英語教室で学ぶのは「料理と農業」!? 自分でなんでもやってみる、ちょっと不思議な英語の先生の話
寺子屋のような英語学習塾に
小・中学生から大人までが集う
猪俣英語教室は、新潟県長岡市の中心部に近い袋町にある学習塾。平屋の一般住宅で、一見、英語教室とは思えない外観です。
たたみ敷きの和室では、小学校高学年の子どもたちが英検用の問題集に取り組んでいます。その雰囲気は習字教室やそろばん教室のよう。昔の寺子屋ってこんな感じだったのでは。子どもたちがわからないところ、つまづきそうなところに声をかけ、教えているのが、この英語教室の主宰、猪俣謙太郎先生です。
「英会話よりは文法中心の英語教室をやっています。自分が学生の頃、英語がわからなくて切ない時期が長かったので、生徒さんにはそうなってほしくないという思いもあり、わからないところをひとつひとつ、わかるようにサポートしながら、楽しい英語指導を心掛けています」と猪俣さん。
猪俣さんが英語教室を開いたのは、2019年。当初の生徒は知人のお子さんなど8人でしたが、徐々に増え、現在では小中学生を中心に、大人も含めて60人もの生徒たちが英語の学習、英検合格やTOEICのスコアアップなどの目的をもって通っています。ここだけ見れば、熱心な普通の英語学習塾ですが、一風変わっているのは、猪俣さんがこの英語教室をベースに、さまざまな体験学習を案内していること。
「生徒さんには、もちろん英語ができるようになってほしいなと思って教えていますが、英語以外にも世の中にはおもしろいものがたくさんあるので、いろいろなことに興味を持ってもらえたらいいな、と思ってやっています」
果たして、猪俣さんが英語以外に興味を持ってもらいたいこととは? またどうしてこうした活動をするようになったのでしょうか。まずは猪俣さんの来歴をお聞きしてみましょう。
バスケに夢中だった少年時代と
心理学に出会った大学時代
猪俣さんは長岡市生まれ。前述のように、学生時代は英語はとにかく苦手だったそう。「全然わからなくて嫌いな教科でした」と語ります。小中高と夢中だったのはバスケットボールで、曰く「ほぼバスケしかしていなかった」のだとか。体育も好きで得意だったことから、進路はその方面に進もうと順天堂大学のスポーツ健康科学部に進学します。
「体育の教師の資格がとれる学科で、教職課程は取っていました。柔道や水泳などの様々な運動を学んだり、教育論などの教職に必要な講義を受講していましたが、そのうちのひとつだった教育心理学の先生の話がとてもおもしろかったんです。それをきっかけに心理学に興味を持ち、『心を生み出すもとは脳にある』と思い、新潟大学大学院の脳研究所に進むことにしました」
大学院での2年間は、主にマウスの脳の研究をしていたという猪俣さん。ネズミに組み替えた遺伝子を打ち込んで発現させるという研究でしたが、様々な種類のマウスを育てる日々が続いて「研究室で生きていくのって大変。自分にはちょっと無理だな」と感じるように……。そうして大学院を修了した猪俣さんは、研究の道を辞して、進路をガラッと変更。皇宮警察本部に就職します。
「研究室ではやっていけないということがわかったので、就職先を探して見つけたのが、皇宮警察の募集でした。TOEIC730点以上、英検準1級以上の条件で受験できたので、ちょうどいいなと思って受験したところ、採用されました」
なんと英語力を求められる職種で採用された猪俣さん。英語は大の苦手だったはずですが、どういった変化があったのでしょうか? 実は、さかのぼること大学時代に、猪俣さんと英語の関係に大きな進展があったのです。
「大の苦手」だった英語…
学び直しておもしろさに目覚める
大学入学後、ラグビー部に入部したものの「ちょっと違うな」と感じて辞めた猪俣さん。その後3カ月ほど何もしないでフラフラしつつも、あまりに時間が有り余って、危機感を感じたそうです。「このままだとよくないな、何かを始めようと思って、大学2年生のころ英語の勉強を始めてみたら、言語の組み立てられ方がすごくおもしろいということに気が付いたんです」。海外に行きたいなどの野望があったわけでもなく、本当になんとなく、「苦手だったからやり直してみよう」というくらいの気持ちで始めた英語の勉強に開眼したのです。
「英語って『主語+動詞』のような文型が第5文型まであるのですが、全部がその五つの中に収まるシステムがおもしろいなと思って。とても理論的な言語で、あまり例外もないんです」
