コミュニティをつなぎ直し、「信頼ベース」の地域を再びつくる。小さな町内会の大きな挑戦
時代とともに断絶していった
農村地帯のコミュニティ
「昔は子ども会といったら、みんなで地引網に行ったりお神輿を担いだりして、学校とは違う、ちょっと非日常の楽しいものでした。大人たちもその脇でビールを飲んでたりして、大人は大人で楽しそうだな〜なんて思ってましたけど、今の子どもたちはそんな経験もなかなかできない。だから、子供たちのために町名のハッピを新しく作ったんですよね」
大柄な体、パーマヘアにオーバーオール。お祭りの話をする様が見るからに楽しそうな大竹さんは小学校3年生のときに家族で下々条に越してきて以来、数年の海外生活を除いて人生のほとんどをこの地で過ごしている。当時の下々条は、ほとんどが田園地帯だったという。
「見渡す限り田んぼで、家といえば大きな農家さんばかり。私が来た頃にちょうど工場も少しずつ立地し始めていましたけど、地域での発言力を持っているのはだいたい農家さんでした。私は鉄工所のせがれでしたけど、友達もほとんど農家さんの家の子だったので、みんなで川に入って魚を取ったり、用水沿いにずらっと並んでるお家の……柿とか、栗とかをもぎながら食べて帰ったり、ゴミを焼いてる焚き火の前で火遊びをして怒られたり(笑)、子供同士は仲良しでしたね。ほとんど農家なので大人たちが昼間から地域にいるし、悪さをしたり危ないことがあるとすぐに怒られたり、揉め事があると親同士で話し合いをしたり。地域が全員で子育てをしているという感覚がありました。いわば、コミュニティがしっかりしていたんですね」(以下、発言は大竹さん)
誰もがお互いの顔を見知っていて、当然のこととして地域全体を同じ文化を共有する共同体だと考えていた時代。その頃と比べると、まちの姿は大きく様変わりした。
「工場の誘致とともに宅地の開発が進んで、新興住宅地が三つくらいできていったんです。そっちの人口がどんどん増えてくる。新興住宅地に引っ越してくるのは30代・40代の若い人たちだし、子供も多かったりしますから、活気があります。だけど、地域の歴史は知らない。一方、ずっと土地に根ざしてやってきた農家さんたちのほうは、時代の流れで若者が外に出てしまったりしていて、若返りがそんなにないんですよね。そうすると、ライフスタイルも感覚も全く違うので、双方の話が全然合わない。そうすると、お互い『なんだか面白くない』ということになってくるんですよね」
農家ではないとはいえ古くからの下々条の住民、つまり感覚的には農家側だった大竹さんが新しい住民とのすれ違いを意識したのは、海外から下々条に帰ってきて、新興住宅地に自宅を建てたことがきっかけだった。当時の大竹さんと同世代、30代の子育て世帯が中心の新住民たちは、町内会に入ってはいるものの、その活動が「自分たちのためになっている」と感じていなかったのだ。
「みんな、『町内会費を納めていても、何に使われているのかわからない』『役員たちの飲み会や旅行に使われているだけなんじゃないか』と言うんですよ。そもそもコミュニティが断絶してしまっていて会話もないし、みんな用途がわからないわけです。神社の修繕にも使うよという話をしても、『神社なんて家から遠いし、自分たちには関係ない』となる。
果ては、住宅地の人たちが町内会を脱退するという話もありました。だけど、私は昔から農家のじいさんたちのことも知っているし、彼らが何を考えているのかも理解できる。村の生活や行事が何世代も続いていく中で神社がどんな役割を果たしてきたかもわかるので、『いやいや、脱退したって、神社も田んぼも祭りも失うだけだよ』という話をしたりして。農家さんたちは年をとる一方だし、今は30代の人たちも、やがては年をとりますよね。このままだと、そうなったときに人間関係や文化が何も継承されないまま、誰にも愛着を持たれないようなまちになってしまう。これはいかんな……と思っていたら、ちょうど町内会の役員の改選の時期が来て。若い世代と年寄りの世代を知っていて、両者をつなぐことができるのは自分だけだなと思って、立候補したんです」
「数字は明快に、世代はごちゃ混ぜに」
大竹流町内会運営の最大のルール
