南極観測隊を支える「日本唯一の雪上車メーカー」大原鉄工所。その「雪国愛」「南極愛」を聞いた

JR北長岡駅近くに本社・工場を構える大原鉄工所は、環境事業と車両事業を手がける会社です。車両事業の中核は、国内唯一のメーカーとして生産する「雪上車」。ゲレンデ整備や自衛隊などの雪中活動に活躍するほか、なんと南極地域観測隊にも採用され、内陸トラバース用の大型雪上車「SM100S」や、昭和基地周辺で使用する小型の雪上車を製造してきました。また、それらの雪上車を南極で運用するために毎年社員を南極地域観測越冬隊に派遣しています。越冬隊は秋に日本を出発しオーストラリアにて南極観測船「しらせ」に乗船し、南極の昭和基地に向かって翌々年の春まで南極で観測業務にあたります。一度出発すると1年半帰れず、南極大陸で過ごすこととなるのです。

長岡の冬といえば、雪とともにあり。1907年に長岡で創業し、116年もの歴史を持つ会社はどのようにして日本国内唯一の雪上車メーカーとなったのでしょうか。また、南極の観測隊員として向かう社員は、長期間の旅路でなにをしているのでしょうか。実際に南極で使われていた雪上車を案内いただきながら、お話を伺いました。

 

「雪国の暮らしに貢献したい」
鋳造メーカーが抱いた大志

1907年にさく井(井戸を掘ること)関係機械部品の鋳造メーカーとして創業した大原鉄工所。長岡ではかつて原油が産出されていたことから掘削用のポンプや掘削機を主力商品として成長し、その後はバイオガスや排水処理など環境分野で多角的な事業展開を続けています。その中で、異分野である雪上車の製作にチャレンジしたのは、雪国で暮らしてきた人々の経験と、冬の暮らしをなんとかしたいという熱い思いからでした。

「戦後にさかのぼりますが、当時は今ほど除雪体制が整っておらず、雪の中での暮らしが大変でした。特に山間地では冬場の交通手段がないため、新潟県から山間地でも使える車両を開発してほしいと依頼を受けたのが雪上車メーカーとしてのはじまりです。昭和20年代後半、すでにこの周辺には工業関係の会社が集積しており、近隣の会社にも依頼をしていたものの、難航していたようで大原鉄工所にも声がかかりました。当時会社を率いていた代表自身も冬場の雪国の暮らしを何とかしたいという強い思いを抱いていたこともあり、『チャレンジしてみよう』となったそうです。

社内で伝え聞いた話ですが、兵器処理委員会(※1)から戦車の残骸を譲り受けて参考にしたり、東京で関連書籍などの資料を集めながら開発を進めていたそうです。ノウハウゼロから設計して実際に動かすまで想像もつかない道のりだったと思いますが、着手してから半年ほど経った1951年12月に、試作1号である『吹雪号』ができました」

※1 当時の商工省、現在の経産省が管轄していた、旧日本軍の残存兵器の廃棄や処理を担当する組織。

経営本部 総務部 総務課 課長の大平理世さん。会社の歴史はもちろん南極事業についても詳しい。

元々は他の大手メーカーも雪上車を手掛けていましたが、国内における雪上車の市場規模が大きくないこともあって撤退していき、現在は大原鉄工所が雪上車の唯一の国産メーカーとなりました。大原鉄工所も環境分野と車両分野を手掛けていますが、会社全体で見ると環境分野の事業がメインで、スキー市場の縮小傾向もあって雪上車の売り上げは右肩下がりです。雪上車をとりまく条件はそう楽観視できませんが、大手が撤退する中でも唯一の雪上車メーカーとしてものづくりを行うことに、大平さんは意義を感じていると言います。「雪上車に関わりたい」と入社してきた社員の方々も多く、南極事業のマネージャーを務める椿哲也さんもそのひとりです。

技術・製造本部 第1技術部 製造設計1課/南極事業プロジェクト マネージャーの椿哲也さん。栃尾地域の出身で、豪雪と共に育った。

「私は栃尾で生まれ育ちましたが、雪が3メートルくらい積もっているのは当たり前で、除雪も当然間に合わないので、子どもの頃は雪をかきわけながら学校へ登校したこともありました。ある日、学校から雪上車に乗せてもらって帰宅したことを憶えています。ずっと好きだった機械や乗り物に携わる仕事をしたいなと思っていたら、高校生の頃の企業見学で大原鉄工所と出会いました。あの乗り物を地元の長岡で作っていたんだと驚きましたね。