高校まで学校で習っていた英語では見えなかった骨組みみたいなものに気付いた猪俣さん。「受験英語」とは違うおもしろさが、そこにありました。
「たぶん、構造的なことも教えてもらってはいたんですけど、あまりおもしろく感じなかったんじゃないかな。自分で学び直してみたら、英語ってすごいなと思ったんですよね」
自発的な学び直しで英語にはまった猪俣さん、果たしてどんな勉強方法をとったのでしょう。
「高校の時に使っていた『総合英語Forest』という参考書を自宅から持ってきて、それをずっと読み込んでいました。わからないところが出てきたら、もう少し簡単な参考書を読んで、また『Forest』に戻る。繰り返し学ぶうちに、英語ってこういう言語なんだなっていうのが、わかっていったような感じなんですよね」
さらにモチベーションが保てるようにと、英検とTOEICも定期的に受けるようになり、ついには英検1級を取得、TOEICでもハイスコアを得るレベルに。その努力と資格が、就職でいきたというわけです。ちなみに、英語の研鑽は今も続いており、2年前には自己ベストTOEIC955点(※)というハイスコアを達成したそうです。
※TOEICは990点満点
農業との出会いと
自分らしく生きるためのUターン
皇宮警察に勤め始めたのは24歳のとき。最初は東京勤務で皇居の内側の警備を6年。「海外からの観光客への道案内や、『外国人がお濠を泳いで渡ってきた』とか『ドローンを皇居内の木に引っかけた』みたいな事件のときに呼ばれて通訳したりしましたね」と、英語を生かす機会もしばしばあったそうです。この東京時代に同郷の女性と結婚。その後、京都に赴任して京都御所の警備を3年。この京都で猪俣さんは農業デビューを果たします。
「実は農業をやりたい気持ちがずっとあったのですが、さすがに東京では畑仕事はできませんでした。それが京都では割合身近に山や畑があり、農業ができる環境がある。そこで『京都土の塾』というNPO法人に入って農業を始めたんです。教えてくれる人が八田逸三さんという、すごくキャラの濃いおじいちゃんで。化学肥料・農薬を使わない。機械も使わない。便利なものに頼らず、使っていいのはスコップと鎌など、手を使う道具だけ。そんなポリシーを持つ方でした。ここで習った農業がすごくおもしろかったんです。いろいろな野菜を育てましたし、こんにゃくを芋から育てて灰汁でかためて手作りしたり、米を作ったり。そういう3年を過ごしました」
プライベートが充実する一方で、京都の職場は、東京よりもさらに平穏な仕事環境で……。「毎日何もないのですごく単調でした。何もないところに立って、何もなく終わっていく日々がつらくなってきまして」と猪俣さん。自分らしい仕事をしたい、また、地元に帰りたいという思いが募り、皇宮警察を退職。33歳のときに長岡に帰ってきました。
長岡では学習塾の講師の職を得ましたが、さまざまな教科を教えるうちに、英語に専念したい気持ちが高まり、遂に2019年、個人で英語教室を立ち上げ、今に至ります。
農業や料理の活動を通して
「生きること」を伝えたい
自分らしい仕事をしたいと長岡にUターンした猪俣さんが考えたのが、「英語を教えるだけでなく、人間が生きていくうえで大切だと思うことも伝えていきたい」「いろいろなことに興味を持ってもらいたい」ということ。
その言葉どおり、猪俣さんがこれまでに行ってきた案内は、農業体験、キャンプ、ヒヨコの孵化、石鹸やバスボムづくり、料理教室など、多岐に渡ります。京都で習ったこんにゃく作りをはじめ、モッツァレラチーズ作り、豆板醤作りなど、猪俣さんが「おもしろそう」と思ったものが企画になるそう。
「こんにゃく作りはおもしろいですよ。普通は炭酸カリウムなどの薬剤で固めるのですが、京都で習った方法は、稲わらを燃やした灰汁で固めるんです。えぐみの少ないこんにゃくができて、すごくおいしいんです」
また、英語学習を日常生活に取り入れられる講座として開催しているのが、英語で会話する料理教室です。特に人気があるのは、チーズケーキやアップルパイといったお菓子の教室。最近はでは英語を使わない普通の料理教室の開催要望も多く、料理講師として呼ばれることも増えてきているそうです。
さらに、人気のある手作りお菓子、パンを販売できるようにと菓子製造許可の申請をして、猪俣英語教室菓子製造部を発足。イベントなどでお菓子や料理を販売できるように、中古車を購入して自力で塗装と内装を作り、キッチンカーに改造し、移動販売車営業部までスタートさせました。その行動力には驚くばかり。今後、長岡のイベントなどで猪俣英語教室の移動販売を見ることも増えるかもしれません。