2020年2月に下々条の町内会長に就任した大竹さんがまず取りかかったのは、「町内会費の透明化」だった。広報パンフレットを制作し、そこに前年度・前々年度の決算書を転載するという思いきった情報発信を実施。これには会費収入・支出といった数字だけでなく、注記として「長年風雨にさらされて断線・発火の恐れがある地域の防犯灯の機材を交換します」「公民館などみんなで使う施設の災害保険を、風雪水害にも対応したものに変更しました」と言った用途も書き込まれている。ただ「●●費」のような項目名と数字が並んでいるだけでなく、「みんなのためのお金を使っています」ということをきちんと伝える言葉が加わることによって、単なる決算書も生きた書類になるのだ。
「とにかく、自分たちのお金が何に使われて、具体的にいくら、どのように地域の役に立っているのかを明らかにして知ってもらうこと。そうして初めて、お金の使い方に興味を持ってくれるんですよね。『あ、こういうふうになっているんだ』と思ってもらえれば、それにいい/悪いが言える。無関心なままが一番よくないんです。それよりはネガティブな反応があったほうがまだいいですからね。また、この地域には企業の町内会員も数十社あるんですが、そうした企業さんも、これまでただ町内会費を取られているだけで何も地域に参加している実感がなかったと思うんです。そこを、すべて広報に社名を出して『こういう会社も地域の仲間なんだよ』と示すことを始めて。まず、この地域が新しい住民も企業も、みんなで作っているものだということを、それぞれに感じてもらうところが第一歩でした」
さらに大竹さんは、これまで敬老会費などに厚めに割り振られていた予算を子供会、消防団といった地域の多世代にも均等に配分するようにした。これには、それまで町内会を担ってきた世代の方々からの反発もあったという。
「それまでの町内会は70代の方々が中心で、いわば自分たちだけでお金を使うという発想でしたからね。老人会もあるんですけど、一部の仲良しだけで集まっていて、なかなか他の人と交流がない。女の人はまだ横のつながりがあるんですけど、ずっと会社で働くことしかしてこなかった男の人たちは『俺はもう自分の子も独立したのに、なんで子どものために金を使われないといけないんだ』なんて言うんですよね。
でも、不思議なことに、その上の世代……80代とかの、要は僕らが小学校の頃に悪さをしながら帰ってたらこっぴどく叱られたような農家の方々はすごく協力的で、『どんどんやれよ』と言ってくれるんです。その下の世代は、定年まで昼は会社で一生懸命働いて、ようやくリタイアして数年という方々。当時のお父さんたちなので、家のこともあまりしなくてよかったでしょう。つまり、地域にいて、地域で活動をしていた時間が圧倒的に短いんですよね。それは仕方がない。皆さん、頑張ってこられた方々です。ただ、地域のこの先を考えたときに、その発想のままでは絶対に先細る。皆さんには皆さんの経験してきたことがあるんだから、それを地域でもっと発揮してもらえるといいのに……と」
その一手として、大竹さんが考えたのが「世代をごちゃ混ぜにする場を作る」ということ。若手が増えた町内会の部会に、テーマによってそれぞれ地域の昔の事例を知っていたり得意分野がある70代以上の方々を相談役として招き、コミュニケーションをとるようにしたのだ。その結果、「あそこの道は、昭和何年にこういう経緯があって開いたんだよ」「あれは昔こうして解決したんだ」といった、若手だけでは知り得ない知識や、先達たちの課題解決の知恵や経緯が地域に共有されることになった。
一方で、若手には若手の動き方もある。
「困りごとがあると、これまでは地元の市議会議員や県議会議員に陳情という形でその解決を図っていたんですよね。でも、若い町内会員の間には行政組織で働く人もいるし、『そんなことだったら、直接役所に来てくれたほうが早いよ』と教えてくれたり、動いてくれたりする。それによって、過去10年動かなかったものが、すぐ解決したりしたこともあります。お年寄りたちも『俺たちの世代ではできなかったけど、できたねえ』と喜んでくれたりして、また協力的になってくれる人も増えてね。それぞれの持ってるものを持ち寄って、少しずつ地域を前に進めていけている感じがします」