最近は気候変動や環境問題への意識が世の中的にも高まっているので、そういった分野をやりたくて入社してくる人も多いです。雪上車に関わるものもバイオ分野に関わるものもいますが、誰もが『うちの会社は南極に行く雪上車を作っているんだ』と誇りを持っています」

取材時に工場でちょうど作られていたゲレンデ整備用雪上車。新潟県下はもちろん、国内のあらゆるスキー場でゲレンデコンディションを整えています。

これまではスキー場のゲレンデ整備用雪上車を毎年10〜20台程度生産していましたが、新型コロナウイルス感染症の影響により、2021年、22年は途中で生産自体を止めてしまうほどのインパクトがあったそうです。他には自衛隊向けの車両や一回り小型の車両も合わせて年間40台ほどの生産数となり、30年前と比べると半減しています。スキー場そのものの数も減って厳しい部分もありますが、柱である環境事業は近年さらに伸びており、社内でもバランスを見つつ雪上車の事業を支えているのが現状です。

 

会社も家も離れて1年8か月…
南極観測隊員になるということ

日本を出発して戻ってくるまで1年4か月。平均気温マイナス20度の冬の南極大陸で生活し、科学観測データを取得する基本観測のほか、南極の環境で初めて可能となる研究観測を行うのも南極観測隊の仕事です。国の事業として65年以上にわたって観測隊が派遣されており、各省庁や研究機関、企業などが関わって観測の実地体制をつくっています。観測隊員は夏隊員と越冬隊員合わせて、一次につき80〜90名ほどが参加(2023年現在活動中の64次隊は越冬隊28 名、夏隊48 名の計76名で編成。このほか、教育関係者や報道関係者らが同行者として夏隊19名が参加し、総勢95名)していますが、越冬隊のメンバーの中には、雪上車の担当としていつも名前が入っている企業があります。それが、長岡の大原鉄工所です。南極の越冬隊員になった社員は、いったいどのような生活を送ることになるのでしょうか。

そもそも、最初から南極のスペシャリストである社員はいないため、そのコンバートは少しずつ“匂わせ”ながら行われるのだとか。

「いつのまにか通常の雪上車でなく南極雪上車の組み立てに携わるようになったり、北海道などに長期出張に行くようになったりとだんだん『南極寄り』にシフトしてきて、そこで本人も認識していきます。最近は自ら志願して、社内の審査を受けて候補になるシステムもできてきています」そう話すのは、越冬隊としてこれまで3回南極へ行った営業本部 サービス営業部 車両サービス課の桑原新二さん。大原鉄工所は1976年の第18次南極地域観測からほぼ毎年参加しており、南極経験者は延べ40人以上になります。

人手が要るような大きな作業は周りの人にも手伝ってもらいながら行うものの、南極での観測期間中、雪上車のことに関しては大原鉄工所からの参加者が責任者となります。社内でも圧倒的な参加回数を誇る古見直人さんは、越冬隊への参加は今回で6回目となり、社内ではレジェンドと呼ばれる存在。第64次南極地域観測隊員として、2022年11月〜2024年3月の期間で観測に参加しています。今頃は南極の昭和基地にいるかもしれません。

▼参考 レジェンド、古見さんの南極での様子はこちらから

日本の南極地域観測事業を支える企業たち 第14回 株式会社大原鉄工所 〜日本の南極観測事業を雪上車で支える〜(その1)|日本極地研究振興会

第64次南極地域観測概要|国立極地研究所

内陸遠征中に故障した雪上車を修理している様子(45次隊)  提供:国立極地研究所

日本を出てまた日本に帰るまでの期間は、夏隊で約4か月、越冬隊は1年4か月となりますが、大原鉄工所はほとんど越冬隊で参加しています。越冬隊は、まず東京の国立極地研究所の職員になって(※2)、南極入りの準備を行います。民間からの参加者は7月1日から準備がはじまって11月に日本を出発する流れとなり、家と会社を離れている期間は、実に1年8か月にのぼります。

※2 行政機関・研究機関などからの派遣と違い、民間企業からの場合は一時的に「出向」という形で公務員になる。

南極へ3回行った営業本部 サービス営業部 車両サービス課の桑原新二さん。南極で過ごした時間は計4年間にもなる。

車両サービス課の桑原新二さんがはじめて越冬隊に参加したのは、30年前の34次隊でした。当時25歳だった桑原さん、期待や希望もあるけれども不安もものすごく大きかったと語ります。しかし自分の仕事が認められたからこそ選ばれている嬉しさもあり、南極での大冒険へ身を投じていきました。

