川と生き、山と暮らしてきた人々の息遣いが聞こえる。謎の民謡「天神ばやし」を追って(後編)
船頭の舟唄、木やり歌、能登発祥説…
謎に包まれた「天神ばやし」の由来
天神ばやしは中越地方のどの地域で歌われているのだろうか。小千谷文化財協会発行の「小千谷文化 昭和43年5月号」のページをめくってみると、そこには「小千谷市一帯(ただし北部は高梨まで、東部は浦柄まで)、北魚沼地方は川口町、堀之内町、小出町、南魚沼地方は昔は歌ったというが今は歌わず」と書かれている。ここには書かれていないものの、天神ばやしは十日町でも盛んに歌われており、どうやら信濃川と魚野川の流域に伝わってきたようだ。「小千谷文化 昭和43年4月号」には天神ばやしについてこのように記されている。
いつごろから歌われたものか現在のところ不明である。ただし歌詞や歌曲から考えると中世的な匂いが濃く、少なくとも江戸時代にはすでに歌われたものだろう。歌詞の内容から見ると一種の農耕行事歌であるが、現在は祝儀歌として当地方の一般宴会では必ずといってよいほど昭和されている。なお当地方では信濃川を上下する船頭の舟唄として唄われた事もあったという。隣郡の堀之内町史を見ると天神ばやしの発生は木やり歌が変化したのではないかと書いてある。これもひとつの見方であろう。(「小千谷文化 昭和43年4月号」)
ここでも「船頭の舟唄として唄われた事もあった」と、川との関連が指摘されている。また注目したいのは「木やり歌が変化したのではないか」という説。木やり歌とは、材木を移動するときや土地を突き固めるときに歌われる労働歌を元にしたもので、江戸では町火消したちに歌われたほか、祭りの際、山車の出発時にも歌われる。半纏姿の男たちが合唱する光景を連想する方もいるだろう。確かに天神ばやしは勇壮な木やり歌を思わせるところがあり、なんらかの関連があるのかもしれない。
川口町歴史民俗研究同好会会誌の1984年1月号では、川口で語られてきた伝承話がいくつか挙げられている。現在の小千谷市薭生(ひう)に築かれた山城「薭生城」の武士たちが歌った戦勝の歌という説。信濃川を下り、鎌倉をめざした新田氏の武士たちが士気を高めるために歌ったという説。天の神を讃える旧塩沢町(現・南魚沼市)の歌を源流とする説。いずれも各集落の古老が語ったものであり、その古老もまた年長者からそう聞かされてきたのだろう。たとえ何の裏づけもない「伝承」にすぎなかったとしても、その集落ではそのように語り継がれてきたわけで、「そんなのデタラメだ」と簡単に切り捨てるべきではない。
川との関連でいえば、魚沼民謡伝承会が編纂した『越後魚沼民謡』にはこんな仮説も記されている。
能登半島の祝い唄「まだら節」が海岸沿いに新潟に伝わり、信濃川や魚野川を往来した川舟の船頭衆によって持ち込まれた。(魚沼民謡伝承会・編纂『越後魚沼民謡』)
えっ、能登半島? 突然頭の中で地図のスケール感が何倍にもなり、混乱してしまうが、川は当然どこかで海に繋がっているわけで、沿岸沿いに広がっていた文化が川沿いに内陸へと持ち込まれた可能性は十分あるだろう。なお、「まだら節」は佐賀県唐津市馬渡島(まだらじま)の漁師唄が源流ともされていて、この「まだら節説」を取ると、捜査範囲が一気に九州まで拡大してしまうわけだ。
伝承歌の源流を辿る旅にはミステリーを解くような楽しさがあるものの、民謡の伝播ルートとはそう簡単に特定できるものではない。なにせ楽譜や歌本などを介さず、人から人へと伝えられてきた口伝の無形文化なのだ。「まだら節説」を頭の片隅に置きつつ、もう少し資料を探ってみよう。
ルーツは室町時代にあり!?
