川と生き、山と暮らしてきた人々の息遣いが聞こえる。謎の民謡「天神ばやし」を追って(前編)
新潟県長岡市・川口地域。かつては隣接する小千谷市や魚沼市とともに「北魚沼郡」を形成し、2010年に長岡市に編入されたのちもある種の「飛び地」のような形で、中心部とは違った独自の生活文化を紡いできた地域である。
この地域に、「天神ばやし」という民謡が伝わっている。2014年に長岡市が「地域の宝」と銘打って保全を目指している伝統文化のひとつではあるが、川口以外の地域出身である編集部メンバーも誰ひとり「どんな歌なのかわからない」と口を揃える、謎の行事だ。「飲み会で歌うらしい」「どうやら川口の中でも集落によって歌い方が違うらしい」という断片情報だけは入ってくる。インターネットにはそれらしい動画もあるが、やはり歌というものはつくられ、歌い継がれてきた場所に行かなければ、本当にどんなものかはわからない。
そこで今回、日本各地で地域の生活文化と音楽の関係について取材・執筆を続ける文筆家・大石始さんの特別寄稿により、「天神ばやし」の謎に迫ることにした。まずは、その前編をお送りする。
中越地方の山間部に
今でも伝わる「祝い唄」
中越地方の一部の地域では「天神ばやし」という祝い唄が歌われていて、長岡の川口や十日町の宴会ではみんなで歌うらしい――あるとき、そんな噂話を聞いた。「天神ばやし」と聞くと脳内で「天神囃子」と変換され、祭囃子のようなものを連想してしまうが、ここで言う「天神ばやし」とは集団で歌う祝い唄であって、大きく分類すれば民謡の一種となる。
YouTubeで検索をかけると、長岡市川口や十日町、小千谷などさまざまな地域で撮影された天神ばやしの動画を観ることができる。そのなかには噂どおり宴会の場で男たちが朗々と声を重ねているものもあれば、上棟式で大工たちが歌っているものもある。いずれも一斉に合唱するのではなく、複数でパートを分け合う掛け合い歌の構成になっていて、最後にシャンシャンシャンと手拍子で締めるのが慣わしのようだ。
中越地方に限らず、かつて私たちの暮らしのなかではさまざまな歌が歌われた。社会の変化とともにそうした歌の多くが失われるか、あるいは保存会のような継承団体で歌われるようになったが、中越地方ではまだ暮らしのなかで天神ばやしという民謡が歌われているのだ。なんと素晴らしいことだろうか。
聞くところによると、天神ばやしは長岡市でも小千谷市を挟む飛び地である川口では歌われるものの、長岡市中心部で歌われることはないという。では、天神ばやしは長岡でもなぜ川口だけで歌われてきたのだろうか。歌の背景にはどのような物語が存在しているのだろうか。そして、現在の川口で天神ばやしはどのように伝えられているのだろうか。天神ばやしという少々謎めいた歌に迫るべく、冬の川口を訪れた。
「御門」に「知行」に「旦那様」…
謎のキーワードは何を指すのか
新潟県のほぼ中央に位置する長岡市川口。2010年に長岡市へ編入されるまでここは「川口町」であり、1957年に町制施行される以前は「川口村」であった。北は寺泊、南は高崎まで伸びる三国街道の宿場町であり、信濃川と魚野川の合流地点にあたることから水運の拠点としても栄えた。
2004年10月に発生した新潟県中越地震では震源地となり、多くの家屋が倒壊・半壊するなど大きな被害を受けた。長岡市への編入もこの中越地震が遠因となっており、のちに触れるように川口の歴史においてこの中越地震がひとつの分岐点となった。
まず、そんな川口の相川集落に住む栗原里奈さんにお話を伺った。栗原さんは千葉県松戸市出身。東日本大震災後に東京で子育てをするイメージが持てなくなったため移住先を探していたが、「中越地震を乗り越えてきた川口の人たちの強さに惹かれた」ことから川口を移住先に選んだ。彼女は天神ばやしについてこのように証言する。
