【教えて!ご主人】カレーよりホットな愛と情熱が紡ぐ「レストラン ナカタ」の伝説
伝説的名店「小松パーラー」での12年
レストラン ナカタはJR長岡駅大手口から歩いて7分ほど。ビルの2階ですが、看板やのぼり旗が賑やかなので、すぐにここだとわかります。看板灯に「普通の辛さ1倍 ちょっと辛い3倍 辛い5倍 極辛い10倍 極極辛い20倍」とあり、女の子の顔から少しずつ大汗が吹き出していくイラストがユーモラス。辛さはさらにもう1段階、なんと「50倍」なんてものまであるのですが、そのお話は後ほど。
ビルの階段を上っていくと、「50倍カレークリアー者」の記念写真とコメントが壁にぎっしり。この場所で培われた店の歴史と店主の遊び心を感じます。
創業者の中田さんは、1940年10月27日生まれの77歳。戦後の混乱期に小学校で学び、中学校を卒業した翌日に長岡の洋食店の草分け「小松パーラー」に入店。以来、洋食ひとすじの60余年を歩んできました。
「5歳ちょっと前に長岡空襲があって。おふくろにおんぶされながら逃げて、市営住宅に引っ越したんです。私は6人きょうだいの4番目。10才上の長兄が小松パーラーで働いていたんだけど、『こんな時代だから手に職をつけないと。お前もおいで』と兄に言われ、よく考えずにこの世界に入りました。食べるものもなくて、醤油、味噌、砂糖、ぜんぶ配給。たくさん働くことが美徳だった時代です」(中田さん)
そして、小松パーラー初代店主・本田正人さんの下でゼロから料理人修業をスタートした中田さん。そこには中学の同級生で正人さんの息子の昌澄さんもいました。
「おやじ(本田正人さん)は広島の呉市出身。東京の精養軒で修業して長岡の喫茶店『パーラー』を継いで『小松パーラー』という名前に変え、食事も出し始めた。これが長岡の洋食の始まりです。いまの天皇陛下が皇太子のときになにかの行事で長岡市役所にいらして、市から依頼されて小松パーラーが『チキンガランテーヌゼリー寄せ』という料理をお出ししたこともあります」(中田さん)
「15歳で入ってブカブカの白いコートを着た私を見て、おやじは『か~わいいね~』ってニコニコしてたけど、修業を始めて何年かすると、ものすごく厳しい人だとわかりました。お皿についている指紋を見つけて『そんなもの出すな!』とか。『オムレツの焼き方が悪い!』って菜箸で叩かれた跡が赤くなって、痛くて痛くて」(中田さん)
当時は店に住み込みで、8人のコックが8畳に雑魚寝という生活。厳格なマスターに食らいつき、27歳までの12年間で洋食の技術と接客業の基本をみっちり仕込まれた中田さんは、忍耐力も同時に養いました。
「おやじはレシピを教えてくれないから、見ながらノートを取って覚えて。最後の4年間は悠久山公園の中にあった『ニューパーラー』を任されました。外のテラスにはパラソルがあって、お花見の時期には200人も300人も来るような、すばらしいレストランでしたよ。小松パーラーのほうは昌澄くんがやっていて、メニューは同じ。私はおやじに許可をもらって、小松パーラーにない料理を覚えるために新潟や東京にときどき出かけていました。そんなことを許してくれたのは私だけだったね。料理にも接客にもすべてにおいて厳しくて、切ないこともあったけど学んだこともたくさんあって、それで現在の私がある。いまとなっては尊敬の念だけです」(中田さん)
そして、いよいよカレーの道へ
しかし、やがてニューパーラーの経営が悪化。本田正人さんも社長を降りることになったのを潮時と、中田さんは小松パーラーを去りました。市内のホテルやレストランから「小松パーラーでやってきた人ならぜひ」と、たくさんの声がかかったそうですが、次に入社したのはパン・洋菓子メーカーの「ボンオーハシ」。カレー屋がやりたいというオーハシの前会長と一緒に中田さんは東京に出向き、何十軒ものカレーを食べ歩いて、1971年に「オーハシ・カレーショップ」をオープンしました。
