あれから13年――中越地震の年に生まれた3人が山古志小学校を卒業した日
風光明媚な棚田や養鯉業で知られる新潟県長岡市山古志。2005年4月に長岡市に編入合併された旧山古志村は、フォトジェニックな風景の印象と共に、2004年10月23日に発生したM6.8の中越地震で甚大な被害を受けた地区として記憶される場所でもあります。地震の翌日には全村避難が始まり、全住民が村を離れて避難所と仮設住宅での暮らしを余儀なくされました。
被災した山古志小学校は、長岡市内中心部の小学校内に機能を移して11月から再開。2年後の2006年10月30日に山古志の地で小中併設校として新設され、新しいスタートを切ってから、まもなく10年と半年になります。
去る3月23日は、地震の前後に生まれた子供たちが山古志小学校を巣立つ「卒業証書授与式」の日。なごり雪が朝から降りしきる中、晴れの日を迎えた学校を訪ねました。
全校児童22人。大家族のような小学校
まずは校長の中川実先生にお話を聞きました。
「5つの小学校が統合されて山古志小学校が誕生した平成12年度(2000年)、当時の全校児童数は84名で、地震があった平成16年度(2004年)は85名。今年度が22名です。
地震で村を離れた人がいたこともあって人口も世帯数も児童数も減りました。今日の主役である卒業生はわずか3名。1・2年生は単式学級、3・4年生、5・6年生は一緒に授業を受ける複式学級で、大きな家族のような学校です。
地震の後、小学校は阪之上小学校で、中学校は南中学校を間借りして授業をしていましたが、旧山古志中学校の跡地に小中併設校を新しく建設して再開し、昨秋に10周年を迎えました」
「震災を語り継ぐことに関して、心がけていらっしゃることはありますか?」という質問には、こう答えてくださいました。
「震災や復興までの歩みを風化させないため、毎年10月23日の追悼式に向け、各学級で震災と復興の学び直しをしています。多くの人たちの苦労や努力を知ることで、いまある自分を見つめ、これからのあるべき姿や山古志の姿を考えようという試みです。
また、みなさんからのご支援への感謝の気持ちを込めて、ホームページなどで元気な山古志小学校の姿を発信し、応援してくださる方々との交流も大切にしています」
少人数で温かな雰囲気の山古志小学校。こぢんまりした卒業式をイメージしていたのですが、校長先生いわく、3人の門出をお祝いするために、その10倍の来賓が出席されるとのこと。学校だけでなく、地域全体が家族のような気持ちで子供たちの成長を見つめているのでしょう。
そんな幸せな卒業生たちがいる5・6年生の教室に行ってみました。
保育園からずっと一緒の3人組
5・6年生の担任は長岡恵先生。燕市出身の長岡先生は、三条市の小学校を経て1年前に山古志小に着任しました。
「子供たちと一緒に地域を回る活動をしました。山古志の人たちは本当に温かくて、子供たちは大事に見守られて育っているんだなぁと感じます。
5年生の男の子が1人いて、今年は4人で授業をしていました。優さん、あいらさん、ももこさん、6年生の3人は絶妙なバランスが取れていて、みんな仲良し。昨日まではもちろん私服ですが、今日は4月から着る中学の制服で、なんだか服に着られてるみたいでかわいいですね(笑)」
山古志小では、子供たちを苗字ではなく下の名前で呼んでいるそう。家族のような親密さが生まれる一因かもしれません。
山古志生まれ、山古志育ちの3人に、いくつか質問をしてみました。
――山古志のどんなところが好きですか?
「地域の人たちが優しくて、歩いているといつも声をかけてくれるんです」(ももこさん)
「アルパカ牧場です。アルパカは、ほかの場所ではあまり出会えない動物だから」(優さん)
「おいしい野菜や山菜。ゼンマイの煮物とかフキノトウの天ぷらとか、『かぐらなんばん』(注)も大好きです」(あいらさん)
注:ピーマンに似た形の、山古志名産の辛みのある唐辛子
「うん、かぐらなんばん、おいしいです!」(ももこさん、優さん)
長岡先生いわく「山古志中の生徒が考案した『やまこし汁』というメニューがあって、かぐらなんばん味噌を肉団子で包んだ『バクダン』入りの汁ものなのですが、人気があるんですよ。古志高原スキー場でも食べられます」とのこと。
――中越地震のことは、お父さんやお母さんから聞いていますか?