「天神ばやしはそろそろ宴会を締めるか、というときに歌うんです。宴会といってもプライヴェートで集まるときにはあまり歌わなくて、地域の行事で歌う感じですね。それが通年上、習慣になっているから歌っているんだと思います」
天神ばやしは上棟式や結婚式のほか、小正月に行われる塞の神まつりなど地域の行事でも歌われるという。地域のオフィシャルな場、いわばハレの場で歌われることが多いようだ。
「昔は稲刈りもみんなでやっていたし、共同作業が今以上に多かったと思うんですね。そういうときの打ち上げでも天神ばやしを歌ったと思うんですよ。今も飲み会の途中で歌うのはその名残りなのかもしれませんね。何かを始めるときに歌うんじゃなくて、何かが終わったときに歌う。そんな気がしますね」
では、天神ばやしの歌詞とはどのようなものなのだろうか。十日町や小千谷など地域によって歌詞が異なるが、ここでは長岡市西川口集落のものを抜き出してみよう。
(1)めでたい これの お台所 お台所
お釜七ツ八ツ 後やろに 倉がャ 九このつ
七ツ八ツ 後やろに 倉がャ 九このつ(2)御門の上に うぐいすが うぐいすが
これの旦那様 知行や増せ 増せとや さーやずる
旦那様 知行や増せ 増せとや さーやずる(3)白銀 銚子に 黄金酒 黄金酒
注いで 廻せばや角やずみ 光りや かァがやく
廻せばや角やずみ 光りや かァがやく
西川口集落では2番までがほとんどで、3番を歌うことは少ない。ただし、集落によっては次の歌詞を歌うところもあるという。
めでたい ものに 大根(だいこ)種 大根種
花が咲いてから みのりて俵重なる
咲いてから みのりて俵重なる
いずれもちょっと謎めいた歌詞である。武士に支給される領地である「知行」とは何を指していて、旦那さまとは誰のことなのか。そして、大根種とは? こうしたいくつかの謎についてはこの記事の後編で掘り下げるとして、ここでは天神ばやしが現在どのように歌われているのか、もう少し探ってみたい。
みんなとともに歌うことで
「地域の一員になれる」感覚
栗原さんもまた、相川集落で暮らすなかで天神ばやしの歌の輪に加わるようになった。天神ばやしを歌うときに胸のうちに込み上げてくる感覚について、彼女はこのように話す。
「天神ばやしは10年前に越してきた当時からあちこちの集落で耳にはしていました。厳かな気持ちになるんですよ、姿勢を整える感じというか。最初は(歌詞の)内容もわからなかったんですけど、歌っていると地域の一員になったような気持ちになれるんです。相川集落なら相川のひとりになれたな、という感覚。他の集落で歌っても『自分が受け入れられた』という感覚になるんです」
天神ばやしはひとりで歌うものではない。複数の人数で声を重ね、息を合わせることに意味がある。かといって「歌えないと地域の一員として認められない」という通過儀礼的なものでもない。現在、川口でも若い世代の多くは天神ばやしを歌えないそうで、後述するように継承の危機にあるともいえるだろう。
栗原さんが川口で結婚式を開いた際、参列者が声を合わせて天神ばやしを歌ってくれたのだという。「嬉しかったですね、そのときは」――栗原さんの言葉には確かな実感がこもっていた。移住先の集落から歌によって祝福されたのだ。祝い唄の持つ現代的な力を感じさせるエピソードである。
ちなみに、天神ばやしは決して昔ながらの地域行事だけで歌われるものではない。新潟大学名誉教授である伊野義博の著作『新潟〈うた〉の文化誌』にはこんなシーンも綴られている。天神ばやしは、宴の席には欠かすことのできない存在となっています。その有り様は地域によって異なるようですが、普通この〈うた〉が出ることによって、参会者は席を移動してお酒をつぎ合ったり、話に花を咲かせたりすることが了承されるのです。
