ふるさとの味「かぐら南蛮」を未来へ——“種を継ぐ人”の教え(前編)
日本の原風景が今も残る山古志で、昔から受け継がれてきた野菜があります。
その名も「かぐら南蛮」。
南蛮(なんばん)とは、「とうがらし」のこと。戦国時代の頃に日本に渡来したと言われ、全国各地で作られているとうがらし。多くの方が細長いシシトウをイメージすると思いますが、山古志の「南蛮」はピーマンが横に四角く膨らんだような形が特徴。シワの寄ったゴツゴツした見た目が神楽面に似ていることから、「かぐら南蛮」と呼ばれるようになったと言われています。
肉厚の果肉自体はそれほど辛くなくほのかに甘みを感じるのですが、種とその周囲の白いワタには強い辛味があります。その独特の味は地元の人々に昔から親しまれ、今では長岡市を代表する野菜の一つとなっています。
山古志の地で独自の進化を遂げた「かぐら南蛮」が、どのように作られ、受け継がれてきているのか? 種を守り続けてきた「山古志かぐらなんばん保存会」の会長・青木幸七さんを訪ねました。
註・この記事は、2017年8月14日にご逝去された、青木幸七さんに取材したものです。青木さんは取材途中で、記事の完成を待つことなく、お亡くなりになられましたが、ご遺族の許可を得て、生前の青木さんのお話しをまとめさせていただきました。前後編にてお送りいたします。
2017年4月3日 種まきと発芽
世間では各所で桜が咲き誇る4月上旬。山古志はまだ雪に閉ざされています。青木さんは、昭和11年(1936年)、山古志の池谷集落生まれ。200年以上続く農家8代目です。50歳までは出稼ぎに出ていたそうですが、その後は村議会議員を16年勤めました。
その傍ら、農業をしていた青木さん。古くからどこの家でも自家栽培していたかぐら南蛮を地域の特産品として販売しようという地元のJA(旧太田農協)から声をかけられ、平成8年(1996年)から出荷をはじめました。
今では、地元の農家にもかぐら南蛮を栽培するよう声をかける旗振り役も担っています。
「山古志でずっと作り続けられてきたかぐら南蛮は、身の厚さ、そして甘みがあり、辛い部分と、辛くない部分が分かれている。他の地域のものとは違う特別な南蛮なんです」
新潟県内でも魚沼系、栃尾系、下田系、上越系、そして山古志系と新潟県内でも数種類存在するかぐら南蛮。南魚沼系や他の地域のかぐら南蛮は全ての部位が辛いのですが、山古志のかぐら南蛮はワタが辛くて、まわりは辛くなく甘みがあるのが特徴です。その種は、各家庭で大切に「種採り」をしながら受け継がれてきたもの。青木さんも、ずっと種採りを続けてきました。
この日は、3月に蒔いたというかぐら南蛮の発芽の様子を見せて頂きました。
車庫の屋根裏部屋に案内され、階段を登ると「秘密の部屋」といった雰囲気。日当たりの良い窓際に、ミニチュアビニールハウスがあります。
その中には、濡れた新聞をかぶせたトレーが。
新聞紙をめくると培養土が。ここで自家採集した種から芽出しをします。
太陽の方へ、ぐぐっと芽を出すかぐら南蛮。雪がなくなる4月中旬までは、室内で育てられます。
「40年くらい前に、友達が『おい、青木。温暖化のせいで、長岡の平地じゃ南蛮ができなくなってきた。必ず特産品になるから、出稼ぎ辞めて南蛮やれや』と教えてくれたんです。昔は長岡の平場でも南蛮をつくる家は多かったようですが、今ではほとんど山場でしか作られていません。今思えば友人が声をかけてくれた頃から温暖化が始まったように思います」と青木さん。
その後、山古志に戻ってきてからは地道に自家栽培をしていたそうですが、平成7年に青果市場関係の品評会に出品すると「こんな良い辛味を持った作物を山に埋もれさせておく訳にはいかない!」との声があり、翌年から特産品として出荷が始まりました。