「3日も4日もあっちこっち食べて、もう嫌になるくらい(笑)。最終的にいまで言うスープカレーみたいな柔らかいカレーを食べて、よし、これでいこうとスタートラインに立ちました。開店日はズラーッと大行列で、初日も2日目もお客さんが1000人は来たのですが、人気が続かず、どんどん客足が落ちてしまったんです。どうしようと思ったけど、小松パーラーと同じカレーでは意味がない。独自にスパイスをブレンドして、オリジナルのカレーを作りました。カレーの決め手は香り、辛味、甘味。スパイスの配合が変われば味もガラッと変わりますからね」(中田さん)
オーハシ・カレーショップは1年ほど続きましたが、なかなかうまくいかず、いよいよ自分の店を開くことにした中田さん。いつか実現したかった夢を叶え、1975年10月にレストラン ナカタをオープンしました。場所はいまより駅に近い東坂之上町だったそうです。「会社がたくさんあるから、こっちのほうが繁盛するだろう」というオーハシの前社長・小林功さんの勧めで、現在の場所に移ったのは1981年8月1日のことでした。
「小林さんの言うとおりだったね。ここに移ったころはバブルの絶頂期で大繁盛。サラリーマン、家族連れ、ママさんたち、学生、たくさん来てくれて。今年46年目ですが、やってこれたのはスタッフに恵まれたんだね」
「おーい、光子! この子がいちばん古いスタッフ。開店当初からずっといて、『邪魔くさい』って言ってもやめないんだ(笑)。店のことはなんでも知ってるよ」と、中田さんが紹介してくれたのは、スタッフの風間光子さん。
最初は接客スタッフだった風間さんは勤務時間が終わっても帰らず、「お金はいらないから最後まで店にいさせてください」と言って、居残っていたのだとか。休日もひとりでやってきて丁寧に掃除をしたり、床にワックスをかけたり。「私はそんなことまったく知らなかった。青春を店に捧げてくれたような子です」と中田さん。
風間さんも笑顔で語ります。「飲食業が好きなんです。地図のない航海をしているような中田さんに、これをやってみようか、あれをやってみようかと案を出し、すぐに『よし、やってみよう!』となる。そして、お客さんの反応がすぐにわかる。こんなおもしろい仕事はないと思いました」
以来ずっと中田さんに伴走し、いまでは総監督として宣伝や経営など、接客もしながら店を切り盛りしています。いつしか風間さんの娘もここでアルバイトを始め、家族ぐるみの付き合いになりました。
超絶激辛!「50倍カレー」が誕生したワケ
さて、そろそろナカタ名物・辛さ50倍のカレーの話題を。この驚愕の辛さはどのように生まれたのでしょう。
「1倍の普通のカレーにも辛味はありますが、基準の辛さは固定で、カエンペッパーをこれだけ入れれば3倍、5倍と量を決めています。最初は5倍までしかなかったんですが、お客さんがもっと辛く、もっともっと言うもんだから、10倍、20倍とペッパーを増やしたものを作りました。それでも『もっと辛くして』と言い出す人がいて困ってしまって……」(中田さん)
「それ以上辛いものは、その場では作れない。オーダーが入ってから作っても粉っぽくておいしくないんです。カエンペッパーがカレーソースに溶け込まないとダメなので、50倍だけは先に作っておくことにしました。だけど、よく出るのは3倍と5倍。昔は学生さんがよく50倍を食べてたけど、いまはポツポツですね。私たちは味見だけ。ぜんぶなんて食べられません」と中田さん。風間さんは「味見だけでも辛くて辛くて、飲み込むと、ここに食道があって、ここに胃の輪郭があって……というところまでわかりますよ」と笑います。
経営者やスタッフも完食できないという、激辛の50倍カレー。これをクリアした人にはアイスクリームをサービスしていたそうですが、それではおもしろくないということで写真を撮り、コメントを記してもらうことに。風間さんのアイデアだそうです。
