生きづらさに共鳴し、不登校の悩みを分かち合う。水沢祐里さんの「つながりサロン」が結ぶもの

日常が一変したコロナ禍、終わらない戦争、政治や経済の不透明な先行き、物価高に増税など、あらゆる不安が蔓延しているこのごろ。社会に漂う不穏な空気や大人が抱えるストレスを敏感に察知してバランスを崩し、明確な原因がなくても、心身の不調や居心地の悪さから通学が困難となる子どもたちが増えています。

2021年度に学校を30日以上欠席した、いわゆる不登校の小中学生は24万4940人(出典:2022年10月に文部科学省が発表した調査報告)。前年度から24%急増し、少子化が加速度的に進む中で過去最多を更新したことがメディアでも取り上げられました。2023年に入り、日常が戻ったかのような晴れ晴れした雰囲気が巷にあふれる一方、不安材料はむしろ増えていて、失われたものも易々と取り戻せるはずがなく、子どもに寄り添う親の心労は計り知れません。

そんな不登校の子どもたち、そして親たちも孤立しないよう、新潟県長岡市で居場所づくりに奔走する人がいます。音楽療法インストラクターの水沢祐里さん。子どもの不登校に悩む親ではない第三者ながら、水沢さんはなぜこの問題に取り組もうと考えたのでしょう。水沢さんが主宰する「つながりサロン」を取材しました。

 

子どもの生きづらさは誰のせい?
まず大人の意識を変えることから

学校が苦手な子どもと親が集う週1回の「ながおか自由学校」、そして月1回の「不登校の親の会」。「つながりサロン」の主軸となるふたつの活動は、長岡市内のコミュニティセンターなどで定期的に開催されています。

ある日の「自由学校」を訪ねたところ、開始時刻の朝10時を過ぎても誰も来ませんでした。「あれ? 今日はみんなお休みですか」と水沢さんに尋ねると、「いいえ、そのうち来ると思いますよ」とにっこり。しばらく待っていると、ちらほらと子どもたちが到着し、広いホールでボール遊びを始めました。

コミュニティセンターの遊戯室。参加者は水沢さんにLINEやメールで「○月○日に参加します」とひとこと連絡することになっていますが、当日キャンセル&当日参加もOKです。

開催時間は10時から12時とアナウンスされていますが、通常の学校のように時間割が決まっているわけではないので、好きな時間に来て好きな時間に帰っていい。勉強はもちろん、ゲームに折り紙、お絵描き、読書など、好きなことをして過ごしていいし、なにもせず、ただそこにいるだけでもいい。その日の体調や気分など、子どもたちそれぞれのペースと自由が尊重されている場所、それが「自由学校」なのです。

「小学生から高校生まで、保護者と一緒に来てもらっています。長岡市内の人が多いですが、見附市、新潟市、五泉市などからもいらしてますよ。親が仕事で出かけても中高生は家で過ごせますが、引きこもりがちになる子もいて。低学年の子だと親は家を空けられず、働けないことが親にとっては悩みの種です。2022年4月に『つながりサロン』を始めて、『自由学校』は4か月後の8月にスタートしたのですが、その間に見聞きするだけでも、いらっしゃるみなさんの状況はそれぞれ違います。ひとりずつお話を伺いながら『こういう子が来るからこうしよう』『こういうニーズがあるからこれをやってみよう』と、少しずつ課題を解決しているところです」と水沢さん。

「つながりサロン」代表の水沢祐里さんは新潟市生まれ、現在は三条市在住。本業は音楽療法インストラクターで幼児の母でもあります。

不登校が社会問題となっているいま、フリースクールなど学校外の学びの場が各地に生まれていますが、「つながりサロン」の「自由学校」は、まず大人を変えようという意図で始まりました。

「子どもではなく親、まず大人の意識や理解を変えることが大切だと考え、『自由学校』は大人が学べる場にしようと思いました。みなさん話すことが好きなので、最近はおしゃべり重視でやっています。そこに子どもが一緒に来て、ここは誰にも否定されない環境ですから、なにをしていてもいい。寝てたっていいんです。昨年度は私ひとりで運営していましたが、今年度からもうちょっと団体らしく、いつも来てくれるみなさんに会員になっていただき、理事を子どもたちにやってもらおうかと考えています。寄付金をいただくこともあるので、お金の使い途なども子どもたちで話し合って決めてもらう。その意見交換が学びになるかなと思っています」

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オセロを始めた3人。小学生から高校生まで、「自由学校」に集う子どもたちの年齢はさまざま。会場にあるもので遊んでもよし、家から勉強道具や遊び道具を持参してもよし。

