その土地、なんでそんな名前? 長岡に残る地名に込められた先人の知恵にアクセス!
先人たちの暮らしや思いの蓄積が「地名」になった
新潟有数の温泉地・蓬平(よもぎひら)温泉。そのホームページをのぞくと、「蓬平の歴史」というページがあります。
そこには、「蓬平の地名と伝説」と題した2枚1組のPDFが掲載されています。細かく等高線が記された精緻な地形図。その周囲には、温かみのある、実に味わい深いイラストが添えられています。実は、これらを書き記したのが小高さんなのです。
太田は、標高の低いところから順に濁沢(にごりさわ)、蓬平(よもぎひら)、竹之高地(たけのこうち)の3集落からなる、山あいの地域。中越地震後は過疎化が急速に進行し、もっとも奥地にある竹之高地では現在、1、2軒の民家が残るのみとなっています。
このままでは地域の記憶が廃れてしまう……。小高さんはそのことを早くから危惧し、活動を続けてきました。
小高さんは、長岡市の職員として太田出張所(現:太田コミュニティセンター)に勤務。同所長を勤めたのち、退職。太田の語り部として、現在に至るまで精力的に活動を続けてきました。
小高さんは在職中から、長い年月をかけて太田地区を歩いて回り、聞き取りや調査を通じて情報を蓄積してきました。それをひとまとめにし、自ら挿絵を入れて完成させたのが、「蓬平の地名と伝説」です。
小高さんが活動を始めるきっかけとなったのは、先祖への感謝の気持ちからといいます。
「太田は、長岡の市街地からは、今でこそ車を使えば30分ほどで来ることができますが、かつては人間の足で3時間もかけなければ来ることができなかった。昔は、今以上に山奥に感じられたはずです。田畑をやるにしても、限られた土地しかなかった。そのような土地だからこそ、先祖がみなやっとのことで切り開いてきた土地を、大切に守り継いできたと思ったんです」
先人たちは、過酷な自然環境の中でたくましく生命をつないできた。「その記憶が、地名に残っているのではと考えるようになった」と小高さんは話します。
「私が若い頃、戦時中から戦後すぐの時期には、太田は今では考えられないほど数多くの人口を抱えていました。村全体でひとつの大きな社会が形成されていて、文化的にもたいへん発達していたんです。その中には、村に残る伝説を語り継ぐ、語り部のような老人たちがいました。少年時代から、そうした人たちから伝説や物語を聞いて育ったのです」
地名が人々の記憶から消え去ってしまう前に、語り継がれた物語を記録することによって次の世代へと継承していこうとの思いから、地域に住む古老を訪ね歩き、お話を伺い続けてきたのだそうです。その結果、自分が普段見慣れている地名に着目することになっていきました。
「たとえば、現在竹之高地(たけのこうち)と呼ばれるようになる遙か前には、もともと『多岐之河内』という書き方をしていたとも言われます。それが、次第に竹之高地へと変化していったのです」
竹之高地は、太田地区の中で最も標高の高い場所にあります。「高地」の地名は高い場所を表していますが、本来は「多岐之河内」、つまり多く枝分かれした川、沢が集まる場所であったことを示唆しているのだとか。竹之高地に住み着いた人々は、水場に近く農地にできる土地を見つけ、時には開発を行いながら生活してきたのです。
「竹之高地は、太田の方言では『タケンコーチ』と発音します。それが次第に、地名の表記だけ変化していったと考えられています。しかし、『タケンコーチ』の発音は変わらず残ってきたんですね」
調べていくと、竹之高地の地名と同様に、かつての地名から変化したものや、ふたつの表記に分かれてしまったものがあることがわかってきました。小高さんは、それらをすべて地図に書き込んでいきました。必ず方言での読み方も添えて書き記すことで、方言の保護も考えたのです。
由来もさまざま、ユニークな地名探訪
地図を見ると、いくつか面白い地名が目に入りました。
「五反田」と書いて「ごたごた」……?