また、会の終了を告げる〈うた〉となったりもします。ある宴席で、その年に転勤してきた人が、乾杯後の挨拶のためにお銚子を持ってお酒を注ぎに回ろうとし、「まだ天神ばやしが出ていない」と大きな声で上司に叱責されたと聞きました。転勤族にとっては土地の天神ばやしを歌えるようになり、宴席での〈うた〉の位置づけを理解することが、コミュニティーの仲間として認められる物差しのようなものにもなったりするのです。(伊野義博『新潟〈うた〉の文化誌』)
天神ばやしを歌えるということは、転勤したてのサラリーマンにとって必須スキルになることもあるのだ。同書は2013年に刊行されたものであるため、こうしたシーンもまた過去のものになりつつあるかもしれない。だが、比較的近年まで民謡がこのようにリアルな役割を担ってきた例は、全国的に見ても決して多くない。実に興味深い事例といえるだろう。
声を合わせ、息を合わせ、ともに生きる。
担い手が語る「天神ばやし」の本質
続いてお話を伺ったのは、西川口集落に住む小宮山正久さんと田麦山集落の桜井兵治さん。西川口で建築事務所を営む小宮山さんは地元・西川口小学校の生徒にも天神ばやしの指導しており、同地の天神ばやし復興の中心人物である。小宮山さんはこう話す。
「私は20代のころ親父から建築の商売を受け継いだんですが、昔から家を建てる上棟式のときには必ず天神ばやしを歌っていました。ですので、一般の方よりは天神ばやしを歌う機会は多いとは思います。ただ、長岡でも中心部のほうでやると『なんだ、この歌は?』という感じなんですよ。馴染みがないんですね。『これは川口の祝い唄なんです』と説明することもあります」
小宮山さんの家は建築事務所を家業としてきたことに加え、親戚が多く、小宮山さんもまた結婚式などハレの場に立ち会う機会が多かった。そんなこともあって、小宮山さんは幼少時代からたびたび天神ばやしに触れていたという。「私も(子供のころから)歌っていたようです。それでおこづかいをもらっていたみたいですね(笑)」と小宮山さんは笑う。
小宮山さんによると、最初に天神ばやしを歌い始める者のことを「一番取り」と呼び、続く者を「二番取り」と呼ぶという。小宮山さんの言葉を借りれば「二部合唱であり、掛け合い歌」。一番取りは盆踊りにおける音頭取りのようなものであって、リードシンガーともいえるだろうか。どの地域でも一番取りを務める人物は決まっていて、西川口の一番取りは小宮山さんが長年務めている。やはり一番取りは集落で一番歌がうまい人物が務めるのだろうか? そう訊ねると、小宮山さんは「いやいや、そういうことじゃないと思いますよ(笑)」と謙遜しながらこう続ける。
「うちはもう祖父の代から一番取りなんです。建築をやってるもんだから、自然と一番取りをやるようになったんですよ。上棟式のときは棟梁が歌うものとされているので」
とはいえ、一番取りの責任は重大だ。歌い出す人物がうまくないと、続く人々の調子が出ない。言い換えれば「ノリが出ない」のだ。小宮山さんはこう言う。
「ノリが大事なんですよ。一番取りはキーが大事で、最初から高く歌いすぎると、後が続かないんです。『できるだけ低めに歌えよ』というんですけど、緊張しちゃうと高い声になりがちなんだよね」
声を重ね、ノリを整え、息を合わせる。そうしたなかで連帯感が生まれていく。天神ばやしとは単なる歌ではなく、人と人を繋ぐための接着剤のようなものなのかもしれない。
「口伝」ゆえに立ちはだかる
研究や保存の手がかりの少なさ
目の前に一枚のCDがある。タイトルは『えちごかわぐち 天神ばやし』。2002年3月に制作されたもので、ここには川口町(当時)の10集落それぞれの天神ばやしが録音されている。20年以上前の録音ということもあって、今では存命ではない歌い手も多く、その意味でも貴重な音声資料といえるだろう。西川口集落の一番取りは小宮山さんの叔父が務めているが、その方もすでにこの世を去っている。