「始めたのは1983年ごろ。階段に貼りきれないものはアルバムにしました。またいらしたときに見てもらって。懐かしがられますよ」(風間さん)
「学生のときに来た人が結婚して子供を連れてきて、『これ、お父さんとお母さんだよ』なんて話をしています。うれしいですね」(中田さん)
「娘さんをナカタの養女にください」
「うちはお客さん第一。いまは元日しかお休みはありません。せっかくお客さんが来てくれるんだから休めないでしょう。『がっかりさせないようにしましょう』って言ったのが光子です。21時の閉店直前にお客さんが来ても『どうぞ、ゆっくり食べてくださいね』と言いますよ。コーヒー1杯だけ飲みに来てくれたっていいんです。お客さんが来てくれないと商売になりません。お客さんが大事。当たり前ですよ。それを教えてくれたのが小松のおやじ。経営を教えてくれたのがオーハシの小林さん。私はいい人たちとの出会いを与えてもらった。それに対して感謝しないといけません」(中田さん)
マスコミで紹介され、初めて来る人もリピーターも増えて順調な日々の中、後継者を探していた中田さん。「子供は5人。倅もいたけれど、誰も継ぎたがらない。どうしようと思っていたら智佳子がやってきました」
卒業した調理師学校の紹介で土田智佳子さんが店に加わったのは1995年。「カレーが大好きで、地元の十日町市になかったカレーショップをいつか開きたいという夢があって。カレーといえばナカタですから、ここで勉強したいと思ったんです」と土田さん。
「智佳子には『ここで10年修業しろよ』と言いました。この子はそれほど叱ってないけど、私も小松パーラーのおやじと一緒で短気なほうだから、切り方や盛り付けが悪かったり、姿勢が悪かったりすると叱ります。残ってくれた子はありがたいね。しばらくして智佳子に、長岡インターチェンジのほうにあるもうひとつの店『やま(現在の名称はレストラン喫茶ぽっぽ)』でひとりでやってみろと言いました。そうしたら売上がグーンと伸びて、すごかった。それで、この子にナカタをお願いしようと決めました」
「智佳子のご両親に『レストランナカタの養女にください』と言ったら、びっくりされましたよ。本当に戸籍上の話かと思ったのでしょう(笑)。籍ではなく、気持ちだけね。智佳子の結婚式のときも『養女にもらいましたから、2代目になってもらいます』とスピーチしました」(中田さん)
そして、2011年1月に土田さんがナカタを引き継ぎ、2代目の経営者になりました。「最初は自分の店をと思っていましたが、それは本当に大変なこと。お父さん(土田さんは会長をそう呼んでいます)もすごく苦労してきたというのを知って、ここを継がせてもらえるのはありがたいお話だと思いました。別の形で夢が叶ってよかったと思っています」(土田さん)
「この子たちがいなかったら、私ひとりではやってこれなかった。去年まで入退院を繰り返していていまも闘病中ですが、2代目も決まったし、タバコはやめなくてもいいでしょう(笑)。でも、あと2年は生きたいな。東京オリンピックを見るまではね。野球もサッカーもバスケットも、スポーツ観戦が大好きなんです」(中田さん)
最後に、カレーがさらにおいしくなる食べ方を中田さんが教えてくれました。「生卵です。カレーに合うんですよ。まろやかになって、私はこれが大好き。メニューにはないけれど、言ってくれたら出しますよ」。風間さんも「対応できるものであれば、なんでも」とニッコリ。
レシピと味は、人から人へ継承されていきます。「また食べに行きたい」と思わせるレストラン ナカタの居心地の良さと温かな雰囲気は、血縁を超えた絆で結ばれた人々によって生み出されているのです。
Text: Akiko Matsumaru
Photos: Hirokuni Iketo
レストラン ナカタ
[住所]長岡市坂之上町2-3-6 若満都ビル2F
[電話]0258-34-3305
[営業時間]11:30~21:00 ※ランチは平日のみ15:00まで、木曜は15:00閉店
[定休日]無休