水沢さんの生業は、音楽を使って心身を癒やし整える、フリーランスの音楽療法インストラクター。新潟市を中心に、病院や発達クリニック、特別支援学校などで仕事をしています。不登校支援の活動は、どんな経緯で始めたのでしょう。

「私の音楽療法の対象は心身の障害や病気を抱える子どもたちで、その中には学校が苦手な子もいます。子どもたちと関わり始めて、『ここに来ると元気なのに、どうして不登校なのかな』という疑問が生まれました。子どもの生きづらさはその子が悪いわけでなく、私たち大人の責任であり、環境づくりができていないだけだと気づいて、大人の意識、あり方といったものに注目するようになったんです。自分の子どもが不登校という当事者の方々が居場所づくりをすることは多いと思いますが、私は自分のためにやっているという感覚です。子どもたちが生きづらさを感じている、そんな社会は嫌だから」

長岡市を拠点にした理由については、「長岡は広いのに、当時まだ不登校の親たちが子どもと一緒に集まれる居場所がなかったんです。長岡は夫の出身地なのですが、私もこのまちが好きで、いつか長岡で暮らそうという気持ちもあって」と笑顔で語ります。

ある日の「自由学校」。子ども同士でルールを決めて、のびのびと過ごしています。

「つながりサロン」を立ち上げた動機には、音楽療法の仕事を通じて出会った子どもたちの存在と、そしてもうひとつ、水沢さんが子ども時代に抱えていた大人への不信感や嫌悪感が背景にあったそうです。

「私自身ずっと生きづらさを抱えていた子どもで、大人が嫌いでした。小学生のころから18歳で家を出るまで、いつも『ああ、早く死にたい』と思って生きていたというか。学校には通っていましたが、当時は先生の暴力や暴言もあり、先生のことも、学校自体も嫌いだったんです。また、私自身が過ごした家庭環境も『大人が嫌い』という気持ちに影響したのだと思います。当時は子どもの人権を尊重するという意識がいまほど浸透していなかったので、親の感情や価値観を押し付けられて育ち、家に居場所がないと感じていました。いま自分が親になり、子育てをしながら、子ども時代の記憶がフラッシュバックすることもあります」

子どもたちが遊んでいる間に保護者と言葉を交わす。日ごろ考えていることや悩みを打ち明けられる存在として、“ゆりさん”は頼りにされ、親しまれています。

 

「音楽の力で子どもたちを元気に」
病気療養中に一念発起、探し当てた道へ

家に居場所がないと感じ、学校も先生も嫌いだったという水沢さんは「友だちにはすごく恵まれていたので、友だちと遊ぶために登校していた感じです」と、当時を振り返ります。そんな日々を支えてくれた、大きな存在。それが音楽でした。

「そんな私を救ってくれたのが音楽でした。3歳のころからピアノ教室に10年ほど通い、中学校では吹奏楽部に入り、ピアノから打楽器へ。子どものころはずっと、好きだった音楽に逃げ込むように生きていました」

高校3年生になり、さて、なにを仕事にしようかと進路を考えた水沢さん。プロの演奏家になるのはハードルが高そうだし、音楽に関わり続けるにはどうしたらいいだろう……。さまざまな職業について調べて考え、テレビの音楽番組を作れたらとマスコミ関連の専門学校に進学して音響を学び、卒業後は東京へ。NHKの番組制作会社に就職しました。

「つながりサロン」の趣旨に賛同してくれた人の自宅を借り、和やかな雰囲気で行われた「自由学校」。「このおうちは月1回使わせていただいていて、のんびりした子たちにはとてもいい環境なんです。本当にありがたいですね」と水沢さん。

「ところが、希望していた音楽番組には関わることができなくて。子ども番組の制作に加わりましたが、仕事があまりにハードでした。やりたいことがやれていないというつらさもあり、お金のためだけに働くのが嫌になって1年くらいで辞めました。その後は音響のアルバイトをしたり、接客業など人と関わる仕事をしたりしていたのですが、同じ職場に長くいることができず、正社員・バイト問わず10社くらい転々と……」

やりたいことを模索して、いくつもの仕事を渡り歩く中で水沢さんは体調を崩し、病気になってしまいました。20代後半、結婚が決まった直後のことだったそうです。

「けっこう重病だったので、これはもう死ぬんじゃないかと。そうしたら、昔あんなに死にたいと思っていたのに、『死にたくない』と思ったんですよ。自分勝手なんだけど(笑)。結婚も決まっていたし、まだ私は生きてるんだから、やりたいことをやろう。やはり音楽だと。こんな人生を歩んできたので、心や体を健康にできるような仕事をしてみたい、好きな音楽で子どもたちを元気にしたい。そう思っていろいろと調べるうちに音楽療法インストラクターという仕事を知り、資格を取りました」