このCDを聴いていると、同じ川口といっても集落ごとに歌い回しが異なることに気づく。小宮山さんも「川口は地域によって歌い方が違うんです。文句はほとんど一緒だけど、節回しが多少違うんですよ」と話し、その理由をこう説明する。
「川口は天神ばやしの保存会がないんですよ。保存会で統一した歌い方が定着しているわけじゃないので、地域ごとに歌い方が違うんです。西川口の場合、最後のフレーズをぐっと持ち上げて終わります。昔からそういう形で歌ってたもんだからね」
川口全体の保存会はないものの、西川口集落には小宮山さんがリーダーを務める同好会があり、現在15人前後のメンバーが参加している。年齢層は40代から70代まで。小宮山さんいわく「それでもうちは若い方だかわかんないよ。90歳近い人が一番取りをやってる地域もあるから」という。
また、新潟県民俗学会の会員でもある桜井さんは、田麦山集落の天神ばやしについてこう話す。
「田麦山でも家を作ったときは必ず天神ばやしを歌います。正月には集落の新年会があるんですが、そこでも歌いますね。田麦山に限らず、このあたりには巻(マキ)というものがあるんです。昔の五人組みたいなもので、巻親(マキオヤ)というものがあって、そこで新年会をやるんですよ。そのときもやっぱり天神ばやしを歌います。歌の得意な人が一番取りをやって、みんながそれについていく。中越地震のころから廃れてきたんですけど、それまでは巻の年始、部落の年始では必ずやっていました」
「巻」について補足しておくと、小千谷市史編修委員会・編『小千谷市史 上』にはこのように書かれている。
村にはどこでもマキ(巻)と呼ばれる同族団が形作られていた。マキは本家を中心とし、同じマキに属する家同士の間をマキウチ(巻内)と言い、本家をマキオヤ(巻親)という。(小千谷市史編修委員会・編『小千谷市史 上』)
巻は同族神を祀り、同族祭祀をおこなった。また、同書に「困窮したマキウチの家を助けるために、マキ講という無尽がおこなわれることもあった」と書かれているように、経済的に助け合う相互扶助の関係でもあった。地域コミュニティーというよりも、より繋がりが深い「ファミリー」と言ったほうが正しいだろう。そうした濃い繋がりの場でも天神ばやしが歌われたわけだ。
ただし、幼いころから天神ばやしを歌い続けてきた桜井さんや小宮山さんであっても、この歌がどこからやってきたのか、はっきりとしたことはわからないという。桜井さんはこう話す。
「県の民俗学会でも民謡の研究者は少ないんですよね。天神ばやしは中世からの流れがあると言われているんだけど、なかなかそれを調べることもできないんです。なにせ口から口へと伝えられてきた歌だから、文献のようなかたちで資料が残っていなくて」
天神ばやしはあくまでも庶民の暮らしのなかで歌われてきた歌である。親から子へ、子からその子へ。バトンを繋いでいくかのように歌が手渡されてきたのだ。しかもそのバトンは譜面のようなかたちではなく、誰かが実際に歌ったものを通じて伝えられてきた。それは民謡本来の継承のかたちでもあるわけだが、口伝の無形文化だからこそその歴史は明確ではないのだ。川口だけでなく、十日町や小千谷でもそれは変わらない。
先ほど「めでたい ものに 大根種 大根種」という歌詞を挙げたが、西川口や田麦山では現在この歌詞は歌われていない。継承のバトンが途切れていない集落であっても一部の歌詞はすでに失われているわけだ。小宮山さんは「でもまあ、何とか天神ばやしだけは残ったからね」と話し、こう続ける。
「天神ばやし以外にもいろんな歌があったんですよ。親父もそういう歌をよく歌ってましたけど、もう歌う人がいないから忘れちゃいました」
そう言い、「残しておけばよかったのにね」とつぶやいた。その言葉には川口の地に長年生きてきた小宮山さんならではの無念の思いと、「でも、どうしようもなかったんだ」という諦念が混ざり合っているようにも思えた。
継承の危機に晒される地域芸能。
今考えるべきその意義とは何か?
