この街を出ていく人へ――かつて故郷を捨てた女社長が描く“希望の街”とは・前編
「いいよ、私の顔は。まだ少し慣れてないというか……どうしていいかわからないから」
まだ寒さの残る新潟から、少しずつ冬の匂いが消える頃。何度かレンズを向けるものの、彼女は決まってそう言って顔を背けた。
関花代さん。弱冠37歳にして、長岡市で商業プロデュース、事業コンサルティング、起業・独立などの支援アドバイスと併せて花屋、レストランなどを運営する合同会社「花越後」を率いる女性社長だ。高校中退後に福岡での修行を経て長岡に戻り、バーテンダーとして自分の店を構えたのを皮切りにフラワーショップ、イタリアンのレストラン、そして焼肉店にも挑戦する意欲的な経営者。トレードマークの金髪と持ち前の明るさで、街中のどこを歩いていても知り合いに声をかけられない時はない人気者でもある。
そのバイタリティと、人を惹きつける魅力はどこから来るのか? そんなことを知りたくて、市内の喫茶店「キャラメルママ」で偶然出会った花代さんに取材を申し込んだ。最初は、それくらいの気持ちだった。
「街になかったタイプの店」が揃う場所
長岡市山田。中心街を少し外れた住宅街の真ん中に、花越後のオフィスと花代さんが経営する二つの店舗、フラワーショップ「リアン」とイタリア料理店「カルネ」が入った建物がある。
待ち合わせたのは、同じ建物に入居する「GOOD LUCK COFFEE」。ここだけは花代さんの経営ではないテナントだ。
花代さんは店に入るなり店主の青柳さんに「おっす! 調子はどう?」とフランクに声をかける。大家と店子というよりは、なんだかチームメイトのような雰囲気だ。
「このスペースはそもそも誰かに貸すとかいうつもりじゃなかったんだけど、青柳くんが来た時、“この子には何かある”と思ったんだよね〜。目の輝きというか、やっぱり、意志の強さみたいなものが違うなと思って。実際、お互いのお客さんが行き来するいいきっかけになってるし、また一段とこの場所をよくしてくれたと思ってる」
そう語る花代さんはしかし、しっかりと人を見極めた上でお互いにリスクとメリットを取ることのできる「経営者」の言葉を使う。ただのフランクな姉御肌ではない。
その眼力は、この、お世辞にも便利とは言えない場所にオープンした「リアン」が、この3月で満7年を迎えたという結果にも表れている。
このお店を店長として仕切るのは、フローリスト・清水美穂さん。お隣の小千谷市のフローリストに弟子入りしたのちパリで修行を積み、帰国後、長岡のフラワーショップで働いていた。もともとお互い顔見知りだったという花代さんだが、最初から花屋をやろうと思ったわけではなく、彼女のセンスに惚れこんで“人ありき”で作ったのがこの店だ。
「自分が福岡から帰って来て、こっちでバーをやるのに生花が必要だなと思って美穂に頼んだら、すごくセレクトのセンスがよくて。これはちょっと長岡のレベルではないな、と。それで、彼女のセンスを入れる場所を作りたいと思ったの。
当時はこのへんにはお店も何もなくて、“こんな所で花屋なんて無謀だ”と周りには言われた。長岡じゅうを見渡しても、花屋といえば本当にいわゆる“町の花屋さん”か胡蝶蘭をバーっと置いてる飲み屋御用達のような、いわば土着的なお店で、こういうスタイルは初めて。でも、だからこそ、これは絶対に伸びるという確信があったんだよね」
地域の事情に合わせるだけでなく、まだ地域にないもの、そして何より自分が惚れこんだものを生かす場を作るという発想でオープンさせたリアンは、今や市内のみならず、新潟市からもオーダーが入るようになった。誰もが知っている高級ブランドの店舗から指名が来たこともあるという。
その奥に併設されたイタリア料理店「カルネ」もそうだ。
この建物は、もともと日榮という、長岡では知らぬもののなかった料亭の跡地。茶室なども備えた本格的な造りだったそうだが、中越地震をきっかけに廃業。放置状態だった建物を花代さんが引き受け、現在のように蘇らせた。
「大変でしたよ〜。すごくいい建物だったんだけど、荒れてしまってたから。でも、当時のいいものはそのまま残したくて、梁や柱など、使える部分はそのまま。新しく作った造作も、ピカピカにおしゃれにしてしまうのではなく、その雰囲気にマッチするような古材を選んだりしてね。
そのお陰か、若いお客さんだけでなく年配の方にもリラックスしてもらえる場所になってるみたい。ときどき『もう50年も前、ここで結納したんだよね。復活して嬉しいよ』なんて言っていただくこともあって、こっちがびっくりすることもしばしば」
この2店舗と、前述したGOOD LUCK COFFEEによってこの建物に人の流れが生まれ、空間の記憶を残したまま、街に新しい価値が吹き込まれる。
「最近では年に2回、地域の方々を集めて“山田部”っていう企画をやってるんです。みんなで料理をしたり、木工とか花びらを使ったフラワーキャンドル作り、コーヒーのワークショップなんかもできる。こういうことを通じて、地域にもっと還元できたらいいですね」