この「ごたごた」という地名は、田の面積が「五反(約5,000㎡)」であったから「五反田」となったというのがひとつの説。もう一方の説では、単純に土地の性質がゴツゴツしていたのが訛り、「ごたごた」に。それに当て字をしたのが「五反田」になった、などなど……。
「奥の院」と書いて「オクネン」。
他にも「盗人沢」や「化け物」「山の神」など、なんとも気になるネーミングばかり見つかります。
そこで、小高さんとともに、何か所か実際に巡ってみることになりました。
「たとえば竹之高地は弘法大師伝説が多く残る場所なので、ぜひそちらをご案内したいところだけれど……」と地形図に視線を落とす小高さん。
地図を見ると、気になる地名の残る場所は、ずいぶん山奥に点在するようです。いずれも急峻な地形が入り組み、簡単には入れなさそうな場所ばかり。取材を行ったのは10月。平野部はまだ陽気が残る時期でしたが、太田はすでに肌寒く、山奥に入り込むのはそろそろ難しい時期です。
小高さんが特に案内したかったというのが、「割れ石」と呼ばれている弘法伝説が残る場所。かつてこの地を訪れた弘法大師(空海)が法力で割り、一夜の宿にしたと言われる大石が今もあるのだそうです。小高さんがかつて割れ石を訪れた際に記録したメモを見ると、そこには「崖高し」「深い渓谷が広がる」といった文字が記されています。
「せっかくだから、実際に現地をご案内しましょう」と小高さん。弘法大師の『割れ石』を訪ねるのは断念しましたが、別の割れた巨岩があるとのことで、まずはこちらを訪れてみることに。「チャンカラ山」と呼ばれる場所です。「山」と書かれていますが、地元の方たちは「チャンカラリン」と呼ぶ土地なのだとか。いったいどんな場所なのでしょうか……。
小高さんが住む濁沢の自宅から車を走らせること、およそ15分。
チャンカラリンへといたる道は、草木が生い茂る獣道と化していました。鎌を片手に、我々の背丈ほどもある草木をかき分け、森の奥へと進んでいきます。
落ち葉が腐って湿り気を帯び、足を取られそうになるなか、急な坂を上り下りを繰り返します。
15分ほど歩いた先に、巨大な岩が現れました。
もともとひとつの巨岩だったようですが、岩は真ん中で真っ二つに割れています。奥には、深く裂けた崖が広がっています。
「昔ここで、ある家のおじいさんがナタを使って薪を切っていました。すると、突然手からナタがはずれ、吹き飛んでいきました。この石の割れ目の奥深くに落ちていくけれども、まったく底が見えません……」
「とうとう山の麓、濁沢の与五右衛門の井戸の中にチャポンと落ちてしまいました。そのうちにこの話が有名になり、村人、蓬平に湯治にきた人などがこの穴に石を投げ込むように。そのたびごとにチャンカラリン、チャンカラリン……と音がするようになったらしい……。これが『チャンカラリン』の由来なのです」
このチャンカラリンがあるのは、濁沢と蓬平のちょうど境目にあたる場所。ひとつの物語にすることで、その境界線を人々が意識する役割を担っていたのかもしれません。
「不動社」が語る村の起源と明治の記憶
続いて、道なりに山道を上っていくと、「不動社」にたどり着きました。
太田地区には「不動滝」、「不動社」といった「不動」の名がつく地名が多いことに気がつきます。さらに、沿道には不動明王(※)の石像がそこここに見えます。
※不動明王=仏教の五大明王のひとりに数えられる。憤怒の表情をしていることが多く、悪魔や敵を退け、行者を守るとされている。とくに真言宗などで篤く信仰される。
「お不動さん(不動明王)に関係する地名が多いのは、この地に弘法伝説が残るからです」
「不動」がつく地名は全国各地に数多く存在します。太田も同じように、弘法伝説に由来した地名が残っているのでした。
しかし、なぜ仏教のお不動様を祀っているのに「神社」なのだろう…。ぼそっと筆者が疑問を口にすると、
「明治期に、廃仏毀釈(※)という政策が行われました。もともとはお寺だったのですが、取り壊されそうになり、表向きは神社ということにしたんですね。その名残で、今も神社として続いているんです」
※廃仏毀釈=明治時代初期、神道国教化政策に基づいて引き起こされた仏教排斥運動。全国各地で仏像・仏堂などが破壊された。
と、即座に答えを返してくれました。続けて気になる一言が飛び出します。
「ここは、大田の『開祖』と言われる人物に関係する場所でもあるのです」
そもそも太田は、太古の昔から人が住み着いていた地域ではなく、集落が形成され始めたのは戦国時代になるのではないか、と小高さんは語ります。
「戦国時代の終わり頃、甲斐国(現在の山梨県)の武田家に、原美濃守(※はら・みののかみ)という武士がいました。戦いに敗れ、落ち延びた末にたどり着いたのがここ、竹之高地だったといわれています。彼が肌身離さず持っていたのが、不動明王の木像でした。それに由来しているというのが一説にあります」と小高さん。
この不動社は、よく見ると比較的新しいつくり。なんと、頑丈な鉄筋コンクリートで建てられています。実は、かつては別の場所にあったものの、中越地震により全壊してしまったとか。移築されて現在の姿になったのですが、「二度と大事なお社を壊すまい」とする竹之高地の人々によって、頑丈な作りに再建されました。