1991年から活躍している代表機種「SM100S」の内陸遠征中の様子。南極観測のWebサイト内の写真のあちこちで、この鮮やかなオレンジの車体の雪上車が活躍する姿を見ることができます。 提供:国立極地研究所

4か月の事前準備から日本を出発して1年4か月間、雪上車担当は以下のような流れをたどります。

「まず事前準備として国立極地研究所に勤務し、現地で使う機械の部品や消耗材などの調達をします。自分たちで業者とコンタクトを取っていくことからのスタートです。そこで1年4か月の期間、雪上車が元気に過ごすための準備をしっかり行います。

さらには、それ以外にも専門家がいない分野もいろいろとあるので、基地で使う燃料やエンジンオイルの準備など、雪上車以外のことも担います。それ以外でも、例えば現地にあるブルドーザーは、以前はメーカーの方が参加していたのですが今は現地に入らないため、こちらのカバー領域になります。近年は車両を担当するポジションとして大原鉄工所といすゞ自動車から参加しているので、その2人で車両関係の仕事を分担しながら、建設機械の部品を調達します」

越冬隊の中でも業務は観測担当と設営担当で大きく二手にわかれており、設営担当者は1年以上の期間ずっとライフラインのメンテナンスをしながら基地を運営していきます。雪上車の部品だけにとどまらず、南極観測隊員として全体を俯瞰しながら、南極生活に備えていく。自分の所属の枠にこだわらず、ひとつのチームとして補い合う姿勢が求められると桑原さんは言います。

「設営担当の20人ほどで全てを見るため、自分が雪上車のところから来てるからそれだけやればいいとは言っていられません。観測隊員に入ればどこの会社の人間だということは関係なく観測隊の仕事が優先になるので、雪上車が1台壊れていても、他に優先度の高い整備があればそちらに取りかかります。20人の中には調理担当や医師も含まれているので、実際に機械を触る人は数人程度。また、観測で内陸に行くグループもいて基地に残る人は減っていきますので、幅広いスキルが必要になります。また、外に出て仕事をするには、まず除雪から始まるので(笑)雪上車の修理の時間よりも何よりも、除雪している時間が一番長いなんて言う人もよくいますよ」

昭和基地周辺で雪に埋まった燃料タンクを掘り出している様子。(51次隊) 提供:国立極地研究所

 

代表機種の「SM100S」の内部。6畳超えの空間に、数週間の観測と生活のための必要物資が詰め込まれます。

 

南極観測隊員は自分の担当に関わらず全員が雪上車を運転するため、現地で全員参加の運転講習があるそうです。

ほとんどの人がなかなか行く機会のない南極大陸。ましてや過酷な極地での生活ですから、もちろん楽しいことばかりではありません。南極大陸で計4年もの時間を過ごした桑原さんも、私たちの日常では考えられないようなさまざまな経験をされたようです。

「日本の南極観測隊がいる昭和基地のある場所は、大陸ではなくて島なんです。大きい車両は海に氷が張っているタイミングでその上を走らなければならないため、しょっちゅう行き来できません。大きな雪上車は何台も大陸側に置いたままにしてあるので、その拠点で1週間ぐらい滞在しながら雪上車の整備をすることが年に何回もあります。

ある整備のタイミングで、みんなで1台の雪上車の中でくつろいでいたときのことですが、私が食事を作る当番だったので、食料を置いてある隣の雪上車に移動しようと外に出たら、突然凄まじいブリザードになっていたんです。元々天気は悪くなかったのですが、自分の手のひらも見えないぐらいで、10メートルほどしか離れていないのに大きな雪上車が見えないんです。

そろそろ着いてもいい頃だなと思って手を伸ばしたら雪上車に何とか掴まることができたのですが、まっすぐ歩いたつもりだったのに数メートル風下まで押されていました。もう少し風下に流されていたら雪上車にたどり着けなかったかもしれない、という怖い思いもしました」

社屋入り口すぐにどどん!と置かれているのは南極の石。なんと5億年前の石なのだそう。

現地の話を聞いていると遠い別世界のようですが、南極事業プロジェクトのマネージャーの椿さんは実は南極に行ったことはないものの、長岡で南極事業を支える身で実感していることとして、現地の通信環境の変化によって距離感が変化したことも話されていました。当時は衛星電話で日本と昭和基地の間が1分900円ほどかかっていたのですが、それが今や、東京の極地研究所と昭和基地の間が内線のような扱いで通話でき、自身も南極をより身近に感じるようになったそうです。

 