折り紙、将棋、工作……、そこにあるものを使ってリラックスした時間を過ごす子どもたち。

幸いにも、病気はやがて寛解。無事に社会復帰を果たした水沢さんは、結婚を機に新潟に帰郷して音楽療法の仕事を始めました。この土地で生きづらさを抱えていた水沢さんだからこそ、子どもたちの境遇や心情を慮ることができ、それが音楽療法や「つながりサロン」の運営に生かされているのではないでしょうか。

「もし成長過程でつらい経験をしていなかったら、たぶん私はこんな仕事をしていないでしょうね。音楽療法は大人が指導するのではなく子どもが主体で、私は打楽器を使っていますが、ドラムが好きな子だったら好きなように叩いてもらって、こちらがそれに合わせて演奏したり歌ったり、というセッションをします。お話がうまくできなくても音楽でコミュニケーションが取れる、そんな活動なんです。不登校の子どもたちの中には、学校でなにか理不尽なことをされたり、意見があるのに先生に聞いてもらえなかったり、そういったことが積み重なった結果という子もいて。私たち大人の責任として、そういう子たちの居場所を、その子に合わせた環境としてつくれたらと思っています」

 

笑いあり、涙あり、学びや発見もある
月1回の茶話会「不登校の親の会」

その「自由学校」に先行して始まったのが「不登校の親の会」。毎月第4日曜日に市内のコミュニティセンターで開催されている会で、いつも5人から10人くらいが集まり、毎回新しい人が参加しているのだとか。人が多すぎると話がしづらくなるという配慮から、「自由学校」と同様、事前に申し込みをしてもらうことになっています。

お茶を飲み、お菓子を食べながら、おしゃべりが弾む「親の会」。毎月参加の常連さんも、この日が初めての新人さんも和気あいあい、気兼ねなく素直な気持ちを吐露し、悩みを共有できる時間です。

ここで話題になるのは子どもと自分の近況、夫や家族のこと、学校や先生のこと、仕事のこと、不登校支援に関する情報などなど……。水沢さんの大らかで温かい人柄のせいか、どんなことも気軽におしゃべりできそうな、居心地のよさと明るい雰囲気があふれています。

ある日の「親の会」では、こんな言葉が断片的に聞こえてきました。

「前日まで『学校に行く』と言ってたのに、朝になって『やっぱり行かない』と言う。『なんで行かないの〜!』と子どもを責めてしまって……」
「うちは『行きたい日に行けばいいよ』って言ってます。お互いにストレスを減らして、私自身が機嫌よくいられることが大事だから」
「学校が合わなくて転校したけど、どうなのかな。なんだか見てるとつらくなる」
「毎朝の学校への電話連絡がストレスで……」
「うちは夫があんまり協力的じゃなくて」
「家事と子どもたちのこと、自分の仕事も、ぜんぶひとりでこなすのは無理」
「ほとんど登校できてないのに給食費を払うのがね……。日割りならいいのに」
「突然行かないってことになると、仕事を休みづらい日もあるし、子どものお昼ごはんが困るよね」
「うちはいつも子どもが好きなものを作って置いておく。きれいに食べていることもあるし、食べてないこともあるけど」
「うちの子、もしかしたら発達障害かも。いまのことよりも将来どうなっちゃうのか不安」
「中学に行かれないのに高校に行かれるのかしら」
「うちの子は生活が昼夜逆転することがあり、食事の時間も不規則で心配」
「学校から健康診断の案内があったけど、なかなか行かれない」
「学校で学ぶことだけが学習ではないと思うんだけどね」

天気のいい日に屋外で開催された「自由学校」。子どもたちも遊具やボールで遊び、たくさん体を動かしました。

「うんうん、わかるー!」「うちもそう」という共感と笑い声、ときには涙もあり、正解を求めるわけでなく「ただ話したい、誰かに聞いてほしい」という親たちが語り合う会。毎月この場で似た境遇の人たちと出会い、悩みを分かち合うことで、心が少しだけ荷をおろして軽くなり、親たちもまた歩き出せるのです。

1年前からほぼ毎月「親の会」に参加しているという、長岡市のMさんもそのひとり。中学生の男の子と女の子のお母さんです。

「娘は小学校低学年から、息子は高学年から学校に行きしぶり、ふたりとも通えなくなりました。娘の不登校が始まったころ、先生から『休み癖がつくといけないから、どうにか連れて来られませんか』と言われ、無理やり連れて行ったのですが、娘が泣き叫ぶ様子を思い出すといまでもつらくなります。そのころは娘と向き合うのが大変で私自身が病んでしまい、休職していたこともありますが、小学校のスクールカウンセラーの先生が寄り添ってくださって。学校には『ふれあい相談員』という方もいて、家庭訪問して子ども部屋まで行って声をかけてくれているし、いろいろな人に助けてもらっていますが、この『つながりサロン』にも私は本当に救われています。たまたま訪れたトモシア(長岡市社会福祉センター)でチラシを見て、ゆりさんに連絡したんです。最初はつらかったときのことを思い出して、ここでよく泣いてましたけど、いまこうやって客観的に語ることができるのは、このサロンのおかげ。本当にありがたいですし、家でもゆりさんのことを子どもたちによく話しています。息子は先日の『自由学校』に私と一緒に参加したんですよ」(Mさん)