意外な起源が見えてきた
天神ばやしについてもっとも信頼のおける調査研究を行なったのが、十日町の文化財保護審議会会長を務めた大島伊一さんだ。大島さんは新潟県内各地で調査を行うだけでなく、長野県や千葉県、伊豆大島まで足を伸ばしてその系譜を研究した。各地の天神ばやしを比較検証した研究者はほぼ皆無ということもあり、その論考は大変貴重なものだ。
大島さんは、天神ばやしは作業唄・労作唄が発展したものと考えている。作業唄というのは具体的にいえば農作業中などに歌う歌のことで、大島さんは「魚沼の祝唄 天神囃子」という論考のなかでこのように書いている。
大きな声を張り上げて唄うので(天神ばやしのことを)「大鳴り」と呼ぶところもあるし、「田打ち唄」や「肥ちらかし」という場合もあるが、これはその昔、田打ちの折の労作唄としてこの種の唄を唄って作業をした名残りをとどめている証拠でもある。(『十日町市教育委員会 文化財課 年報7』所収、大島伊一「魚沼の祝唄 天神囃子」)
確かに、天神ばやしは共同で何かを作業するときにマッチしそうな歌ではある。だが、大島さんはそこで探求をやめることはない。歌詞の形式を分析し、こんな仮説を導き出すのだ。
現在の民謡の八割から九割までが、近世小唄調と呼ばれる七七七五調を基調にしているのに対して、天神ばやしの原唄の詩型は、「めでたいものは大根種 花咲いて 実りて俵 重なる」と、七五五七四という非常にめずらしい詩型になっていて、これは室町歌謡に出てくる古い唄の特徴ともいえるものです。(「特集 天神ばやしはどこから来た?」、『広報かわにし』平成13年7月10日号所収)
室町時代ということは14世紀から16世紀にかけて、今から数百年前の話である。では、「室町歌謡に出てくる古い唄の特徴」を残し、天神ばやしの源流と考えられる神事唄はどこで歌われていたのだろうか。そこで大島さんが挙げるのが、なんと千葉県佐原市の香取神宮に伝わる御田植祭の神事唄なのだ。この歌のなかには「めでたいものは芋の種」という一節があるが、前編で紹介したように、天神ばやしにもこんなフレーズがある(川口では現在一部の集落を除き、このフレーズは歌われていない)。
めでたいものに 大根(だいこ)種 大根種
花が咲いてから みのりて俵重なる
咲いてから みのりて俵重なる
「めでたいものは芋の種」と「めでたいものに大根種」。確かに似た文句である。では、なぜ芋の種と大根種なのか。この問いにも大島さんは明確に答えている。少々長くなるが、そのまま引用しよう。
七五五七四の詞型で構成される祝い唄の類には、基本的に大根種・蕎麦の種(花)・芋の種の三つが用いられている。この三種の植物は古来よりめでたいものの代表格とされ、「三つもの」「三つ重ね」あるいは「三つぞろえ」などと呼ばれている。
大根は、越年した種とり大根に5月から6月にかけて白い花が咲き、やがて黒々とした実がつく。よく観察すると一粒一粒の実は小さいけれども俵のような形をしており、実の付き具合はあたかも積み重ねた米俵を思わせる。
蕎麦は赤い茎に白い花で紅白を表し、やがて実がつくと種子(実)の形は三稜形で三角を御帝にかけている。
芋はというと里芋系の「八ツ頭」のこと。この芋は茎は長くて葉が大きいのが特徴で、しかも根元にたくさんの芋子がつくところから子孫繁栄を意味しており、いずれもおめでたいものとされている。
この光景を唄ったのが「目出度いものは大根種」で、豊穣を祈念する農民の素朴な情感が込められている。(「十日町市教育委員会 文化財課 年報7」所収、大島伊一「魚沼の祝唄 天神囃子」)
これ以上ない説明だろう。「めでたいものに大根種/芋の種」という一節には、豊作を祈願し、子孫繁栄を願う農民たちの思いが込められているのだ。なお、天保6年(1835年)の「中古雑唄集」には上総国(現在の千葉県)菊八幡宮の神事唄としてこんなフレーズも載っているという(「川口町歴史民俗研究同好会会誌 1984年1月号」より)。
めでたきものはそばの花
花さき実りて
みかどなるぞ、うれしき
大根種・蕎麦の種・芋の種をめでたいものとする考えはかなり古いもののようだ。上で挙げたように現在の千葉県では神事唄として歌われていたようだが、大島さんの論考「魚沼の祝唄 天神囃子」によると、「大根種」というフレーズは関東甲信越の広い範囲の麦打唄や田植唄に歌われていたという。そうしたいくつかのヒントをもとに調査を続けていたところ、天神ばやしによく似た祝い唄を発見した。それが千葉県多古町に伝わる「大根種」だ。前編に載せた歌詞とぜひ見比べてほしい。
「大根種」
めでたいもーのは 大根種花咲いて 実なりて サーメデタイ
俵重なるメデタイ サテワエー
(ヨイコラサノ ズボリ もひとつズボリ)七つの倉の 倉びらき白金の 銚子に サーメデタイ
黄金さかずきメデタイ サテワエー
(ヨイコラサノ ズボリ もひとつズボリ)うぐいす鳴くや 春じゃものうぐいすは 姿に似せぬ サーメデタイ