より快適な時間のために、
大胆に進化した新型南極雪上車

従来のイメージを一掃するデザインの新型南極観測用雪上車【OHARA-LAV】は2021年度のグッドデザイン金賞も受賞。

年に1台つくるかつくらないかの南極観測用雪上車。決して数は多くないものの、大原鉄工所の誇りを背負って活躍してきた、オレンジ色の車体が印象的な代表作「SM100S」でしたが、2021年には新型の雪上車が登場。近未来的な外装に、木の壁がまるで家のような安心感を与えてくれる内装で、これまでの雪上車のイメージをがらっと一新しました。

「南極観測用雪上車は、この中で生活しながら移動する『動く基地』なので、快適にすることに手間をかけています。特殊車両であるがゆえに、生産台数の影響をあまり受けないからこそできた仕様です。従来型を使ってきた30年の間に、世の中は大きく変わりました。そのため、空白期間を経てまた作るとなると、部品が手に入らなくなるんです。例えばエンジンがモデルチェンジしてしまったとか、エンジンを制御しているコンピューターも手に入らないとか。そういった中で作るとなると、あちこちに変更を加えていくことになります。そろそろ全体を一新した方が将来に繋がるだろうという意図で新型を開発しました。

大きくチェンジしたデザインは、デザイナーにいくつか案を出してもらった中で社内で揉みました。従来型の延長では関心も引きにくいので、斬新なものにしようとは最初から考えていて、現地で目立たないと居場所を見つけてもらえないので、南極の自然の中にはないような明るいグリーンにして、雪がつきにくい形状など工夫をこらしています。また、従来より一回り大きくなりました」(椿さん)

従来の雪上車の場合、行動時は一台に2人程度で乗車し、何日間にもわたって基地から離れての遠征となりますが、食事のタイミングでは別の遠征メンバーと合流し、全員が1台の車両に集まって食事をすることもあるそうです。そういったとき、新型の雪上車は車内がより広くなったことにより、窮屈な思いをせずに快適に食事をとったり、ミーティングしたりも可能となりました。

内陸観測は一度出発すると1日や2日で戻ってくるわけではありません。短くても2週間、通常はおおよそ1か月程度は雪上車の中で過ごすため、快適に過ごせる空間づくりを重視した新型開発となりました。従来の雪上車は室内の高さが170センチほどでかがむ必要がありましたが、新型では2メートル以上の高さを確保しており、開放感がぐっと向上しました。

木の温もりを存分に感じる車内は用途に応じてカスタマイズ可能。窓の外はマイナス60度の世界が広がっていることも⁉︎

例えばテーブルや棚を置いてもいいし、シンプルに広い空間としても使えます。観測隊の年次によって観測機材ややり方は変わるので、南極から一度引き上げた雪上車を整備し再稼働させる場合でも、車内の仕様に対する注文が違う場合もあります。南極雪上車は毎回が特注となるカスタムありきのものなので、新型はとにかく広い空間を確保することがコンセプトとなりました。

この新型はいままさに南極で活動中で、1〜2週間の内陸遠征に出かけて南極での実績を積んでいるようです。南極観測隊の新しいホームとなった新型雪上車の、ますますの活躍に期待が高まりました。

インタビュー後、工場内を案内いただいている際に、雪上車の製造担当であり、第53次・61次南極地域観測越冬隊員として参加した倉本大輝さんにもお話を聞く機会がありましたが、こんなことをおっしゃっていたのが印象的でした。

「私は南極に行きたくて大原鉄工所に入社しました。念願かなって実際に観測隊に参加すると、1年4か月もの間、家を離れて極地まで行って大変な思いをして……あんなに大変な日々はもうたくさんと思うのに、帰ってきてしばらくすると、すぐにまた南極へ行きたいと思ってしまうんですよね。他では経験できないこの仕事に取り憑かれていると言いますか……南極中毒なのかもしれません(笑)」

地球の極地で観測に挑む南極地域観測隊。彼らが過酷な環境での任務に打ち込めるのは、雪上車というホームがあるからかもしれません。そのホームが機能するように支えているのは、雪国での生活をよりよくしたいと願うところから始まった、国内唯一の雪上車メーカーのロマンでした。今この瞬間も、遠い南極では観測隊員を乗せた大原鉄工所の雪上車が、そのロマンとともに雪原を疾駆しているに違いありません。

 

text & photo:な!ナガオカ編集部

 

●インフォメーション

株式会社大原鉄工所
所在地:〒940-0021(個別番号〒940-8605)新潟県長岡市城岡2−8−1
主な事業内容:環境事業(バイオガス発電設備、廃棄物リサイクル設備 等)、車両事業(雪上車の開発・設計)
電話番号:0258-24-2350
Webサイト:https://www.oharacorp.co.jp/

 

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