「みんながお互いを知っている」
単純にして最高の防犯・防災戦略
町内会長として、古老たちと改めて話をする機会が増えた大竹さん。そのうちに、これまで地元からいかに多くのものが失われてきたかということにも気がついた。
「80代の方々が言うには、さらに昔の下々条では、地域芸能がかなり盛んだったらしいんです。村の神社の境内に昔からの舞殿があって、私の子供の頃には単に年寄りがカラオケをする場所にしかなってなかったんですが、かつてはそこに農作業を終えた農家さんが奉納の舞踊や、劇の練習をみんなで行っていて、土地のお祭りで踊ったり、他の集落にも披露しに行くことがあったと。夏には花火も上げたりしていたそうです。そういう文化があったのを、いつしか『面倒くせえや』ということで、数十年の間になくしてしまったんですね。今でも祭りをやればできるけれど、土地の過去の記憶と切り離された祭りなので、どこにでもあるくじ引きとか出店みたいなものしかない。本当は、この地域にしかないものがあったはずなんです。
他にも数十年でなくしてしまった文化や習慣はたくさんあるので、そういうものを復活させられないかと思って、資料を調べたりもしているんです」
あるとき、公民館を片付けていた大竹さんは、奥の方からボロボロの装束を発見した。ある古老に聞いてみると、それがかつての地域芸能の衣装だったという。
「全部、手作りだったんですよ。農作業が終わってからみんなで手作りして、それを大事に受け継ぎながら着ていた。『テレビも娯楽もなかったから、他にすることがなかったんだよ』とお年寄りたちは言いますが、きっとそれだけじゃなかったんですよね。『大変だったけど、みんなでやるのは楽しかった』と言って、昔話が尽きなくなる(笑)。そういう、人との接点が地域をつくっていたんですよね。
僕の住んでいる場所も、本当ならどこにでもある、核家族だらけのよそよそしい新興住宅地になっててもおかしくなかったかもしれないんですよ。だけど、うちの周りは、なんだか酒好きが多くて(笑)。僕が庭でバーベキューセットを洗ってたりすると『大竹さん、缶ビールでもどうですか』といってよそのお父さんが声をかけてくる。そうしたら、他の人たちも集まってきて酒盛りが始まる(笑)。『ご近所さんがいい人たちでよかった』とか言って。みんな、昼はやっぱり会社に勤めたりして地域にはいないわけですが、人との接点は求めてたんですよね。お父さんたちが仲よくなると、子供のつながり、お母さんたちのつながりとはまた別のつながりができて、コミュニティの厚みが増すわけです。上の世代の人たちの話を聞いているうちに、この数十年で、地域全体にそういう厚みがなくなっていたんだなと思いましたね。
お祭りだって、もちろん神社の奉納とかそういう背景はあるけど、一番は人と人を結びつける場所だったわけじゃないですか。お年寄りに『うちの両親は、村の祭りで知り合ったんだよ』とか聞くと、なんていい話だ!と思う。そういうものが今なくなっているのであれば、僕が町内会長としてやるべきことというのは、予算の配分のような仕事だけじゃなくて、人と人を結びつけることだなと。そういう場を作ることが、本当の仕事なんだと思うようになりました」
大竹さんは町内会長に就任後、地域の防災体制の見直しを行った。従来は防災訓練などを行う程度だったが、いざ本物の災害が来たときに、訓練に参加していた人々が全員地域にいるとは限らない。そこで「地域のメンバーが相互に見守る体制」を作ることにしたのだ。
「平日の昼間とか、働き盛りの世代が外に働きに出ているときに地震が起こったりする可能性もありますよね。ですから、『全員いる』という前提の訓練がすべてではいけない。そのとき、地域には子供やお年寄りといった弱い人が残されることになるわけです。だったら、町内を細かく班で割って、その班の中の人たちはお互いのこと、家族構成のことなどを知っているようにする。何かあったときに『あの家はおじいちゃんがいたはず』『小さい子がいたはず』と思い出せるコミュニティ作りというのが、一番の防災・防犯なんじゃないかと考えたんですよね。班単位での飲み会には、町内会で少し補助金も出します(笑)。
