のコロッケ、工作機械に向かう父の姿をずっと覚えていた高坂さんは、デザイナーとして顧客の記憶に残る情景を作ろうという思いを軸に活動し、そして今、まちの人々の「記憶の風景」を作ろうとしている。家族で守ってきた工場という「誰かが大切にしてきた風景」の中で育った高坂さんだからこそ、他者にとっても大切な風景を作り、残していきたいという思いがあるのだろう。経済効率が優先された結果として場所に愛着を持つ機会そのものが減ってしまった現代都市において、それでも誰もに絶対に残るはずの「個の記憶」への信頼をもとに、まちの風景にもう一度「大切さ」を取り戻す——高坂さんのチャレンジは、その途上にある。
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Text:安東嵩史 / Photo:八木あゆみ(ともに「な!ナガオカ」編集部)