そう語る花代さんは心からこの街を愛している、ように見える。しかし、その奥には、この街に対する語り尽くせない感情がある。
“普通”に苦しみながら育ってきた
花代さんには、幼少期の写真がいっさい残されていない。
「生まれてすぐ乳児院(さまざまな事情で家庭での養育が困難な乳児を養育し、里親などその後の相談や援助を行う施設)に入れられて、そのあとは児童養護施設で中学校まで。いわゆる、親なし子でした」
子供の頃は、いつも空を見上げて「なんで青は青って言うんだろう?」と自問自答していたという花代さん。人がなんの疑いもなく「普通のこと」としている物や環境を、自分は持っていない。いつも、「なぜ?」という気持ちと共に生きてきた。
「施設の職員さんには感謝しているし、普通に学校にも行かせてもらって、楽しいこともたくさんあったけど……やっぱり、“自分はみんなと違うんだ”という感覚が常にあったんだよね。例えば授業参観に親が来ないとか、そういう些細なことで。小学生や中学生の頃は仲のいい友達もいたけど、面白半分にいじめられたり、腫れ物扱いされることも多かったし。だから、本当に、人と接することや人前に出ることが嫌だった。あの頃のことは、今思い出しても、けっこうきついかな」
「我こそは普通」と思っている者たちが、意図しないにせよ投げかけてくる視線や言葉。そんな環境の中で、花代さんの「なぜ?」は育ってゆく。
施設には中学校までしかいることはできない。それで、花代さんは中学卒業後、生みの母のもとへ引き取られることになる。しかし、そこで花代さんを待っていたのは、さらに厳しい運命だった。
母親が自ら家に火をつけ、自死を遂げたのだ。身寄りのなくなった花代さんは、高校生活も諦めることになる。
「今にして思えばね……。彼女は彼女なりにきつかったんだと思います。借金もあったし、生活保護も受けていたみたいで。でも、その時は理解できなかったし、自分の気持ちもコントロールできなかった。自分は愛されていたのか、そうでなかったのか。必要とされていたのか。そんなことを考え続ける日々で、本当に辛かった。
狭い街だからすぐにニュースは広がって、ほうぼうで適当な噂が立てられる。頼れる親戚もいないし、そこからは、とにかく自分で生きていくしかないと思ったんです」
人づてに部屋を間借りさせてもらい転々としながら花代さんは、コンビニ、ベビーシッター、皿洗いなど、あらゆるアルバイトをして生活費を工面した。そんな日々の中、「このままじゃダメだ」という思いと、それでも自分の感情をどう整理していいか、どう表現すればいいかわからない苦しみに苛まれ、未成年ながら夜の街で飲み歩くようになる。どこに行ったらいいのかわからない、誰に話をしてもこの苦しみを理解してもらえない。救いを求めるように、アルコールを流し込む日々。
「“このままじゃダメになるよ。よく考えなさい”と言ってくれた大人もいたけど、そんな言葉ではどうしようもなかった。人の好奇の目も怖かったし、自分に存在する意味があるとも思えなかった。それで、当時はバーで働いてたこともあって、“福岡にバーテンダーの修業に行く”と言って長岡を出たの。こんな苦しい思い出しかない街からは、とにかく逃げたかった。あのままこの街にいたら、きっと死んでいたんじゃないかな」
23歳。二度と、この街には戻らないと思っていた。
転機となった言葉
花代さんの人生を大きく変えたのは、福岡でバーテンダーとして働いた店での経験。大都会・博多で一流どころを張るバーだけあって、マナー、一挙手一投足の運び方、全てが洗練されている。社長のカバン持ちとしてさまざまな福岡の大物にも会い、礼儀、立ち居振る舞いに至るまで一から叩き込まれた。その中で懸命に働きながらも、心の整理はつかないまま。
「親しくなった人に少しずつ自分の話をするようにもなっていて、みんな“もう過去のことだよ、気にするなよ”と言ってはくれるんですけど、それでも自分の中に引っかかるものがずっとあったんです。自分の中では何も終わっていないし、“もしかしたら、私の存在が母親を追い詰めたんじゃないか”という思いに襲われることもあって、いつも言いようのない感情に支配されていたから」
そんな時、勤めていた店の社長に呼び出され、話をするうちに「関の中で、過去はまだ終わってないのよね」と言われた一言が、胸に刺さった。
「その言葉をもらえたことによって、少しだけ自分の弱さや欠落した部分に向き合えるようになったんだと思います」
仕事は相変わらず忙しい。日々「お客さんの求めているものをどうしたらスムーズに提供できるか?」「場を読むとはどういうことか?」頭がちぎれるほど考える毎日。しかし、「ここで諦めたら、自分には何もなくなる」という気持ちをバネに、花代さんは働き続けた。
そして、過労がたたって倒れ、入院。その時、自然に湧いてきたのは「長岡に帰ろうかな」という気持ちだったという。懐かしくなったわけでも、福岡でのハードな日々に疲れたわけでもない。
ただ、「自分の街に自分の足で立たなければ、心配してくれた人に示しがつかない」という気持ちがそうさせた。
後編に続く
Text & Photos : Takafumi Ando