もちろん、ちゃんと環境整備にも予算を使いますよ。敬老会費は半額にさせてもらったけど、防犯灯のLED化のために180万円の予算を増額しました。LEDは寿命も長いし、電気代も安く済むので、長い目で見れば地域の得になることのほうが多い。そうやって、ソフトとハード、両方でコミュニティをつくっていくことが大事だと思っています」
どんな事情を抱えた人も
みんなが一緒にいられる食堂を
そんな中で立ち上がったのが、「黒条みんなの食堂」の構想だ。全国的にいわゆる「子ども食堂」が一般化している中、「みんなの食堂」というネーミングにしたのにはわけがある。
「若い子育て世代の話を聞いていたら、お母さんたちの中に『愚痴をこぼす相手がいない』という人が多かったんです。自分は産休だったりでずっと家にいて、夫が働きに出ている間、ひとりで子供にご飯を食べさせ、家事をして、自分自身の心身が休まることがない。長岡市には子育て支援の窓口もあるけど、そういうところに電話するのも勇気がいる……という人もいて。だったら、せめて月に一度くらいは、そういうお母さんたちが休める日を作ろう……というのが最初だったんです。この公民館にブルーシートを敷いてみんなで野菜を切ったり、寸胴でカレーやラーメンを煮込んだりして、そこにみんなが集まってくれたんですが、自然とお母さんたちが子育ての悩みや学校の情報などを共有する場ができたんですね。『これはいいぞ』と思いました。
『みんなの食堂』という名前にしたのは、『子ども食堂』には……その名前が悪いわけじゃないんですが、世の中で “経済的に困っている家庭のもの”というイメージがついてしまっているから。ここは狭い学区なので、本当にお金に困っている人も『困っていることを知られたくない』と思ってしまって来づらくなるし、例えばお金じゃなく人間関係で困っている人がいても『お金に困っているわけじゃない自分が行くわけにはいかない』と敬遠されたりしそうだな、と思ったんです。『みんなの食堂』ということにしておけば、どんな事情を持っている人も“みんな”の中に紛れられるでしょう。そういう人たちがみんなでここに来て、人間的なつながりを作っていけるといいなと思っているんです。学校が夏休みの間は給食がなくて困ってしまう子供さんもいるみたいで、小学校の先生から『助かってます』と言ってもらったこともあります」
子ども食堂はフードバンクななどからの寄付で成り立っているところも少なくないが、「黒条みんなの食堂」では、食材は大竹さんのツテで企業や地元農家から提供を受けている。
「知り合いがいる会社を中心に、余り物とかじゃない、すごく新鮮な食材を譲っていただいてます。地域の農家さんたちも、『子供が野菜嫌いになるのは、美味しくない野菜を食べてるからだ。子供たちのためだったら、一番いい野菜を持っていきなよ』とか『俺たちも昔はこういうことができたかもしれなかったけど、しなかったんだよね。俺たちの代わりにやってくれよ』と言って、たくさん協力してくれる。ありがたいです。調理にも、ミシュランの星を取ったような店に勤めてる本職の料理人が手伝ってくれたり、普段は消防署員だけど、毎回マドレーヌとかどら焼きとか、おいしいスイーツを作ってくれるメンバーもいたりして。他にも、こういうことをやってるんだというのが知り合いづてに広まるにつれて、いろんな地域に住んでる友達が材料を送ってくれるようになりましたね。
調理のボランティアも子育て中のお母さんたちがメインなんですが、自分の子供をそこで遊ばせておいて、積極的に手伝ってくれる。参加してくれているシェフにポテトサラダの秘伝のレシピを教わったりして、楽しんでくれてます。みんなが義務感で仕方なく参加するのではなく、みんなにとって楽しい場になっているのはすごくうれしいです。
食べるほうとしても、“食”って、とても大事なものじゃないですか。何でもいいからお腹がいっぱいになればいいというわけじゃない。月に一度でもいいから材料も調理も心のこもった、本当に美味しいものを食べたという記憶があれば、大人になって辛いことがあったりしても食べることを大事にできるし、自分の人生を大事にできると思うんですよね」
そう語る大竹さん。その思いは、自分自身の辛い体験から生まれたものなのだという。
支援を受けることをためらった経験が
「開かれた町内会」につながっている