音を出すメデタイ サテワエー
(ヨイコラサノ ズボリ もひとつズボリ)
「大根種」どころか、「俵」「七ツ倉」「白銀」「銚子」「黄金」「うぐいす」など天神ばやしと同じワードが連続する。偶然というには出来すぎだろう。現在の千葉県で歌われていた祝い唄が、紆余曲折を経て新潟内陸部に辿り着いた結果と考えれば納得がいく。
なお、この「大根種」、多古町では現在「めでたいもの」という名で継承されているようだ。多古町の異業種交流青年会である火曜会のウェブサイトにはこう書かれている。「めでたいものは多古で古くから歌われてきた祝い歌の名前です。それは、町内13地区の産土神社(大宮大神)で毎年行われるおびしゃ神事での奉納歌として、結婚式では新夫婦の万々歳を寿ぐ祝い歌として、あるいは家屋新築の上棟式では家運繁栄を祝福する歌として、まさにおめでたい宴席では欠かすことのできない歌なのです」――歌のあり方も含め、天神ばやしとの類似性に驚かされる。
[参考リンク]
多古町異業種交流青年会 火曜会
大島さんの論考「魚沼の祝唄 天神囃子」によると、江戸時代後期の本草学者、菅江真澄が各地をまわって田歌や山歌、船歌、念仏踊歌を記録した民謡集『鄙廼一曲』文化6年(1809年)でも「信濃の国風俗田植歌」として次の一節が記されているのだという。
めでたいものは 大根種
花咲いて 実なりて俵 重なる
つまり、上総国で歌われていたものがいずれかのタイミングで信濃に入り、信濃川沿いに伝えられていったということなのだろう。大島さんもこのように論じている。
おそらく今から600年ほど前に上総地方で神事唄としてうたわれていたものが、次第に作業唄・労作唄として一般に広がり、関東一円から甲州、信濃に入り、木曽谷や千曲川沿いに伝わって、江戸時代の半ば頃には祝い唄に移行し、定着していったものと考えられます。したがって、このあたりの天神ばやしは、信州から信濃川を下って伝わったと考えていいでしょう。(「特集 天神ばやしはどこから来た?」、『広報かわにし』平成13年7月10日号所収)
天神ばやしのルーツを辿って一旦は千葉の香取神宮まで辿り着いたが、信州に入り、信濃川を下ってふたたび中越地方に戻ってきた。人の移動とともにさまざまな習慣や文化も移動し、歌もまた土地から土地へと旅をしてきたのである。では、誰がどのようにして歌を運んできたのだろうか。この点については次の機会までの宿題としておきたい。
この地で生き抜いてきた人々の
記憶が染み込んだ「営みの唄」
ここまでたびたび書いてきたが、天神ばやしという歌は川口のみならず、十日町や小千谷など中越地方の広い範囲で歌われてきた。そのうえよく似た祝い歌が関東甲信越の各地域に伝えられてきたのだ。だからといって、川口に伝えられてきた天神ばやしが「どこにでもある歌」ということではない。微妙に変化した言葉のチョイス、節回し、そして何より特徴的な「一番取り」の慣習。川口の天神ばやしは、川口にしかない。この記事の前編で触れたように、そこには厳しい自然の中、川口の地で助け合いながら生きてきた人々の記憶や思いが刻み込まれているのだ。
信濃川と魚野川の合流地点に位置する川口の暮らしは、古くから川と共にあった。今から約1万6千年前の後期旧石器時代の遺跡と見られている荒屋遺跡(長岡市西川口)からは荒屋型彫刻刀と呼ばれる細石刃が多数出土しているが、鳥獣の狩猟や鮭などの川漁に使われたのではないかと言われている。弥生時代から古墳時代にかけては魚野川が川舟で物資を運ぶ水路となる。江戸時代、佐渡金山からの輸送路として三国街道の新道が開かれ、川口は宿場町として発展したが、水運の重要性は近年まで薄れることがなかった。
「な!ナガオカ」ではたびたび川と共にあった川口の暮らしを取り上げてきた。鮭猟のための「やな場」。もしくは川漁の伝統を伝える珍味「かじか酒」。川を通じて川口へと持ち込まれた天神ばやしもまた、そうした川の暮らしと共にあった。2014年、長岡市の各地域委員会は地域資源を選定し、それらを「地域の宝」と名づけると、川口地域ではそのひとつとして天神ばやしを選定した。今回の取材を通じてわかったのは、天神ばやしがただの歌ではないということだ。紛れもない地域の宝であり、川口の記憶が詰まったタイムカプセルなのだ。
参考文献:
「小千谷文化 昭和四十三年五月号」(小千谷文化財協会)
「小千谷文化 昭和四十三年四月号」(小千谷文化財協会)
魚沼民謡伝承会 編纂『越後魚沼民謡』(図書刊行会)
「川口町歴史民俗研究同好会会誌 1984年1月号」(川口町歴史民俗研究同好会)
「特集 天神ばやしはどこから来た?」、『広報かわにし 平成13年7月10日号』(川西町役場総務課)
「十日町市教育委員会 文化財課 年報7」(十日町市教育委員会文化財課)所収、大島伊一「魚沼の祝唄 天神囃子」
ウェブサイト「えちご川口navi」
Text:大石始/Photo:クレジット外はな!ナガオカ編集部