これだけ大事にされるというのは、太田に住む人々の、不動社に対する並々ならぬ畏敬の念感じます。
※原美濃守=武田二十四将のひとり、原虎胤という説。他に上杉家家老であったという説があるが、いずれも物証はなく、あくまでも伝説として残っている。
不動社のすぐ近くに流れる「不動滝」。写真中央右側にある岩の窪みには、不動明王の石像が安置されていたといわれます。その奥には「八」の字の窪みがあり、ここを訪れたとされる弘法大師の足跡であるという伝説が残っています。
龍神伝説が教えてくれる地形のこと
「そうだ、車ならなんとか行ける場所があります。時間に余裕があれば是非行ってみませんか」
続いて小高さんに案内していただいたのは、竹之高地からさらに奥にある「奥の院」です。不動社からは車で約30分ほど。雪が降れば閉ざされるほどの山奥にあります。
たどり着いたのは、蓬平にある「高龍神社」の奥の院。太田方言では「オクネン」と発音します。
→初詣にも是非。金運アップのご利益アリ!? 長岡のパワースポット「高龍神社」
その縁起を調べると、土地のこと、とくに地形のことがよくわかると小高さんは話します。
「このあたり一帯は谷になっていて、荒天の際には地滑りが頻発していたといいます。この谷で籠って修行をしていた、ある行者がいました。あるとき、彼の夢枕に龍があらわれ、『この辺りにお宮を建ててくれ。そうしたら水害は止むだろう』とお告げをくれたそうです。言われた通りにお宮(奥の院)を建てたところ、大荒れすることがなくなったといいます」
龍神伝説は、日本の各地に残されています。「龍神は水に住み、天に昇って雲を呼び、雨を降らせる力がある」と、人々はかつて信じていたと言われます。
「太田には『蛇』の名がつく地名が多い。たとえば蛇抜け(ジャノケ)など。これは、龍が谷を這うように滑り落ちる……つまり、地滑りを暗示しているとも考えられます」と小高さん。
昔から、蛇と龍は同一視されてきた歴史があります。つまり、龍と蛇に由来する地名自体に、自然への感謝と畏怖や、災害への警鐘といった意味合いが込められているのです。
さらに太田では、恵みの水をもたらしてくれる龍神伝説に、こうした山奥の谷は天気が崩れやすいから注意をするように、という警鐘の意味合いが加わり、「高龍神社」として残ってきたとも考えられるのです。
弘法伝説が残る場所にも「岩に蛇を閉じ込めた」というような言い伝えが残っています。
子どもたちに伝える「地域の記憶」
地名を地図に書き残すことと並行して、小高さんが力を入れてきたことがあります。
小高さんは長年、地元の小学生の子どもたちを連れて実際に現地でこのような話をし、自分の住む地域について考えてもらうきっかけづくりを行ってきました。
たとえば「盗人沢」と書いて「ノシト沢」と読む場所。この地名がついた由来には、太田の村の人々の気質を表すエピソードが隠されているといいます。よく小学生に語るというお話を、そのまま話してくれました。
「あるとき、太田内のとある集落から、やむを得ず盗みを働いた他所者がいました。昔はみな貧乏で、ひとたび凶作や家族に不幸などがあれば苦しくて泥棒でもしなければ生き延びられないほどでした。村人たちはそういう盗人の事情を承知していて、当時は「捕まえた場合は厳罰に処する。ただし、村の外へ出た者は咎めない」という掟があったので、実のところ村人たちは、心の中で『逃げてくれ』と切望していました。もし捕まれば、リンチにされたり、生き埋めにされたりと苛烈な罰を受けることになりました……」
「そして、泥棒が逃げ込んだ先の沢が『ノシト沢』と呼ばれるようになっていきました。ノシトというのは、太田の方言で『盗人(ぬすっと)』が訛ったものです」と小高さん。
この話を聞いたある小学生は「ドロボーさん、捕まらなくてよかったね」とつぶやいたとか。
「もちろん、伝説は伝説。本当のところは誰もわからない。しかし、何かが存在したり、何かが起こっていたことは間違いないと思うんです」
その場所を方言も使って書き記すことで、子どもたちが自分なりに土地のことを考えるきっかけになってくれれば。そんな思いで、自身も語り部として伝説や言い伝えを受け継いできたのでした。
取材中も頻繁に「どう思いますか」と質問を投げかけてくれた小高さん。気がつかないうちに、なぜ?と立ち止まって考える機会をくださっていたのではないかと思いました。
かつてこの地で生きた先祖たちの暮らしぶり、そして、未来に住む子孫たちへの警鐘……。
地名は、地域で長い間受け継がれ、蓄積されてきた知恵や知識にアクセスするための「コード」だったのかもしれません。
市町村合併や区画の整理などでどんどん古い地名が消えていく現代日本ですが、周囲に目を向けて見ると、そうした地名は、まだまだ日本全国に残っているはず。自分が住む土地のことを調べてみると、思わぬ発見があるかもしれません。
Text and Photos: Junpei Takeya