「私は今でこそこんな自由な感じでやってますけど、もともと鉄工所の息子で、当たり前のように家の会社に入って、役員として働いてきました。鉄鋼業の景気も少しずつ悪くなっていた頃でしたし、なんとか経営をしていかないといけない。毎日朝の6時には会社に行って遅くまで働き、出張も頻繁。ストレスも溜まるので毎日のように酒を飲みにいき、朝の3時くらいまで飲んでました。週に6日、代行運転を頼んでましたからね(苦笑)。妻にもワンオペ育児を強いてしまうことになって。申し訳なかったんですけど、納期や売上に追われるストレスの中で、とにかく働いて飲んでいないと精神が保てなかったんですね。そういう生活をしているうちに、倒れてしまったんです。四十代半ばの頃でした。
会社も休んで傷病手当をもらいながら一年半、日の光も浴びられない状態で、ほとんど家にこもって暮らしていました。その間は、『自分は何なんだろう』という気持ちでいっぱいで。子供の頃から何の疑いもなく会社を継ぐものだと思って生きてきて、それ以外の道を知らないわけです。数年間カナダで生活したことで少しは視野も広がったと思うんですが、それによって、いよいよ現実の生活と自分の思いとの折り合いがつかなくなったんですね。『死にたい』とすら思っていました」
暗闇の中で、自分と向き合うことになった大竹さん。少しずつ、「愛する家族もいるのに、こんなことでいいのか。自分を騙し続けて生きていくことは、もうできないんじゃないか」そう思うようになり、会社を辞めた。
「これから何のために生きようと思ったときに、やっぱり家族のために生きたいし、地域のために生きたいし、これまでの人生で出会ってきた人たちの間をつないで、少しずつ恩返しをしていきたいという気持ちになった。そしたら、ものすごく楽になったんです。何も怖いものはないなと思った。だって、大事なもののために、それまで自分の人生の唯一の道だと思ってきたものを辞められるくらい勇気があったんだから。だから、町内会の予算をひっくり返して文句を言われるくらい、なんでもないんですよ(笑)。収入はガッツリ減りましたけど、妻も『共働きだし、今まで培ったものでいろんなことを試せるチャンスなんだから、一緒に頑張ろう』と言ってくれて。『みんなの食堂』も一緒に運営しているし、今ではいつも一緒にいて、どんなことでも相談できる相手になっています。
今も元気にやってるので、あまり信じてくれる人はいないかもしれないんですが……(笑)、ここ数年、ようやく人にこの経験を話せるようになりました」
病気をしている間に行政の支援や税控除の仕組みなど、さまざまな情報に触れた大竹さん。しかしながら、そこにアクセスすることに抵抗感を覚える自分もいたという経験が、「みんなの食堂」のオープンな雰囲気を作っているのだ。
「自分はダメになった人間なんだ……という気持ちが強くなってしまって、素直に支援を受けることができなかったんですよ。そういう経験があるもので、困っていても『こんなこと、人に言えない』という気持ちはとてもわかる。そういうときは、自分自身の価値がないように考えてしまって、誰かの助けを受けることなんてとてもできないという気持ちになるんですよね。それって、すごくその人なりの機微があって、柔らかい部分じゃないですか。病気になるまで、人が何かしらの助けがある方向に一歩踏み出せるようにするのって、行政がやる仕事だと思っていた。でも、行政にも限界があって、そういう細かいところ、柔らかいところにはなかなか入っていけないですよね。
だから、地域の近い人たちでそれをやっていくことができるのなら、その仕組みを作りたいんです。明るいほうに一歩踏み出すきっかけが一緒にご飯を食べることだったりしてもいいわけだから、近づいてくる人にはできるだけ開かれていたい。『同じ釜の飯を食った仲』なんて言うじゃないですか。一緒に温かい食事をしながらあれこれ話をすることで、『助けを求められない』と思っていた気持ちも柔らかくなるかもしれない。今はコロナの影響でお弁当を渡すだけという形になっていますけど、最初の何回かはみんなで会食ができて、お母さんたちも子供たちも本当に楽しそうだったので、あれを早くまたやりたいですね」
町内会は「最強の異業種交流会」!