こうした製作と販売は、英語教室の生徒さんたちがお手伝いすることもあるそうです。英語の勉強だけでなく食品の作り方から販売の仕方まで、生活の場面の中で「生きた勉強」が行われているのです。
うまくいくことも、いかないことも。
養鶏と自然農で「食」と向き合う
また、長岡にUターンする際に、猪俣さんがやりたかったことのひとつが農業です。「ここなら自分のやりたい農業ができるのではないか」と、信濃川の河川敷にまるで秘密基地のような小さな農場を作りました。京都で学んだ農業の知識や体験を生かしつつ、将来的には可能な限りの自給農業を目指したいと語る猪俣さん。ライフワークである農業との関わり方を見せてもらいました。
猪俣さん自作の鶏舎には、さまざまな色の鶏(シャモ)がいっぱい! それにしても、養鶏をしようと思ったきっかけはなんだったのでしょうか。
「すごく好きな農業の指南書がありまして。大正生まれの方が記した『自給農業のすすめ』(詳しくは後述)という本なのですが、その第1章が『鶏を育てよう』から始まるんですよ。野菜を植えても収穫までは数カ月から半年とかかかります。その間の日銭を稼ぐために、とりあえず鶏から育てておけば卵を産むので、それを売ればすぐにお金にできる、というんです」
まずはその指南書の通りにやってみたという猪俣さん。卵は販売したり、料理やお菓子に使われるほか、有精卵なので孵卵器であたためて孵化させ、ヒヨコを育てることもあるのだそうです。鶏の餌は、地元のクラフトビール醸造所・HEISEI BREWINGから分けてもらったビールの搾りかす、醤油の搾りかす、米ぬか、卵の殻を混ぜて発酵させたもの。
「でも最近、小動物が鶏舎に入り込んで、何羽かやられているので気が重いんです。死がいを埋めても、それも掘り返されてしまったりして……」
タヌキかキツネかハクビシンか……鶏舎に入れないように対策はしているものの、それでも防ぎきれないことがあるそう。養鶏に限らず、自らの手で食べ物をつくることはまさに自然との付き合い、ときには戦い。悔しいことも残念なことも日々起こります。
畑の方も案内してもらいました。「この草ぼうぼうのエリアが自分の畑です。他の畑と違うので、わかりやすいですよね」
一見ただ放置されているように見えるこの畑、近づいてよく見れば、野草に混じってさまざまな野菜が育っています。これは、猪俣さんが取り入れている自然農の手法。一つの畑で一つの作物を育てるというスタンダードな農業は、収穫量こそ効率的ですが、土地をその用途のみに作り替えて自然状態から離れる分、土も継続的な手入れが必要で、また単一作物だけだと病害などの際に畑ごと全滅することもあります。そうでなく複数の作物を同じ畑で育てることを混作と言い、土壌やその中に住む菌類を豊かにする手法として注目されていますが、猪俣さんのものはそれよりさらに自然条件に近く、作物も野草も、すべてが渾然一体となって共存しています。
お一人で全部をやるのは大変では、とお聞きしたところ「基本的には土を耕さないで、そのまま植えるだけ、雑草もそのままなので、そんなに大変ではないですよ」とのこと。ニラなどは一度植えたあとは、翌年も勝手に生えてくるようになったそう。これからは夏野菜を植えたりと忙しくなっていくそうです。
陸稲(※)も育ててみたことがあるそうですが、「収穫まではできるんですが、手作業で処理しようとすると、脱穀して、もみ殻を外すのに手間がかかって」と、機械に頼らずに米として食べられる状態にする大変さを身をもって知ったのだとか。それならばと千歯こきを作ろうかと考えたものの、それもなかなか大変だということがわかり「ちょっと最近、あきらめ気味になっています」と苦笑い。とはいえ、そんな大変さもやってみなければわからないこと。どんな大変なことも「自分の手でひとつひとつ、やってみるのがおもしろいんですよね」と猪俣さんは前向きです。
※りくとう…水田でなく畑で育てる稲
猪俣さんの人生に
影響を与えた4冊
「やってみたい」「なんかこれ良さそう」からスタートし、いつしか普通の人よりちょっと深掘りをしている猪俣さん。英語、農業、料理と、猪俣さんが心惹かれる分野の最初の案内役となったのは、いつも「本」でした。自身の人生の支えとなったり、楽しみを教えてくれた本を教えてもらいました。
① 英語がわかるようになったきっかけの参考書2冊