「もともと、山古志では畑の作物を出荷して、お金にするという発想がなかったんです。昔は流通技術も道路も良くなかったので、山場で現金化できるのは米と小豆くらい。まさか、かぐら南蛮がお金になるとは思っていなかった」。その気づきが、かぐら南蛮を広めようという思いにつながったと言います。
「山古志で種採りを続け、独自に進化してきたここだけのものを守っていきたい」と青木さん。中越震災後の、2010年には「山古志かぐらなんばん保存会」を立ち上げ。会長として、山古志かぐら南蛮を作り続けてきました。
2017年4月21日 育苗
山古志でも、ようやく桜の蕾が膨らみ始めた4月下旬。青木さんから「苗をポットに移しますので、来てください」と電話が。ご自宅にお伺いすると、2週間前には雪に埋もれていた場所に小さなハウスが建っていました。
中にはポットにひとつひとつ移されたかぐら南蛮の苗が。
このハウスで、畑に定植する5月中旬まで大切に育てられます。
「南蛮は軽いでしょ? 収穫が簡単だからジジイでも作れるんだ(笑)。鳥獣被害もないから、山でも作りやすい」と青木さん。
トレーで芽を出したかぐら南蛮を、青木さんの奥さんがポットに植え替えしていきます。
右手に持っているのは普通のハサミ。それを使って、ひょいひょいっとテンポよくポットに移していきます。どんな芽を選んでいるのか、どこを見れば良いのか、お聞きすると「元気そうなのだよー。見てわからんの?」と笑いながら、「これはダメ、これはいい」と次々と植え替えていきます。
うーん。素人には違いがわからない……。
ポットに移してからは日陰で2~3日、根が張るのを待ちます。その後、ハウスへ入れ、5月中旬まで水やりをしながら育てます。自分たちで育てる苗は350本用意するとのこと。農協からも200本ほど購入し、畑に植えるのは全部で500本以上になるそうです。
青木さんの奥さんも山古志の出身。
「隣の集落から嫁いで来てくれた。俺はほとんど出稼ぎに行っていた。トンネル堀りだったんだよ。俺は技術があったのか、難しい現場があると“おい青木、手伝ってくれ”と声がかかって北は北海道、南は和歌山まで行って、トンネル工事に関わっていた。最初は雪の降る冬の間だけだったけれど、そのうち夏場もやるようになって、ほとんど家に帰らなかったなぁ。その間、お母ちゃんが家のことも、子育てもしてくれた」と青木さん。
奥さんに、夫が出稼ぎに行くというのは寂しくなかったですか?と聞くと、このあたりでは当たり前だったという前置きのあと、「青木家に嫁いできても、冬の間は夫もおらん。子どもができるまでは嫁ぎ先の家族の中での生活。冬の間はずっと家にいる。何をしていたかって?雪下ろしをするか、内職をするか。家でじぃっとしていたんだよ」と教えてくれました。
昭和45年(1970年)頃になって道路がよくなり、冬場も車で移動できるようになって山古志の出稼ぎは減っていったといいます。それまでは、働き盛りの男衆は冬場は地域から離れる。それがこの地域の生活リズムだったのです。
こちらの小豆も、代々種採りを続けてきたものだそう。「この『大納言』は北海道のものよりかなり大粒なんだ。小豆もタヌキやカモシカ、ハクビシンなど鳥獣にやられないから、山では作りやすい」。
駐車場の天井には燕の巣が。青木さんは「燕も家族なんだよ。出入りできなくなると困るから、駐車場のシャッターは閉めないで少し開けておくんだ。ヘビがヒナを食べてしまうこともあるけれど、ヘビも家族。山にいる生き物みんな家族だと思っている」。
青木さんは、年齢と体調により、今年で山古志かぐらなんばん保存会の会長を退く予定です。保存会には32人が所属しており、うち10名ほどが出荷しています。「その中から引き継ぐ人が出て、ずっと山古志のかぐら南蛮を受け継いで行って欲しい」。
→後編へ続く。
Text and Photos: Yorimitsu Karasawa