誰もが楽しく活動できる場にしたい
新型コロナウイルス感染症の出口が見えない中、町内会の活動にも制限が生まれてしまっている現状ではある。しかし、大竹さんはそこにも光明を見出しているという。
「コロナになってから一つだけいいことがあったと思っているんです。若い家族なんかだと、これまでは休日には車に乗ってどこか遠くに遊びに行くばかりで、地元で時間を使うことなんてなかった。それが、今はそうそう遊びにも行けないので、地元で子どもたちと遊んでいるわけです。リモートワークでお父さんが家にいたりもしますしね。それは、すごくいい光景だと思います。新興住宅地の人たちもそうやっているうちに地元にもおもしろい場所があることを知っていくし、何より、子どもたちが自分の頃みたいに道端を走り回ったり、路面にチョークで落書きをしたりして『こら!』と怒られたりしているの、すごくいいなと思うんですよね(笑)。
遠くの素敵なお店だってもちろんいいものはいいんですけど、もっと身近な、自分の生活の延長にあって具体的なイメージができるもの、顔がわかる人、そういうもののよさというのがある。そのことに気づく人が、少し増えたんじゃないかなと思います」
高齢化、人口減と厳しい話題が目につきがちな地方都市にあって、次の世代につながる「まちづくり」「ひとづくり」は急務と言われる昨今。かつては若手会社役員としてJCに参加し、現在は地域に密着していわばグラウンドレベルの活動を行った経験を持つ大竹さんが気になっているのは、その「言葉の大きさ」だという。
「会社役員をやっていたときは、JCの会合なんかで『まちづくり』『ひとづくり』なんて話をみんなしていたけど、あれだけが正解のような気になっていた私の考えは浅はかでしたね。長岡という大きい単位の中で、確かに抽象的な大きなビジョンはもちろん必要です。今はそれとともに、町内会みたいな小さな単位で具体的なことといちいち直面しながら考えて行くことも大切だなと思うようになりました。『あの人はこんなことに困っている』『この人はこんな人だ』みたいな、その地域特有の事情をちゃんと見て、初めてそういうことを言えるようになるわけで。そういう意味では、実は町内会って、あらゆる世代・あらゆる仕事の人たちが集まった、最強の異業種交流会なのかもしれないと思います。このメンバーが 集まれば、なんだっておもしろいことができる。
だから、私はとにかくこの下々条を、みんなが居心地よく、楽しく暮らせるまちにしたいんですよ。町内会はそのための場を用意するだけで、そこに来た人たちが気がついてみたら仲良くなってくれていれば、それでいい。このまちが楽しくなって、若者が『下々条なら自分も何かできるかな』と思って住んでくれれば、なおいいですよね」
抽象的な未来像や借り物の言葉ではなく、具体的なイメージをもって地域を「楽しい場所にする」ことを何よりも大事にする大竹さん。自分自身が三児の父であり、「病気から立ち直れたのも、うちの子たちのおかげだと思います」と語りながら、その「楽しさ」は常に子どもたちの未来のほうを向いている。
「子供たちも、この地域に生まれて、いつかは外に出ていくかもしれない。でも、『みんなで公民館で食事したね』とか、『お祭りの時にハッピを着たね』なんて後々になって話したり、思い出してくれたら……地域の誇りとまではいかないけど、楽しかった思い出とともにまちのことを考えてくれて、そこからこのまちを少しでも次の世代につないでいこうと思える要素になるかもしれない。そうなってくれれば最高ですね。町内会をやるのは大変ですけど、子供たちに楽しんでもらうために、なんとか地域のみんなで楽しんでやっていきたいなと思ってます」
Text / Photo: な!ナガオカ編集部