『高校総合英語Forest』出版:桐原書店(1999年)
『大岩のいちばんはじめの英文法【超基礎文法編】』大岩 秀樹(著) 出版:ナガセ(2014年)
『Forest』は前述したとおり、猪俣さんが大学時代に英語を学び直そうとしたときに、実家から取り寄せた一冊。『大岩のいちばんはじめの英文法【超基礎文法編】』は、東進ハイスクール・東進衛星予備校の英語科講師による参考書で、多くの学生の支持を得てきた一冊です。
「『Forest』と『大岩のいちばんはじめの英文法』はすごくわかりやすくて、この二冊で英語が理解できるようになりました。僕は、英語は文法がわかれば、あまり怖がることなく話せるようになると思っているんです。よく『話す機会があれば英語が使えるようになる』と言いますけれど、日本にいると日常的に英語を使う環境をつくるのって難しいですよね。それならやっぱり文法をしっかり学んで、頭で考えながら喋っていくほうがいいのかなと思っているんです。英語を理解する下地さえ作っておけば、英語圏への留学の機会などがあったら会話も多分すぐ上達するのではないでしょうか」
② 自給自足の小農を目指す人のバイブル
『農家が教える自給農業のはじめ方 自然卵・イネ・ムギ・野菜・果樹・農産加工』 中島 正 (著) 出版: 農山漁村文化協会(農文協)(2007年)
自然養鶏や自給自足農業のパイオニアである農業家による一冊。「農業関係の愛読書です。自給農業をするにはどうしたらいいかが書いてありますが、第一章が鶏の育て方から始まるんです。すごくおもしろいですよ」。養鶏のやり方から、トラクターなどを使わない不耕起の農業、農薬不使用の野菜づくりや自家採種まで、具体的なノウハウが網羅されています。この本と京都での農業体験が、まさに猪俣さんの農業や生き方の指針になっているわけですね。
③ 見ているだけで楽しく読めばコツがよくわかるレシピ本
『スイーツ・バイブル: おいしい理由がよくわかる』福田 淳子 (著) 出版:家の光協会(2016年)
「これは自分の好きなお菓子の本です。見てるだけで楽しいです」と猪俣さん。「本を読んで、自分で作るのが好き」な猪俣さんが、なかでも一番好きな一冊なのだそう。
おいしい理由がよくわかる、という副題に違わず、上手に作るためのコツがとても詳細に記された一冊。ショートケーキやシュークリームといったベーシックな洋菓子の作り方が美しい写真で紹介されています。
自分の心から湧き出す
「いいな」を大切に
マイペースに、自然体に。Uターンから6年、活動の幅を日々拡大している猪俣さんですが、その核となる、自身が生きていくうえで大切にしていることは何なのでしょうか。
「自分が『なんだかおもしろそうだな』と思うことをやっていくことです。自分があまりピンとこないことはしないようにして、ちょっとでも、自分がいいなと思うことをやる。言葉にするのは非常に苦手なんですけど……」
外から見ると大変そうなことでも「たぶん、やりたいと思ったらやれてしまうんですよ」と気負いがありません。
調べて、学んで、実際にやってみて、生活に取り入れる。それを自分のライフワークとして楽しみながら、同じことに関心を持つ人に向けてアウトプットする。できることもできないこともあるけれど、失敗も含めてその過程を楽しむ——知識を実践に作り変えていく猪俣さんの行動力には驚かされます。その原動力は「なんだかおもしろそう」。やらされる/世の中的にやったほうがよさそうだからやるのではなく、やりたいからやる、というシンプルなすがすがしさが、猪俣さんからは感じられます。猪俣さんの周りに多くの人が集まっているのは、英語や料理を学ぶだけでなく、そんな猪俣さんのスタンスに惹かれて、ということもあるはずです。
メディアやSNSを飛び交うさまざまな情報が「これをしなさい」「あれをしなければ取り残されますよ」と語りかけてくる世の中、有益な情報を取り入れているはずなのに、どこか脅されているような気持ちになることはありませんか。そんなときは外側の「いいね」ではなく、猪俣さんのように、自分の内側から湧き出してきた「いいな」を大事にしてみてはいかがでしょう。
「次にやりたいことは、自分の飲食店。キッチンカーではなく店舗を持ちたいです」
と展望を語ったあと、猪俣さんはこう付け加えました。
「まだ何ができるかわからないのですが……ちょっとなんかこう、いいなと思っているんです」
Text:河内千春 / Photo:池戸煕邦