「私はお母さんのおなかの中にいました。夕飯を食べようかと思っていたときに地震がきて、お母さんはテーブルの下に逃げようと思ったんだけど、食器が散乱していたので、机の上にのぼって外に出たそうです」(ももこさん)
「僕は7月29日生まれなので、地震のときは生まれて3ヶ月くらいでした。下の部屋で寝てたけど、うるさかったから上の階に行き、その後に地震がきて、下の部屋はもう開かなかったって。危ないところでした」(優さん)
「私は地震の次の日、10月24日に生まれました。お母さんは長岡市の中之島に里帰りしていました」(あいらさん)
さて、いよいよ卒業証書授与式の時間となりました。3人は会場のプレイルームに向かいます。
心地よい緊張と涙の卒業証書授与式
会場には在校生19人、卒業生の保護者、来賓が着席して、卒業生の入場を待っています。扉が開き、ヴィヴァルディ「四季」の「春」に合わせ、しっかりした足取りで入場した3人。堂々と胸を張って、会場を貫く花道をまっすぐ歩み、奥の壇上に置かれた椅子に横並びに着席しました。
長岡先生に名前を呼ばれると「はい!」と元気よく応え、校長先生が卒業証書を読み上げる演台に向かって花道を進み、証書を受け取ります。
証書を受け取り、張りのある声で夢を語る優さん。窓の外では、なごり雪が降りしきっていました。
校長先生の目をしっかりと見つめる、あいらさん。
校長先生から卒業証書を受け取るももこさん。
堂々とした我が子の姿を見つめるお母さんの目には涙がいっぱい。
式の後には長岡先生からのサプライズ
式を終えた3人は緊張から解放され、ホッとした表情で慣れ親しんだ教室に戻ってきました。
最初のサプライズは、3人の成長記録を写真でまとめたDVDのプレゼント。添えられたリボンにも秘密が。
「リボンの長さ、3人とも違うんです。なんだと思う? この6年間で伸びた身長と同じ長さなんですよ。何センチか書いてあるでしょう」と先生。
「こんなに大きくなれたのも、大切に守ってくれたお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、家族のおかげ。それを忘れないでくださいね。中学生になって、ますます活躍するみんなの姿を見られることが、私もとても楽しみ。自分らしさと感謝の気持ちを忘れないで、さらに輝いてください」(長岡先生)
続いて、3人の成長を記録した写真をスライドショーで上映。「あらー、あんなに小さかったんだね」と、さっきまで涙していたお母さんたちも思わず笑顔に。上映が終わり、和やかで楽しい雰囲気になったところで、もうひとつのサプライズ。3人からお父さんとお母さんへの感謝のお手紙です。
お父さんとお母さんにも、いまの気持ちを聞いてみました。
「地震のときはおなかにいて、私の実家がある小千谷の病院で生まれたんです。その後の仮設での生活はやはり大変でした。山古志に戻って、保育園からずっとクラス替えもなくこのメンバーですから、この先も仲良く元気に過ごしてくれたらいいですね」と、ももこさんのお母さん。
あいらさんはお手紙を読んだ後にしっかりハグ。お父さんもうれしそうです。
「地震があったときに生まれた子供だからなのか、やはり上の子の卒業式とは違って、思うところがありますね。私がやっている運動の仕事を自分もやってみたいなんて、初めて知ってびっくりしました」と、あいらさんのお母さん。
「なぜか小さいときから『僕は大きくなったら都会に住むんだ』と言っていて。試しに行ってみて帰ってくるかしら(笑)」と、優さんのお母さん。お父さんは「4年生くらいまで、ちょっとふっくらしてたけど、野球を始めてから痩せてきましたね。学生服姿が初々しいです」と笑顔です。
そして、全員で記念撮影の後は、在校生が卒業生を見送るセレモニー。卒業式特有のお別れの寂しさがないのは、中学校も同じ校舎の中にあるからでしょう。卒業生全員、4月から中学生になり、小学校の上のフロアで学びます。下級生や先生とも、すぐに再会できるというわけです。
あと3年間を共に過ごす3人の、本当の巣立ちの日は中学校の卒業式。その日の3人は、どんな15歳になっているでしょうか。変わらず仲睦まじく、それぞれの夢に向かって歩んでいるに違いない。みなさんの晴れやかな表情を見て、そう確信しました。
Text: Akiko Matsumaru
Photos: Tsubasa Onozuka (PEOPLE ISLAND PHOTO STUDIO)