現在、日本各地の地域コミュニティーを土台として伝えられてきた伝承歌や芸能の多くが継承の危機に晒されている。もちろん、川口の天神ばやしも例外ではない。小宮山さんは、その背景に2004年10月の新潟県中越地震があったと話す。
「中越地震から変わったんだよね。天神ばやしを歌っている状況じゃないということで、みんな自重するようになった。みなさん家は建てるんだけど、餅まきも自粛するようになってね。そのころから天神ばやしも下火になったんです」
中越地震の際、家屋が倒壊した住民のなかには他の地域へと移り住んだ者も少なくなかった。「確かにそのころ一気に人口は減りましたよね」と小宮山さんは話す。中越地震以降の自粛ムード、住民の減少。ふたつの要因がダブルパンチとなって、天神ばやしの継承に黄色信号が点滅し始めたのだ。
西川口集落では古くから盆踊りが行われていて、小宮山さんの家系は長年音頭取りを務めてきた。だが、その盆踊りもまた衰退著しいのだという。
「昔は踊りの輪も五重六重になって、すごい盛り上がりだった。でも、今は人が集まらないんですよ。いくら真剣に太鼓を叩いても踊る人がいない。子供たちはみんな携帯をいじっていて、太鼓が鳴ったって燃えないわけさ。みんな準備してせっかく櫓を立ててもそんなだからね。張り合いがない」小宮山さんのその言葉は悲しみをまとっていた。それでもなお「天神ばやしと同じように盆踊りも残したい」――小宮山さんはそう語気を強めた。
「お盆に太鼓がないというのは寂しいからね。われわれの目が黒いうちは太鼓の音を絶やすな、と言ってるんです。やめるのは簡単なんですよ。今年でもうやめよう、そう決めればいいだけだから。でも、これまで先輩たちが繋いできてくれたのが一瞬にしてなくなってしまう。一度やめたら、そう簡単には復活できないんですよ」
2014年、長岡市の各地域委員会は地域資源を選定し、それらを「地域の宝」と名づけた。川口で選定されたのは3つ。天皇皇后両陛下が植樹されたお手植え会場を含む川口運動公園一帯、魚野川と信濃川の河川空間、そして天神ばやし。長岡市のウェブサイトでは「地域の宝」の定義として「未来を担う子どもたちが参加できる」「地域がひとつになれる」などを挙げているが、天神ばやしはその定義にぴったりな地域資源といえるだろう。
先述したように小宮山さんは地域の小学生にも天神ばやしを教えており、2020年に天神ばやしを教えた際には、子供たちからの感謝状が手渡された。小宮山さんもまた「みんな喜んで歌ってますね。また、覚えが早いんですよ」と目を細める。
相川集落へと移住した栗原さんのように、近年、県外から川口へやってくる若い世代も少なからずいるという。そうした移住者から「私も天神ばやしを歌いたいです」と言われたら? 小宮山さんにそう訊ねると、小宮山さんは「もちろん大歓迎ですよ」と即答した。栗原さんがそうだったように、地域住民と天神ばやしを歌うことで、自分が地域社会の一員として受け入れられたという実感を持つことができるだろう。そもそも移住者にかぎらず、地域のなかで異なる世代が何かを共にするという機会は現在それほど多くない。だが、天神ばやしはその貴重な場となり得る。
そもそも天神ばやしは美声じゃないと参加できないというものではない。酔いどれだろうと音痴だろうと参加することができるのだ。それもまた天神ばやしの懐の深さである。何よりも「参加することに意義がある」歌なのだ。
では、そんな天神ばやしはどこからやってきたのだろうか? 後編では歌詞や資料に残されたものをヒントにしながら、川口のホームソングというべき天神ばやしの謎に迫ってみたい。
参考文献:
伊野義博『新潟〈うた〉の文化誌』(新潟日報事業社)
CD『えちごかわぐち 天神ばやし』(川口町役場 企画商工課)
小千谷市史編修委員会・編「小千谷市史 上」(国書刊行会)
Text:大石 始/Photo:池戸煕邦(栗原さん提供分以外)