 

自らアプローチできるのはごく一部……
必要な人たちに情報をどう届けるか

スタートから1年余が過ぎ、水沢さんの現在の課題は「つながりサロン」の認知度アップ。必要な人に情報を届けるために、チラシを配布・設置しようとあちこちに交渉してきましたが、ことはそんなに容易ではありませんでした。

「つながりサロン」のInstagramより。SNSで情報発信し、LINE、メールなどを駆使して連絡を取り合っています。記事の最後にインフォメーションを掲載しているので、関心のある人はぜひアクセスを。

「市の教育センターにチラシを置いてもらっていて、それを見て来てくれた人たちもいますが、コミュニティセンターなど公共の場所での設置は難しいとのこと。学校に行かないことを推奨するわけでは決してないし、営利目的でもないと説明はしたんですけどね。不登校をオープンにしたくない人も多いため口コミも簡単ではなく、ひとりで抱え込んで悩んでいる人も多いと思います。現在はSNSで発信していますが、それを使っていない人たちにどうやって届ければいいか、考え中です」

現在、「つながりサロン」の公式LINEには約80人が登録しているそうですが、長岡市内の不登校児童生徒は約500人。自ら情報にアクセスし、アプローチできる人はごく一部で、これは「つながりサロン」に限らず、医療・介護、生活保護、児童手当などの行政サービスにおいても同様の問題です。公的支援はほとんどが申請主義なので、自主的に申請した人には対応のしようがあるものの、最初に自助努力を求めるしかない構造になっています。つまり、困窮度が高くて疲弊していたり、孤立していたり、情報を集めて役所に相談に来る余裕がなく、困っていても「助けて」と言えない人は取り残されてしまうのです。

「そうした人にも『つながりサロン』を知ってもらうためにはどうしたらいいか……。まだまだこれからですね」と、水沢さんは使命感を燃やします。

「不登校は親子や夫婦など家族の関係、学校の教育、いじめ、障害、貧困など、たくさんの課題をはらんでいるので、ただ居場所をポンッと用意するということでなく、そういった課題に向き合って、みんなで考えていきたいです。たとえば、とりあえずみんな選挙に行こうねとか、そういうことからでも。議員の方や大学生が来てくれたこともあるし、自分ひとりでは簡単に解決できないことでも、たくさんの人たちを巻き込んで、ひとつずつ解決に向かっていかれたら」

「情報発信がいまの課題です。SNSを使っている人はいいとして、インターネットを使っていない人にどう届けるか、ですね」

水沢さんが語ってくれた「子どもが生きづらい社会は嫌だから」という、「つながりサロン」設立の動機はシンプルかつ切実だと感じます。「こうあるべき」という固定観念と、それに従わせようとする圧力が強い社会は大人だって生きづらい。息苦しさを覚え、希望を見失う子どもたちが増えている現状は不思議ではありません。

「学校に行くのは当たり前」「決まっているルールだから」「みんなそうしているから」といった理由で子どもを押さえつけ、力づくで登校させることは正しいのか。「子どもは社会の宝」と文部科学省は謳うけれど、この国の子どもは本当に大切にされているのか。
すべての大人が自分に染みついた価値観を疑い、子どもの有無に関わらず、当事者として考えてみることが必要ではないでしょうか。子どもやマイノリティ、社会的に弱い立場の人たち一人ひとりの人生が尊重される社会は、すべての人にとって生きやすい、風通しのいい社会のはずです。

 

Text: 松丸亜希子 / Photo: 池戸煕邦
(自由学校の写真は水沢さんにお借りしました)

 

●インフォメーション

つながりサロン
[電話]080-1301-7397(水沢さん)
[メール]niigata.nmt@gmail.com
[URL]https://lit.link/nagaokaschool
[Facebook]https://www.facebook.com/nagaokaschool
[Instagram]https://www.instagram.com/nagaoka.alternative_school/
[イベント]「平和マルシェ」2023年7月23日(日)11:00〜16:00、アオーレ長岡(ナカドマ)。縁日、トートバッグ作り、クイズラリー、キッチンカーなど盛りだくさんのイベントに「つながりサロン」が出店します。

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